地上的使

「私がエゴイストだったことは認めるよ。でも愛の身勝手さに耐えられない人は犠牲的な愛を捧げられるにも値しない」

ハインリヒ・マン『罪なき女』

 瓦礫やがらくたの積み上がった廃材置き場で、子どもたちが元気よく転がりまわって遊んでいた。メテオ戦役の壊滅的な影響は、とくにかつてのスラム街のような貧困地域では、永久に解消される見こみがなさそうだった。人々は廃材を利用して家を建て、あの上品で清潔な連中をおののかせる、不衛生で密集した迷路のような町並みをふたたび作り上げつつあった。
 日々自分が生きのびるのに精一杯という連中が、それでも互いに物資や食料を融通しあい、子どもたちのために遊び場すら作ってやるような余裕をもっているのはなぜだろう。廃材置き場には、子どもたちのために、古タイヤを利用したブランコや、錆びついた鉄パイプを組み合わせたジャングルジムのような遊具が置かれた一角があり、子どもたちが目を輝かせてはしゃぎまわっている。浮浪者のような男が、その横の地べたに座っていて、ひとりの男の子を肩車しながら、薄汚れた指人形を使ってお話をしてやっている。小さな子どもたちは彼をとりかこんでお話に夢中になっており、その少し後ろで、もっと年のいった少年が軽蔑するような目つきで彼らを見ている。
 リーブ・トゥエスティは、たしかにこれらの見捨てられた貧しき者たちに責任があった。正確に云えば、都市開発部門の責任者だったころからそうだった。彼はその魔晄都市ミッドガルの建設維持という仕事に没頭してきた。それはときに、まったく胸の悪くなるような仕事だった。神羅カンパニーは、さらなる文明の発展のため、世界の安定のために、魔晄エネルギーとこれらスラムの貧民を必要としていた。スラムの貧民は、あるいは世界中にあふれる貧民どもは、神羅カンパニーが慈悲深く恵みを垂れる相手であり、同時にそれをふたたび取りたてる対象でもあった。貧民街はまた、ひとつの象徴としても、ぜひとも必要だった。プレートの上の連中の自尊心を満足させるため、また彼らにさらなる忠誠を誓わせるために。なんといっても、彼らが裕福であらゆる文化を享受できるのは、神羅カンパニーの与える仕事のおかげであったから。
 ひとつのシステムが崩壊し、新しい仕組みは見いだせないままだった。WRO局長リーブ・トゥエスティの心は晴れることがなかった。世界には援助を必要とする無数の人間たちがいた。人手が足りず、物資も足りず、なにより圧倒的に金が足りなかった。こんな非常下の世界では、どうしても権力と資金とをひとところに集中させねばならない。こうして独裁が誕生する。歴史はくり返す。リーブ・トゥエスティは独裁者になるだろうか。それとも慈悲深き救い主になるだろうか。無数の貧しい者たちに、その日生きるか死ぬかといった連中のすべてに、責任をもつことができるだろうか。彼は作れるだろうか。都市を、システムを、ひとつの世界を。
 結局のところ、リーブ・トゥエスティはまたなにかを作ろうとしている。心を尽くし、思いを尽くして、神の創造の御業に仕えること。あるいはそれをおのれの手で行うこと。美しくない世界。汚らしいがらくたと薄汚れた人間どもであふれた世界。なぜリーブ・トゥエスティはこれらのものにすべてを捧げようとするのか。おのれを賭して改革しようとするのか。この複雑怪奇な世界。醜く救いようのない世界。それなのに、ときおりはっとするほど美しい世界。
「……この世に美醜の区別あるかぎり、わたくしは悟りをひらかぬ……ウータイのホトケとやらは、またすさまじいことを云ったものだ」
 相変わらず嫌みっぽく、ルーファウス神羅はそう云った。リーブ・トゥエスティは微笑んだ。すばしっこそうな少年が、いまほこらしげにあぶなっかしく組まれたジャングルジムの頂点にそびえたち、見事な飛びおりをやってのけ、華麗に着地した。子どもたちは感嘆の声をあげた。ひとりの英雄が、いま誕生したのだ。
「あなたがこんなところへわざわざいらっしゃるとはね」
 リーブはふりかえって云った。ルーファウスは彼から少し離れたところで、子どものようにポケットに両手をつっこんで立っていた。
「きみを探しに来たのだ。スラムだろうがコレル砂漠のど真ん中だろうが、わたしにとってはどこも同じだ、目的のためなら」
「確かにあなたは正真正銘そういう方です。それよりもあなたがウータイの経典を読んでいらっしゃることのほうが驚きですよ、わたしには」
 ルーファウスはちょっと顔をしかめた。
「きみまでツォンのようなことを云うのはやめてくれ。実はセフィロスのせいだ。あの男が敵を知らずんばの精神でウータイの哲学書を片っ端から読破していた時期に、運悪く出くわしてしまったのがまずかった」
 ルーファウスがごく自然に口にしたその男の名は、いまだなにか異様な力を保持しつづけていた。関係者のあいだだけでなく、ほとんど世界じゅうで。そしておそらく一番には、クラウド・ストライフの胸のなかで。ルーファウスがついてこいというようなしぐさをしたので、リーブは廃材置き場に背を向けて、歩きだした。
「わたしは若かった。いわば対抗心を燃やしたのだ。あの男も若かったが、あの男が若さというものを本当にもったことがあったかどうか。そんなものを持つにはまともすぎるような男だった。それでいてさらにまともさを試されることになったのは皮肉だったが」
 近くに車が止めてあった。ルーファウス神羅愛用の高級車はスラムに置いておくにはあまりに危険な代物で、案の定ルードが威嚇するように立って、見たこともないようなぴかぴかの車に興味津々の子どもたちを寄せつけないでいた。いまも昔も、スラムには子どもがあふれている。子どもたちは「上のやつら」の匂いをなぜか必ずかぎつけることができ、どこからともなく湧いてきて、つきまとったりしかめっ面であっかんべをしてみせたり、すれ違いざまにものを投げつけてきたりするものだ。視察に行った部下が汚泥と小麦粉爆弾の被害にあって戻ってきたときには、リーブは同情しながらも笑いをおさえられなかった。いまいましくて、憎たらしい子どもたちのいる世界。彼らの存在がなかったら、世界はどれほど貧しくなってしまうことだろう。
「……クラウドさんはまだ見つかりませんか」
 助手席に座っていたレノに挨拶を送り、ルーファウスと並んで後部座席におさまってから、リーブは訊いた。クラウド・ストライフが突然失踪してから、もう半年が過ぎていた。
「あいにく見つからないな。きみの愛するクラウド・ストライフも、そして当然のことながらセフィロスも。こちらのほうがわれわれには大問題なのだが。今日きみに声をかけたのは、それとは別の件でね……といっても、やはり彼らに関することには変わりないが」
 ルーファウス神羅いわく、クラウド・ストライフ探しは彼の暇つぶしであり、同時にまた必要な仕事でもある。そもそもクラウド・ストライフの失踪以前から、タークスの連中はその行動をできるかぎり監視しようとしてきた。あの星痕症候群の一件以来、特にその傾向は強まっていた。ルーファウスは、セフィロスの復活が近いことをもう疑っていなかった。あの男はきっとふたたび肉体をそなえてこの地上に戻ってくるだろう、ジェノバのリユニオンだかなんだか知らないが、あの男はやると決めた以上やるに違いない、そしてクラウド・ストライフはそのとき、一番最初にあの男の復活に気がつくか、あるいはあの男がクラウド・ストライフに会いに行くかのどちらかだ、間違いなく、とルーファウスは云った。
 タークスの連中にとっては、もちろんそれは仕事だ。いなくなったひとりの男を根気よく追いかけられるのは、親族か、それを仕事にする者だけだ。かつての仲間たちのあいだでは、はじめ熱心だったクラウド・ストライフ探しの熱はしだいに冷めてゆきつつある。ある者は探す行為よりもおのれの喪失の悲しみのなかに埋没しており、ある者は早くもほとんどあきらめており、またある者は無邪気に、たしかにかなり身勝手ではあるが、クラウドはちょっとした気分転換でもしているだけだろうという程度に考えていた。
 クラウド・ストライフにもっとも親しいティファ・ロックハートはといえば、ほとんどかたくなと云ってもいい態度で、彼の帰還を信じて疑っていないかった。疑うそぶりを見せる者には、きっと怒りをこめた視線を向けた。彼女はしだいに張りつめた、近寄りがたい気配をまとうようになっていた。なぐさめの言葉をかけられるような雰囲気ではなかった。クラウド・ストライフを少しでも悪く云うようなことは許されなかった。彼女は神経質に、もどかしそうに、不安げに、こう云いたげな顔でいらだっていた。
「ええ、そう、わたしは裏切られたように感じている。実際ひどい話だと思うの。でも、わからない。そもそも裏切るとかひどいとか云えるようななにかが、わたしたちのあいだにあったのかどうか、確信が持てない。わからないの……わたしたちの関係はなに?」
 それは確かにひとつの謎だった。ふたりが恋人なのか、パートナーなのか、数々の苦難をわかちあった戦友なのか、どういう関係に落ちついていたのか、誰も知らなかったし、ふたりとも語ろうとしなかった。シドなどは口悪く、あの二人は「精製したての油みてえに」清らかな関係に違いないと云ったが、シドはふたりのあいだに横たわるなにを感じてそうのたまったのだろう。
「まったく、なぜこのわたしが彼らのためにここまで心を砕かなくてはならないのだ?」
 リーブ・トゥエスティの前では、ルーファウスはときどきこうして愚痴っぽくなる。WROの得がたき出資者のひとりである彼は、まるで金を出してやっているのだから少しくらいこちらの云いぶんも聞きたまえと云うかのようだ。そのような甘えは確かにある。必要なものはすべて手にしており、なにひとつ欠けてないと云いたげなこの男にしたところで、ひとりの人間なのである。
「彼らにかかる労力はまったく不当なほどだ。分不相応というものだ、もうとっくに死んでいていい男と、その男を殺すことしか頭になかった男の分際で。一度はとっくに死んでいていい男を殺すために不当な労働をし、今度はこれを探しだすために、わたしはまたたいへんな苦労を……」
 ルーファウスは話しながら、なにか受けとるために助手席のレノに腕を伸ばした。だがレノは求めるものを渡さないで、咎めるような顔でこう云った。
「ちょい待ち、社長、なんで自分が苦労したみたいに云ってんだ。頑張ったのはおれだぞ、と」
「細かい男だな、大成しないタイプだ。それにどうせ、実際に労働したのはルードのほうだろう」
「そりゃ、おれは頭脳派だからしょうがないぞ、と。適材適所ってやつだ」
 レノはふふんと笑って、ルーファウスの手に書類の束を差しだした。
「これは八年前の報告書なのだが」
 ルーファウスは閉じられたページをぱらぱらとめくりながら云った。
「実に興味深い内容でね。こんなに面白いものの存在をこのわたしに隠しておくとは、ツォンはまったく忠誠心のかけらもない男だ。この報告書はツォンが書いたのだが、ある事情から日の目を見ずに終わってしまって、本社ビルの極秘資料のあいだに挟まれて眠っていた。それをわたしは苦労して発掘し……」
「おれたちが苦労して、な」
 レノが懲りずに手を挙げて云った。
「読んでみてたいへん感銘を受けたので、ぜひきみにプレゼントしたいと思ってね。きみの愛するクラウド・ストライフのことが書かれた報告書だ」
 リーブは顔をしかめた。
「クラウドさんが……八年前に報告の対象に? なぜです? 当時の彼はただの一兵卒にすぎなかったはず……」
 ルーファウスは愉快そうに小さく笑って、助手席のレノを見やった。
「こういうことをやんわりと伝えるにはどういう表現があると思う、レノ? わたしは彼にあまりショックを与えたくないのだ。リーブ・トゥエスティ局長はクラウド・ストライフを敬愛しておられるのでね」
 レノがなにやらずるがしこい顔で、ちょっと考えこむように視線をさまよわせたのが、ミラー越しに見えた。
「どうもこうもないぞ、と。こういうことは、ズバっと云っちまったほうがいいって相場が決まってる」
「そういうものか? では、おまえならどう云う?」
 レノは助手席から体を起こし、上半身をぐるりとひねってルーファウスをふりかえった。それからリーブを見、相変わらずずるがしこい子どものような、いたずら好きな坊主のような顔で云った。
「昔クラウドがタークスの監視対象だったのは、あいつがセフィロスとデキてたからだ」
 ルーファウスが声を上げて笑いだした。
「なるほど、そういう云い方になるのだな。確かにストレートでわかりやすい」
「だろ? 素直が一番だぞ、と。な、ルード」
 だがルードは真面目な顔を崩さず、ハンドルを握ったままなにも云わなかった。
「要するにそういうことだ。きみが彼をどう思っているか知らないが、この報告書を読むかぎり、クラウド・ストライフはどう考えてもまともな男ではない。ありとあらゆる意味でだ。彼がセフィロス以外の人間のことを一度でもまじめに気にしたことがあるのかどうか、わたしには疑わしい」
 ルーファウスは膝に載せた報告書を、指先でとんとんと叩いた。
「きみたちには、クラウド・ストライフはほとんど崇高な存在かもしれない。痛ましく、頼りなく、しかしあるとき突然すべての殻をうちやぶって、真実の英雄の輝かしい姿が顕現するというような」
 ルーファウスは皮肉な笑みを浮かべてリーブを見やった。
「人間は複雑だ、リーブ・トゥエスティ局長。現実に生きている人間は、決して神話や物語のようにはいかず、いつもどこかにあやうさとうしろ暗い秘密を抱えこんでいる。きみだってこんなことはよくよくわかっているはずだが、同情心や親近感といったものは、往々にして人を見る目を曇らせるものだからな。そもそもわれわれは、いったいなにかを見ているのだろうか、ほんとうに。客観的事実などというものがほんとうにあると思うか? わたしには昔から疑問なのだが」
 ルーファウスは膝の上から分厚い書類をとりあげ、リーブに差しだしてきた。
「受けとってくれ。われわれの側に見えていたクラウド・ストライフをきみに見せよう。きみはたいへん面白い立ち位置にいる。ジェノバ戦役の英雄のひとりでもあり、われわれの側の人間でもある。そしていまは世界を統べるWRO局長の地位にある。だからわたしは、きみには知る権利があると感じている。彼に関して、きみはあまり主観的になることを許されないのだ、残念なことだが。あの男は危険だ、おそらく、きみが思っている以上に」
 報告書が、ルーファウスからリーブの手に移った。リーブは横目でルーファウスの顔を伺った。彼は憫笑とも嘲笑ともとれるような笑みを浮かべていた。
「どうかそれをじっくり読んでくれたまえ。そしてわたしの云ったことがほんとうだと確かめてくれ。きみが天使と思っていたものは、実は悪魔なのだとね……天使は堕天する。天上のものは地に堕ちる、悲しいことに、あるいはとても愉快なことに。あとで読後の感想をわたしに教えてくれ。たまには食事でもどうだ? 最近、わたしのひいきにしていたシェフが店の営業を再開したんだ。あそこの料理はうまいぞ。特に魚が。なあ、レノ」
「おれはそのへんの飲み屋で食うフィッシュアンドチップスが一番だぞ、と」
 ルーファウスは大げさに肩をすくめ、ため息をついた。
「人の金で食事をしておいてこれだ。気の利かない部下はもつものじゃないな」

 天使は堕天する。天上のものは地に堕ちる。それは宿命なのだろうか、神が世界を創造して以来の? だとすれば、いったい天使の存在意義とはなんなのだろうか。同じように、人間の存在意義もまた。いずれ悪に身を落とし苦しまねばならないのなら、天使なるものも人間なるものもともに、あまりにあわれな存在ではなかろうか。
 帰宅したリーブの耳に、近所の子どもたちがはしゃいでいる声が聞こえてきた。七時をだいぶ回ったが、外はまだ少し明るかった。彼の家のまわりには、むき出しにされ買い手もまだつかない土地がいくつもあって、子どもたちのよい遊び場になっている。このあたりは最近ようやく開発と整備に着手しはじめたばかりだ。夏の長い日の最後の名残の中で、子どもたちはいま世界がどうなっているか、そしてこれからどうなるのかも知らぬままに、無邪気に声をあげて遊びまわっている。
 だがいかに無邪気な子どもも、いずれは大人になる。さまざまな痛みをともないながら、無邪気さでできた羽を少しずつむしりとられながら。
 リーブ・トゥエスティにも、人並みに無邪気な時代があったものだ。世界がどんなものなのかを知らず、大人たちがなにで生きているのかを知らず、自分がどのようにして自分であるのかも知らなかった。そのころ彼は、あの生まれつきの不思議な、ものをあやつる能力に驕ることもなく、おびえることもなかった。生まれたときから一緒にいた猫のぬいぐるみを彼はケットと呼んでいた。ふたりきりのとき、ケットは生きているように動き、話した。最初の友だちであり、唯一の理解者でもあったケット。それを自分が動かしているのだとは、少しも知りはしなかった。
 彼はそのころ、通っていた教会の聖母像に恋をしていた。といっても、とりたてて信心深いほうでもなければ信仰篤い家庭に生まれたわけでもない。信心などというものは今日では死に絶えた。リーブの家系は、単にご先祖の商売上の都合で教会に属するようになったにすぎない。その当時、まだ宗教は社会の基盤であり宗教の問題は政治の問題であって、抜け目ないトゥエスティ家の祖先は、改宗をきっかけにして事業を大きく拡大したのである。
 現代では、教会本来の存在意義は消滅したので、メンバーの誰もまともな宗教教育を受けておらず、神父は霊的指導者というより一座のリーダーであり政治家であって、日曜日の集まりは、礼拝でなく政治的会合だった。先祖代々のさまざまな特権を有する閉じたメンバーによる密談の雰囲気のなかで、合意がなされ、特定の組織や人物への便宜が図られた。ご婦人がたは社交のために、子どもたちは日曜の気晴らしに、友だちに会うために教会へ来ていた。そしてリーブ・トゥエスティ個人のひそやかな思いとしては、あの聖母に会いに行くのだと思っていた。
 聖母像は教会の扉をくぐるとすぐ正面に置かれていた。そこは狭いホールのようになっていて、廊下が左右に分かれて伸びており、右手は事務所に、左手は聖堂に通じていた。
 聖母は頭上から小さな電球の明かりに照らされて、モルタルにおおわれた寒々しい壁を背にして置かれていた。ちょうど子どもの背丈ほどの石の台座のうえに、一メートルを少し超えるほどの石像が立っていた。聖母は台のうえに裸足の足をのせて、垂らした両手を軽く広げ、まるで入ってくるすべての者を迎え入れようというようなしぐさで、少し首を傾け、唇をやや開いた、ほとんど官能的ともいえる顔をこちらへ向けていた。小さな蠱惑的な鼻、美しい流線を描く眉毛、アーモンド型の甘い伏せ目がちな目もと、きれいな卵形をした顔と、少しく意志的な造形を見せる顎。彼女を包むローブは幾重にも折りかさなったひだが幻惑するかのような線を描き、S字型にゆるくカーブした聖母の華奢な体を澱のようにただよいながら包んでいた。
 幼いリーブは、聖母の甘く開いた唇や目が生みだす、神聖というよりかなり女性的な、誘うような表情に魅せられていた。聖母の横にはいつも白い百合の花が大きな花瓶に生けてあり、あたかも聖母の体臭であるかのように、甘い香りを漂わせていた。かぐわしく、ねっとりとした香りをまとい、陶然とした顔つきで、聖母は教会に入ってくるすべての者を招いていた。救いに至る道というにはあまりに甘く、生々しいもののなかへ、やってくるようにと誘いかけていた。
 小さいリーブはきっとそれが聖なる世界なのだろうと信じた。この世では見出すことのできない、はるかな、祝福された場所が、聖母の招く先にあるのだろうと信じた。しびれるような、ぼうっとするような聖母の美しく甘やかなたたずまいは、その未知の、はるかな世界の甘美さを思わせた。
 このようにたとえがたい魅力をもった聖母であったが、教会では誰も、彼女に関心を抱いていなかった。いつからここに置かれているものか、来歴は誰も知らず、著名な彫刻家の作品ではなさそうで、したがって芸術的価値は高くないと見なされていたこの石像は、ただの飾りとして入り口に置かれているにすぎなかった。かつて、人類が魔術と迷妄の世界のなかで真剣にこのようなものを崇拝していた時代の、いわば歴史的な遺物というわけである。
 あるときリーブは、聖母の乗った石台に手をかけて、上半身を乗りあげてみたことがある。心をときめかせて聖母を見あげた彼の目に飛びこんできたのは、聖母の服のひだのあいだにたまった、実におびただしい量のほこりだった。彼は驚愕し、自分自身が痛めつけられたかのように傷ついた。心の痛みはすぐに激しい憤りに変わり、彼は憤然としてかたまってしまったほこりを指先でかき出しはじめたが、道具ももたない子どもの手では限界があった。そこで母親に頼んで、教会の管理人に、どうかこの聖母の状態にもう少し気をくばってくれるようにと伝えてもらった。その後聖母がいくらかきれいになったことに気がついた人たちは喜んだが、それは単に不潔が清潔に置きかわったことに対する喜びにすぎなかった。教会の管理人は、少しずぼらで通っていた。
 リーブはこの聖母に加えられた侮辱を、しばらくのあいだ忘れることができなかった。人々の、まったくなんたる無神経さ! まるでこの教会に集う者たちが、祈りの場ではなくて会合の場にやってくるのだという現実を裏打ちするかのように、聖母は見捨てられ、尊厳を剥奪されていた。彼女の美しさはかえりみられることなく放置され、花を飾っておくほかは、ほんのわずかな心配りも向けられることがないのだ。
 これほど美しいものを前にして、なぜ誰もなにも感じないのだろう? なぜ心を動かされ、大切にしなければと思わないのだろう? リーブは不思議だった。だがやがてそれが世の常なのだということを、彼も子どもながらに理解していった。彼は教会に集う大人たちを軽蔑した。彼らはみな裕福で、社会的地位が高く、婦人たちは美しく着かざっていた。だがあの聖母をほこりだらけに放置して心が痛まぬようでは、すべては虚飾であり見せかけであった。彼らのなかには美術品のコレクターもいた、教養の深い紳士淑女ぞろいだった、だが彼らは美のなんたるかを、それがどのようなものであるかを、なにひとつ理解してはいなかった。
「ぼくは彼女を守らなくちゃいけない。彼女の美しさを守らなくちゃいけないんだ、たぶん、この世界から!」
 リーブ・トゥエスティは、それを自分の使命だと感じ、自分自身にそう云いきかせた。この世のなかでリーブ・トゥエスティだけが、見捨てられ迫害されている聖母の理解者であり、彼女を想い彼女のために嘆く唯一の者であり、いわば彼女の騎士であった。ぼくはあの聖母を守るのだ、誰ひとり味方がいなくても、ぼくは彼女のためにこの冷たくて理解のない世界と戦うのだ、物語の騎士たちのように、勇敢に、しかし優しさと愛の心を忘れないで。
 そのとき尊き使命を帯びたひとりの騎士がこの世に生まれ、リーブ・トゥエスティは存在を開始した。母親に守られ、無自覚にその日その日をおくる幼い子どもではなくて、ひとつの目的をもった、ひとつの意志を抱いた人間として。この熱烈な使命と義務とあこがれを抱いた子どもには、周囲の子どもたちは甘ったれた愚か者にすぎなかった。大人たちは軽薄だった。リーブ・トゥエスティはこの世にただひとりの、真実の騎士の生きのこりであった。女性への思慕を胸に、いかなる迫害にも強大な敵にもひるむことのない、誠実で勇敢な騎士の末裔であった。
 リーブは相棒のケットとふたりして、好んで自分と聖母のための物語をつくった。家じゅうにあるおもちゃやがらくたを並べて、町や町人やドラゴンに見たてて、ケットを従者として従え、幼いリーブ・トゥエスティは冒険の物語を生きた。彼に生まれつきそなわったあの能力は……生命なきものにあたかも生命をほどこすかのようなあの不思議な能力は、このころ彼の最大の味方であり、彼らは幸福な関係を築いていた。リーブが命じれば、あらゆるものは思いのままに動いた。ぬいぐるみは踊りだし、部屋じゅうの置物や、棒きれや石ころまでもそれにあわせて踊ったり、行進したりした。彼らは言葉を話し、リーブに語りかけ、訴えた。この薄情で無慈悲な世の中で、彼らだけがリーブの相棒であり理解者であって、聖母の騎士であるゆえにこの世においてすでに迫害を受けている彼に心から寄りそって、なぐさめを与えてくれるのだった。
「せやけどな、あんた、それ、その、もの動かすん、人前でやったらあかんよ」
 母はリーブを叱るとき、なぜか悲しげな顔をする人であった。感情をぶつけるのでなく諭すように、あるいは懇願するように叱る人だった。
「なんで?」
 リーブは母を見上げて云った。だが彼女の悲しげな微笑に行きついて、訊いたのは間違いだったと思った。母はつないでいたリーブの手を、ぎゅっと握ってあやすように振った。
「なんでもや……たとえば、あすこに見える花瓶が知らんうちに動いて自分のとこ来てみ。びっくりするやろ、な? 知らん人のことおどかしたらあかんのや。おどかせる、思てもおどかさん人は偉いねん。やっつけれる思てもやっつけん人が偉いのとおんなじや……わかるやろ?」
「うん、わかる……」
 物語の騎士はみな、「やっつけれる思てもやっつけん人」だった。強さを誇るがゆえに力を誇示することなく、敵に慈悲を垂れ、寛大にふるまう。自分の強さを知っている者は、弱い者にそれだけいっそう心を配らねばならない。能力のある者は、ない者のことをよく思いやってやらなければならない。リーブ・トゥエスティは特別な力を持っているが、それを見せびらかしたり、利用したりしてはならない。騎士は我慢強く高潔でなければならないのだ。
 こうして騎士道に身を捧げていた彼は、途方もない問題をはらんだ能力をもっていたにも関わらず、決して問題を起こさなかった。両親はそのことに日々安堵し、もののわかった息子をさずかったことに感謝していたのだが、そもそもそこに、はなはだしい認識のずれがあった。リーブ・トゥエスティは、まだ現実も知らないうちから精神的な高みを見つめるという非常に危険な道を歩いていたのであり、ひとつの思想に殉ずるという時代錯誤もはなはだしい、おそろしい人格を形成しつつあったのだが、両親はその危険に少しも気がつかなかった。息子がなにを見て、どこを歩いているのか、まったく気がつかなかった。
 もちろん、リーブ・トゥエスティの両親はすぐれた人物であり、よき人々であったが、それはあくまで市民としてのことであって、聖母の美と聖性を守護する騎士などというものは、彼らにはまったく理解のほかだった。彼らは息子を自分たちの知るもっとも気高いもの……市民的道徳のなかでしか見なかった。そして息子が合格点に達していると考えて満足していた。ところが息子の気高さは、市民的道徳などというものからはかけ離れたところに根をもっていたのであって、彼は市民生活とはもっとも相容れないものを、そのたいそう道徳的に見える態度のかげで、人知れずせっせと育んでいたのだった。リーブ・トゥエスティは愚かな友人たちやなにも見えていない大人たちに寛大にふるまい、その愚昧を許してやり、自分が正しく騎士道精神を発揮していることに満足し、聖母の清き騎士の役割をまっとうしていることに満足していた。

 庭でがさがさと音がした。リーブは食事を終えて、ひと息ついていたところだった。時計はもう九時に迫っていた。彼は立ち上がり、庭に面した窓から、暗くなった外を眺めた。
 なにか動きまわるものが目に入った。よく目を凝らしてみると、ふたりの子どもだった。大きいのと小さいの、いずれも就学ぎりぎりかそれより幼いように見える。それが庭の草むらをかきわけて、なにかを探すようにごそごそと動いている。
 リーブはふたりを脅かさないよう、そっと裏口から外へ出た。庭は彼の家の前に、だらだらと続いていた。両隣の土地が空いているので、どこまでが彼の庭なのか、どこからが空き地なのか、柵をこしらえたり境界線を引こうとする努力を怠ってきたいまではよくわからなくなっていた。
 足音をたてないよう気をつけていたつもりだったが、子どもたちは敏感に人の気配を察して、リーブが十分近づく前にはっとして顔を上げた。大きいほうの、七、八歳の子どもは髪の長い少女だった。小さいほうはおそらくその弟だろう。五歳か六歳といったところだ。貧しい、世話をされていない子どもたちだとひと目でわかる。服は汚れ、髪ももう長いこと洗っていないのか、脂でべたついている。人の気配にもっとも敏感なのは、このような子どもたちだ。すでにこの世のありとあらゆる矛盾のためにたっぷりと痛めつけられ、快適さや安全などおとぎ話のように感じている子どもたち。
「待ちなさい、ちょっと待って」
 大きいほうの女の子が、弟の手を掴んで走り出そうとしたので、リーブはあわてて声をかけた。
「待ってくれ、お願いだから。なにもしやしないし、怒ったりしないよ」
 少女はそれでもしゃにむに逃げ出そうとした。だがしばらく行ったところで、弟がなにかに引っかかって転んでしまった。弟は泣きだした。少女は弟を叱り、無理やり引っぱりあげて立たせようとした。だが、弟は疲れていて、不満がたまっていたのだろう。座りこんだまま、もういやだとばかりに大声で泣きだした。少女は途方に暮れて、弟をなぐりつける真似をしたり、服を引っぱったりした。リーブはふたりに追いついた。
「きみたち、なにをしていたんだい」
 少女はリーブを見上げて、にらみつけてきた。ぎらぎらした黒い目をしていた。大人なんか怖くない、みんな受けて立ってやる、自分と弟を傷つけるやつは容赦しない……その目はそう云っていた。少女はたいそうほっそりしていた。明らかに、もう何日も風呂に入っていない。少女からは、脂と乾いた汗のにおいがした。弟のほうも、年齢の割に小柄で細く、姉と同じくらい汚れていた。
「ぼくのボール、ぼくのボール!」
 弟が泣きじゃくりながら叫んだ。夜になり、疲れきって、この子は癇癪を起こしていた。女の子は弟を叱りつけるように揺さぶって黙らせようとしたが、そうされればされるほど、弟は反抗するように声を高くして泣いた。
「なるほど、うちの庭にボールが入っちゃったんだね。なにも悪いことじゃないよ。いま明かりをもってこよう。それで、一緒にボールを探そう」
 少女はリーブから目を背けなかった。警戒と憎しみに満ちた目をして、リーブの様子をうかがっていた。
「そこで待っているんだよ」
 リーブは家のなかに入って、懐中電灯をとってきた。もういないかもしれないと思ったが、ふたりはまだ庭にいた。少女は相変わらず毛を逆立てた猫のように、リーブを警戒していた。
 リーブは彼らにかまわずに、ボールを探しはじめた。
「どれくらいの大きさなんだい? どんな色?」
 返事はしばらく返ってこなかった。弟が、むくれた泣き声で、姉になにやら云っていた。黙んなさい、と姉は云った。べそべそして、赤ちゃんみたい。あたしたち、あんたのせいで恥かいてんのよ、あんたをここへ置いてっちゃうから。弟がわあっと泣きだした。姉はまた、黙んなさい、と鋭い声で叱りつけた。だが少女の声にも、いまにも泣き出しそうなものが混じっていた。
「サッカーボールだよう、おじさん、ぼくのボール、拾ったんだ、ぼくのだよう」
 弟が泣きながら云った。少女が弟の服を引っぱって、揺さぶった。黙んなさい、うるさいのよ、黙んなさいよ!
 草むらのなかに転がっていたボールが見つかった。空気が抜けて、半分つぶれかけていた。こいつはずいぶんくたびれてるなあ。リーブは云い、考えこんだ。うちに空気入れがあったかな。
 だが彼が考えに気をとられているるうちに、少女はリーブの手から空気の抜けたボールをひったくった。そして弟を立たせ、手を握って、走りだした。リーブは追いかけようとした。が、やめてしまった。スラムで出会った子どもたち、視察のたびに、なにか気がかりなことがあって出向くたびに、どこにでもいて、なんでも見ていた子どもたち。彼らのすべてを救うには、彼らのすべてに満足な衣食住を提供するのには、リーブ・トゥエスティの手は小さすぎた。いまではその手はますます小さくなっているような気がした。世界が広がるにつれ、自分の小ささを噛みしめざるを得ない、思春期の苦しみに似たものを彼は感じていた。

 家に戻り、風呂に入ると、もう夜もだいぶ遅い時間だった。リーブは書斎へ行き、ルーファウスから受けとった例の報告書をとりあげた。表に印刷された報告書のタイトルは、それがセフィロスに関するものであることを告げていた。あの当時、神羅軍の不滅の象徴であったセフィロスは、「自己存在の危機」を感じ、「戦争が終わって暇になった」ために、ある日突然いなくなってしまったのだった。軍もタークスも血眼になって彼を探していた。なによりプレジデントと科学部門が、なぜかおかしいほどあわてふためき、警戒していた。リーブ・トゥエスティのようないち社員にとって、セフィロスの存在はひとつの謎だった。ほとんど姿を見ることもなく、その存在は完全に神格化されていた。失踪は極秘扱いだった。プレジデントにしてみれば、セフィロスという存在がいなければ、神羅カンパニーへの反乱が猛然とわき起こってくるとでも思っていたのだろうか。彼はセフィロスという存在が、いつまでも自分と自分の権力を守ってくれるとほんとうに信じていたのだろうか。
 リーブはあまり気乗りしない気持ちで、報告書をめくりはじめた。神羅カンパニーが健在だったころのことは、できればあまり思い出したくはなかった。暗く、逼塞した時代だった。神羅カンパニーは、この星のうえに重石のようにのしかかっていた。その内部にいくつもの矛盾とあやうさを抱えて、この星のすべてのもののうえにその手を伸ばしていた。
 ツォンの手になる文章は、逐電してしまったセフィロスの、その気まぐれにすぎる動向を把握することがいかに困難であるか嘆くことからはじまっていた。おもだったセフィロスの部下たちは、一様に軍に忠誠を誓っているように見せかけながら、その実たったひとりの上官に心酔するという離れ業をやってのけ、ザックス・フェアのはぐらかしの術といったら新人教育の見本にしたいくらいで、調査を任されたタークスはほとほと困り果てた。が、彼らはついに糸口をつかんだ。それもかなり奇妙なところから。
 きっかけはひとりの中尉の死だった。男性性をこの世で至上の価値と信じる典型的なタイプの男で、威嚇的で周囲を信用せず、のし上がろうとする意志の強い男だった。軍人としては可もなく不可もないような人物だったが、その死に方があまりに異様だったために、内部調査の対象となり、タークスにも知られることになったものである。
 中尉は訓練施設で焼身自殺した。遺書はなく、動機も、自殺をにおわせるような言動もなかったこともあって、この一件は軍全体になにか異様な衝撃を与えた。自殺そのものはときどき起こる。思春期の、精神的に不安定な少年兵に多いが、一兵卒から中尉まで昇ってきた男の焼身自殺とはかなり特異なケースであり、うやむやにすることは許されなかった。なんらかの納得のいく説明が求められていた。
 調査のなかで、クラウド・ストライフなる少年兵が少々長い尋問を受けた。少年はこの中尉の部下であり、中尉と最後に接触した人物だったからである。もっとも、中尉の自殺よりもずいぶん前に、少年がひとり施設を出ていく姿が監視カメラに映っており、彼が尋問を受けたのはただ中尉との会話の内容を聞きだすためにすぎなかった。
 これだけで話が済んでいれば、少年兵は誰の目にも留まらなかったであろう。だが、少年の周囲にザックス・フェアの存在があったことが事態を大きく変えてしまい、結局はタークスが乗りだすことになってしまった。
 報告書は淡々としていながら、読む者を引きこんでしまう筆力に満ちていた。ツォンが文学青年とは云えないまでも、仕事の合間にその手のものを読む人間だということを知っていれば、納得もいくというものだ。ツォンはときどきひとりで走っていきそうになる描写の筆をおさえるのに苦労している。彼自身この物語に熱中し、楽しんでいるのだ。
 クラウド・ストライフが尋問を受けたその日、ザックス・フェアが少年を迎えに来て、引きとってゆくのが目撃された。それは建物の外の目立たない場所で行われたのだが、運の悪いことに、例の黒髪のソルジャーを悪友と認めるタークスのレノが、偶然友人の姿を見かけ、おどかすつもりでこっそり追いかけていって、この場面に遭遇してしまった。レノは職業的な本能から、声をかけずにやりすごし、その意味を考えこんだ。そしてこのことを、しばらくたってからツォンに報告した。
 ここからは、レノのなにやら当てつけるような、即物的なといっていい報告が引用されている。
「クラウド・ストライフって誰だ?」
 とレノはある日、ザックス・フェアに正面から問うている。昼下がりの、神羅ビルのリフレッシュルームでのことだった。室内にほかに誰もいなかった。ザックス・フェアは優雅に昼寝を決めこんでいたところをつつかれ邪魔されて、あ? という間の抜けた声を出して応じた。
「クラウド・ストライフって誰だって訊いてんだ」
「おれの友だちだよ。おまえの云ってんのがおれの知ってるクラウド・ストライフだったらだけど」
 ザックスは自然にそう答えたが、答えが出てくるまでに、確かに、ごくわずかな間があった(レノ本人は、「タークスのレノ様でなければ気がつかないような微妙な間」と報告している)。
「クラウド・ストライフなんて物騒な名前のやつ二人も三人もいるかよ」
 レノはザックスの隣のベッドに腰を下ろした。
「まあそうね。あんなやつ二人もいたらおれ死んじゃうわ」
「そいつ、なんで兵所じゃなくてひとりだけいいご身分でクソ高級マンションに住んでんだ?」
「なに、おまえ調べたの? おれの浮気疑ってる? やあねえ、ボク、レノちゃんひと筋よ?」
「うっせこのタコ。いいから答えろよ」
「なにいらいらしてんのよ。おれなんかした?」
「おまえがなんもしてないなんてこと、あったかよ」
「……ま、確かにそうね」
 ザックスはまじめな顔つきになり、肩をすくめて両手を上げ、それで? という態度を示した。
「レノ様が、いまからありがたいお話をしてやるからな、おまえ違ってたら首ふれ。OK?」
 ザックスは頭の上で、両手でマルをつくった。
「クラウド・ストライフはニブルヘイム出身の十六歳で、おまえのダチだ」
 ザックスはうなずいた。
「クソめんどくさい性格。根暗、コミュニケーション能力ゼロ、協調性なし、自尊心クソ高い。いいとこねえなオイ、なんでおまえ友だちやってんだ?」
「おまえ友だち作るとき理由とか考えるか?」
「作るときは考えなくても、関係つづけるかどうかは考えるだろ」
「そっかあ。おれは考えない」
「なにかっこいいこと云ったみたいな顔してんだこのゴンガガ原人。おまえほんとにそのうち死ぬぞ?」
 レノはこのとき、ちょっと本気でザックス・フェアの身を案じていたのだった。このあまりにもあけっぴろげで、根っこの部分では人を信じ、世の悪より善を見ようというようなこの男のことを。
「でもさあ、死に方って選べんだよなあ、ある程度。生き方と一緒でさ」
 レノはその言葉に含まれるものの重さに顔をしかめたが、すぐにそれをうっちゃって、話を進めた。
「おまえが犬死にしてもおれは知らないぞ、と。クラウド・ストライフに話戻すと、そもそもこいつ明らかに軍人なんてやる柄じゃない。どう考えても、いくら前途洋々たる十六歳の少年だっつっても、無理なもんは無理だ。見りゃわかる。兵所からよそに移ったのもわかる。じゃなきゃ例の中尉より先にこいつのほうがおっ死んでた」
「あー、その中尉の話からクラちゃんのとこに行ったのね。レノちゃん、するどーい」
「うっせえ。おれはこんなガキなんかどうだっていいし、生きようが死のうがどうでもいい。けど、こいつがうちの英雄さんと関係ありそうだってんなら話は別になる」
 レノはザックスの顔色をうかがった。ザックスの表情はなにも変わらなかった。話の先を促すような目つきがあるばかりだった。
「クソむかつくなおまえ。もういい、レノ様の予想。このガキはセフィロスとデキてる」
 ザックスはわざとらしく目をぱちくりした。
「ちょっと直球過ぎやしない? おまえやっぱ相当いらいらしてんな? 茶あ飲む? エナジードリンクとどっちがいい? おごってやろっか? 給料日前だから」
「おまえからおごられるくらいなら飢え死にするほうがましだっつの。まじめに答えろよ。冗談抜きで大事な話だ」
「大事な話なのはわかってるし、おまえらの仕事のこともわかってるつもりだけどさあ」
 ザックスはほとんど人をいらいらさせるような、のんきな声で云った。
「だからって、じゃどうすんだよ? クラウドに張りつく? あいつのこと脅して吐かせる? セフィロスはどこだー、とか云って拷問して? そりゃそうしたら御大出てくるだろうからみんな会えはするだろうよ、殺されんのと引き替えにだろうけど。おれ思うんだけど、この会社ってあの人のことどうしたいんだろうな? 明らかにもてあましてるのにさあ、出ていかれても困る、勝手なことされると困るってんでしょ? だったらいまのままにしとけば? っておれは思うわけ。あの人がまじめに借りを返せとか要求しないだけましだと思うの、全人類にとって。おれに云わせりゃ、よかったね、セフィロスさん大人で、って感じ。これザックス・フェアの意見として報告書に書いといてよ。ほんとみんなあの人に感謝したほうがいい。んで、ようやくもてた私生活くらいほっといてやったほうがいいよ」
 ザックス・フェアはひと息に云ってしまってから、念のためというように、おまえに文句云ってんじゃねえぞ、とつけ加えた。わかるってのこのクソ野郎、とレノは応じた。沈黙が流れた。
「……でもさあ、なんでわかった?」
 しばらくたってから、ザックスは相変わらず無邪気な顔をして、こだわりのない調子で訊ねた。
「ストライフ坊やの出入りしてるマンションの持ち主、最初から全員調べるっていうクソめんどくさい、精神ゴリゴリ削られる仕事の結果。そっから英雄さんには直接はつながってない。でも妙なにおいのするやつがいるし、おまえがずいぶん熱心にあのストライフ坊やのまわりうろちょろしてやがるのと、あとはカン」
 レノは所有権に関する法律というもっとも嫌いなものに手を出すはめになったせいで神経をすり減らすようだった仕事を思いだし、いろいろなことを思いだして、顔をしかめた。
「……まあ、でも結局、ひらめいたのはあの顔見たときだったかもな」
「顔?」
「そ、ストライフの顔。ちょっと近くで見てみた……ありゃやばい。なんつったらいいか、説明できないけど本能的にやばいって思うやつだ。おれ中尉が焼け死んだのわかった気がしちまった。毎日あの顔見る羽目になってみろよ、おれなら耐えられない。この感覚、通じないやつには絶対通じないと思うけどな。で、あんなやつの友だちやってるおまえの神経疑うし、英雄さんに至っちゃ正気かよと思う」
 レノは真剣な目つきでザックスを見つめた。ザックスは同じように真剣な、しかしはるかに澄んだまなざしで、彼をちょっとのあいだ見つめ返した。
「……やっぱ茶あ飲も、レノちゃん」
「……そうね、レノ様のど乾いちゃったわ。おごってくださる?」
「もちろんよ、お給料日前ですもの」

 中尉の死は、昇進を見送られたことによる失意の自殺として片づけられた。彼がクラウド・ストライフに愛憎半ばする感情を抱いていたとか、執拗に少年をいじめていたとか、あるいは逆に少年に「完全になめられていた」とかいう、興味深く矛盾した証言が集まっていたにもかかわらず。それにまた何人かの少年兵たちが、ストライフが中尉の死に関与しているという確信をもっていたにも関わらず。そして肝心のクラウド・ストライフの云いぶんは、次のようなものだった。
「中尉には、自分の態度が悪いってのでよく怒られてましたけど、別にそれだけです。たぶんちょっと礼儀作法とかに厳しい人で、自分が田舎育ちで常識ないから、見てていらいらしたんだと思います……自殺なんて、どうしてそんなことしたのかわかりません。その日の中尉はいつもと変わりなくて……自分の前では、中尉はいつもいらいらしてましたけど……確かにその日、少し反抗的な態度をとったのはほんとです。怒られるのはいいんですけど、あまりにもしつこいと思えたんで、中尉がなに云ってるのかぜんぜんわかりませんって云いました。でもそんなことが自殺の原因になるわけないし、きっとなにかほかに悩んでることがあったんだと思います」
 報告書の筆は、ここへ来て、もうこの少年への興味をおさえられなくなっていた。読み手であるリーブ・トゥエスティも同様にのめりこんでいた。
 少年へのおさえがたい興味に導かれるように、次のページから彼の生いたちが詳細に書かれる。ニブルヘイムでの、母親とふたりきりの、孤立しがちな、貧しく抑揚に乏しい生活。父親が誰なのかは不明で、いくら調べてもつきとめられなかった。クラウド・ストライフはごく幼いころから、なぜか周囲とうまくいかず、いくつもの喧嘩や小競りあいを起こしては、叱責され、責任を問われ、母親を嘆かせてきた。彼の周囲にはまた不思議と事件や事故が絶えなかった。たとえば八歳でティファ・ロックハートとともにニブル山へ入り、崖から落ち、彼だけがほとんど無傷で帰還した。少女のほうは生死の境をさまよったのだが。
 十歳のときには、彼は傷害事件を起こした。子どもどうしの喧嘩だったが、彼はいつももち歩いていたナイフをふり回し、数名の少年にかなりのけがを負わせた。多勢に無勢で、なかば正当防衛のようにも見えるが、この一件は村に不気味な余韻を残した。クラウド・ストライフはこの一件以降、決定的に触れてはならぬものになった。彼は忌避され、黙殺される存在になった。以降彼に近づこうとするのは、小さな子どもか老人、あるいはときおりあらわれる、彼の崇拝者のような人間だけになった。そしてその崇拝者もまた、必ずといっていいほどけがをしたり、大変な目に遭ったりするのだ。
 だが、結局彼がなにをしたのだろう? 誰もそれを説明できなかった。なにもかもクラウド・ストライフのせいになっていたが、では彼のなにが悪かったのか、彼がなにをしたのかを、誰も正確には指摘することができなかった。そして十四歳でミッドガルに出てきた鼻つまみ者のクラウド・ストライフは、軍のなかでもまた孤立し、周囲の者に疑いの目を向けられている。なぜそうなるのか? この少年になにがあり、なにをしたというのか? なぜこの少年にはそのような力が、不可思議なとしか云いようのない力があるのか…………
 報告書はしかし、ここでかなり唐突に終わっていた。この少年への監視をつづけること、それによってセフィロスを見つける手がかりを得ること。このわかりきったふたつのことを宣言して、あっけなく終わっていた。リーブは報告書から顔を上げた。きっとツォンの筆を止めさせる、なにかがあったのだ。ツォンはクラウド・ストライフに接触したのだろうか。彼はなにを見たのだろうか。あるいは、誰か別の人物が、これ以上の追求を妨げたのだろうか。
 リーブは興に乗ってきた舞台が突然の停電かなにかで中断されてしまったような感じを抱いて、不満げにあれこれ考えをめぐらした。クラウド・ストライフ。クラウドさん。彼の周りで起こる、ひとつひとつをとってみればあり得ることに思われる、しかし全体を見れば異様な様相をともなってあらわれてくるもの。リーブは寒気のようなものを感じた。けだるそうな、気のないクラウドのしぐさや表情が頭に浮かんできた。
 クラウド・ストライフは、実に美しい人だった。それこそあの聖母のように美しい人だった。聖母は迫害されていた。そしてクラウド・ストライフも迫害されていた。彼は無邪気さの羽をむしる間もなく大人の世界に放りだされてしまった男だ。彼の人生は十六で止まっている。そこから五年ものあいだ監禁されていた彼の人生は、その時点ですでにすべてを奪われ、とりかえしようのないほど損なわれている。この意味で彼は、およそ考えうるかぎりもっともおぞましい虐待を受けた被害者であり、そのせいで時間にとりのこされ、たくさんの経験をとりこぼしたまま右往左往しなければならない……そのことを知ったときリーブは激しい憤りを覚え、この痛々しい子どものような人を、この世界に投げだされるにはまだあまりになにも知らず庇護を必要とする人を、なんとか守ってやらなくてはと思ったものだ。
 おまけにクラウド・ストライフは極度に内向的な性格だった。女性関係などほとんど経験がなさそうで、それがなにを意味しているのかもわかっていないのではないかと思われることがあった。それほどに、彼は世慣れておらず、不器用で、すべてにとまどいがちだった。ときどきかなり頑なになり口が悪くなるのは、自信のなさと羞恥の裏返しに見えた。動揺に瞳を揺らし、考えこみ、やがてあきらめたように目を伏せる、あの姿の痛ましさ。あれは虐待された子どもの痛々しさだった。わけがわからず途方に暮れ、なすすべもなく、しかし生きなければならない子どもの痛々しさだった。もしも頑是ない子どもを天使と呼ぶなら、彼はたしかに天使だった。美しく、無垢で、そして不当に迫害された天使。
 だが天使は堕天する。天上のものは地に堕ちる、悲しいことに、あるいはとても愉快なことに。クラウド・ストライフはときどき、ずいぶん長いことぼうっとしていることがあった。うつろな目をして、なにも見ていないことがあった。そんな瞬間には、彼はその美しさとあいまって、別の世界から来ているもののように見えたものだ。
 ごくまれに見せる、ちょっとはにかんだような、感情を発散させるのではなくうちにこめていってしまう笑み。寂しげに、どこかもの狂わしく、なにかを、あるいは誰かをもとめるように、はるかな先を見つめる横顔。自分たちが見ていたのは、堕とされた者の清らかな苦しみではなくて、堕とす者の欲望だったのだろうか。みずからの意志で堕ちてきて、巣をこしらえ、罠をしかけて待ちうける者の、偽りの装いだったのだろうか。彼は誘惑者だったのだろうか。相手の破滅を喜んで見とどける、悪魔のような者だったのだろうか。
「ときどきちょっとね……」
 いつだかためらいがちにクラウドについて云った、ティファの言葉。
「ときどきちょっと、なに考えてるかわからないし、この人なにを見てるんだろうって思うときがあるの」
 ティファがクラウドについて話すことは滅多になかった。あれは深夜のセブンスヘブンでのことだ。リーブが時間を作って飲みに来てくれたことを、彼女は喜んだ。クラウドは仕事でいなかった。なじみの客は気を利かせて帰っていった。店にはふたりきりだった。
「クラウド、いまどこにいるんだろう。わたし、よくそう考えちゃうの。呼んでも返事してくれなかったり、仕事で何日も帰ってこないようなときには、よくそう思ってしまう……」
 ティファは暗い、深刻な顔をしていた。店の天井にとりつけられたファンが、もの憂げに旋回していた。ティファはリーブの戸惑ったような顔に気がついて、すぐに表情を変え、話を打ち消してしまった。なぜあのとき、もっとつっこんで話を聞かなかったのだろう。いや、その態度は示したのだ。どうかなさったんですか、なにかあるなら話、聞きますよ、とリーブは云ったのだ。だがティファはそれに対して首をふった。いいの、大丈夫、なんでもないから、いろいろ、全部、わたしの思いすごしなのよ、きっと。
 だが彼女はやはり予感を感じていたのだ。だってクラウド・ストライフはそれからしばらくして、ほんとうに消えてしまったのだから。なんの兆候もなく、突然に、最初からいなかったかのように、そこになんのつながりもなかったかのように、すべてのものを置いて、あっさりと。クラウド・ストライフにとって、この幼馴染の存在とはなんだったのだろう。彼はどういう気持ちで、彼女と一緒に暮らしていたのだろう。彼らはどういう関係を築いていたのだろう。
 突然の雨音に、リーブははっとして身じろいだ。もう真夜中をすぎていた。いつの間にか風が出ており、窓に細かな雨が打ちつけていた。リーブは立ち上がり、窓辺へ歩いていって、ぼんやり庭を見つめた。窓ガラスに歪んだ自分の姿が映っていた。それは打ちつける雨に濡れて、いかにも不安そうで、泣きだしそうな顔をしているように見えた。
 ほんとうに、クラウドさんはいまどこにいるのだろう。なにをしているのだろう……重苦しい気持ちに胸がふさがれたようになってゆくのを感じながら、リーブは考えた。彼はそもそもどこかにいたことがあったのだろうか、たとえば自分たちのなかに……人間て、自分のなかになんてたくさんのものをしまってるんだろう……ティファ・ロックハートがかつてつぶやいた言葉だ。そのときリーブは思ったものだ。さんざん動きまわって、試行錯誤して、得られる結論はいつもこれではないのか。世界はおそろしいほどの無明の闇に包まれている。そこから逃れることは誰にもできない、ほんとうのことは誰にもわからない。いくら探求し、極めようとしても、世界は結局謎めいたものに終わる。
 天使は堕天する。天上のものは地に堕ちる。だが天と地と、どちらが先に存在したのだろう。存在とは、しょせんそのあいだを、おぼつかなげにうごめく影のようなものに過ぎないのではないか。人間は天にあこがれるが、結局はそこに地よりもさらに深い、底しれぬ暗闇をのぞくだけではないのか。
 さっきのあのふたりのきょうだいは、この雨のなかをどこで過ごしているだろう。住む家もないスラムの子どもたちは、世界じゅうの貧しい子どもたちは、それに貧しい大人たちも、こんな雨の夜を、いったいどうやってやりすごしているのか。

2

「クラウド・ストライフに会いたくはないか?」
 電話の向こうから、相変わらず余裕たっぷりで少々嫌みったらしいルーファウス神羅の声がそう問いかけてきた。電話は急だった。この男の呼び出しはいつでも急なのだ。
「クラウドさんを見つけたんですか?」
 リーブの声は思わず少し前のめりになっていた。あの報告書を読んでから、また半年ほどが過ぎていた。クラウド・ストライフ探しは、もうほとんど諦めのムードに包まれていた。ティファ・ロックハートが近ごろどうしているか、リーブはもうあまりよく知らなかった。
 電話の向こうの声が、面白がるようにふふん、と笑った。
「うちの連中は優秀だろう? 率直に云ってほんとうに見つけたとは意外だった。しかもおまけつきでだ。わたしの予想では、そのおまけが故意に見つけさせたのではないかという気がする。それともただの偶然か? わからないが、ともかくわたしは彼らに会えるのを楽しみにしている。歴史的会見になるかもしれないぞ。もしきみもその歴史的場面に居合わせたいなら、明日こっちに来ることだ」
 場所を指定して、電話は一方的に切られた。リーブは思わず頭を抱えてしまった。明日だって? 明日はなにがあったろう? いろいろと予定があったはずだ、確認しなくては。いつもならすぐに思いだせるのに。それにしたって、クラウドさんだって? なんということだ、まさか急に、こんなに急に、またあの人に会うことになるとは。ひょっとしたら、もう二度と会えないかもしれないと、ときどきほんとうに考えたのに。
 リーブは明日のスケジュールを確認し、すべての予定をとり消した。重要な面談がいくつかあった。だがそれがなんだろう。世界再生機構がどうした。世界の再生なんて、なんだというのだ、こんなときに!
 ドアがノックされ、リーブははっとして顔を上げた。秘書が入ってきた。ともかく、いまは仕事中なのだ。リーブ・トゥエスティ局長の顔をしていなくては。リーブは気を引きしめた。クラウド・ストライフのことは、いまは考えてはならない。あの人のことを考えだすと、だいたいろくなことがないのだ。
 そもそもあの存在が、ろくなものであるのかどうか? ふと浮かんだ疑問に、リーブは答えられそうになかった。

 さる篤志家が、かつてのスラムの一角に孤児院を建てた。その篤志家はWROを支援してくれているひとりであり、その日リーブは孤児院の開院記念式典に呼ばれていた。
 篤志家は、食堂において、共同出資者や賛同者たちを前に演説した。世界にはいま孤児たちがあふれている。身よりもなく、見捨てられ、安全や社会とのつながりを断ち切られた子どもたち。彼らはわたしたちの姿である。わたしたちもまた、この未曾有の危機と動揺の世界にあって、よるべなく、なにを信じ、どのような社会を作ってゆけばいいのかわからぬままに右往左往している。わたしたち全員はいま、あたかも子どものようである。孤児のようである。これまでの世界は遠く彼方に過ぎ去り、あたらしい世界はまだ見えない。魔晄エネルギーの喪失、メテオの災厄、疫病と貧困と無秩序、これらすべてを目の前にして、われわれはあたかも途方に暮れた子どものようである。だがしかし、われわれには知恵があり、このように云ってよければ、人類への愛と希望がある。われわれはいまこれをより所として、なんとかよりよい未来を築いてゆかねばならぬ。これら見捨てられた子どもたちのためにも。彼らは象徴である。われわれの世界の象徴である。これらの子どもたちを見捨てる社会に、発展は望めないであろう。
 リーブも演説をした。WRO局長として、わたしはこの孤児院の継続と発展を強く願うものであります。子どもたちは未来の希望であります。未来をないがしろにし、ひとりひとりの人生の発展をないがしろにする世界を、われわれは潔く捨て去らねばならぬところに来ているのです。わたしはそう確信しております。この危機の時代のなかから、新しい秩序を、新しい未来に開かれた社会を、われわれは作らねばならぬのです。これまでわたしたちはあまりに怠惰でした。便利な生活に慣れ、状況を変えようという努力を怠ってきました。わたしたちにはその怠惰の責任があるのです……
 食堂の中央に置かれた長いテーブルに寄せ集められていた子どもたちは、見ず知らずの、身なりのいい大人たちにとりかこまれて、ほとんど呆然としていた。彼らはおそろしくやせ細っているか、あるいはおそろしく肥えていた。猫背のおどおどした子、ずるそうな、もうどんなやり手の大人とも対等にわたっていけそうな子、ぼんやりしてなにも感じていない子、あきらめた顔をした子、さまざまな子がいた。年齢もばらばらだった。下は五歳くらいから、上は十五、六まで、およそ五十人ほどの子どもが集められていた。リーブは知らぬ間に、その子どもたちのなかにあのきょうだいを探していた。そこにいるはずはないのに、あのボールを抱えた弟を、そして毛を逆立てた猫のような姉を、探していた。黙んなさい、黙んなさいよ、あたしたち、あんたのせいで恥かいてんのよ、あんたのこと置いてっちゃうんだから……ああ、篤志家の男の演説も、後援者や賛同者の演説も、なんと長たらしく、わずらわしいことだろう。
 その後、大人たちは孤児院のなかを案内されて歩きまわり、子どもたちの暮らしぶりや毎日の日課、規則について、院長から説明を受けた。厳しい顔つきの、精力的な女性だった。見た目はおそろしく厳格そうだが、そのうちに深い同情や共感をたたえているのがわかった。人生に苦労した女は、そうしたものをうちに秘めがちである。彼女は子どもたちにたいそう憎まれ、苦労が絶えることがないだろう。だが、いい教育者になるだろう。
 孤児院の一角に、礼拝堂があった。宗教教育は、荒廃しすさんだ心には有用なのですと院長は云った。今日び、そんなものがなんになるのかと質問した男性の後援者に答えてのものだった。
「わたしたち運のいい人間には、家庭の思い出や、少なくとも安全なねぐらといったものが与えられております。どんなちっぽけな、小さな思い出でも、温かな、愛情のかよった思い出は、それひとつで生涯を支えるものになりうるでしょう。でも、ここに暮らす子どもたちはそうしたものがなにもないのです。この世に身よりもなく、頼るべきものがなにもないなら、どうにかして作り出さねばなりません。それはなんでしょうか? 無害で、永遠に消える心配のない支え、それは神しかないではありませんか。人間は、そんな子どもたちの支えになるにはあまりにももろく、壊れやすく、いずれ死にゆく運命にあるのですから」
 礼拝堂の入り口に、まだ真新しい真っ白な聖母像が立っていた。聖母はおさなごの救い主を抱えて、そっと衆生を見下ろしていた。母の喜びと悲しみが、その目のなかにあった。自分がよろこびとともに生み落としたものを、いずれ奪われる母の悲しみが。自分がこの世に送りだす存在にたいして、結局のところ、なにもしてやれない母の切なさが、その澄んだ目の中にあった。大人たちは、院長の熱弁になにやら妙に胸を打たれ、教会の静謐な雰囲気にのまれて、おごそかな気分で孤児院の視察を終えた。

 記念式典のあと、いったん本部へ戻り、雑用を片づけてから、家に帰った。八時を回っていた。食事をし、入浴を済ませて、早々に寝室へ引っこんだ。ひどく疲れていた。目を閉じると、聖母の姿が浮かんできた。それはあの孤児院の聖母のようであり、彼の教会の聖母のようでもあった。
 あの教会の聖母と、リーブは唐突に別れたのであった。幼年時代を過ぎ、少年になっても、聖母はリーブ・トゥエスティを魅了しつづけていた。母親について教会へ行くなどばからしくなる年ごろになっても、彼はまだ聖母のために両親とともに教会へ通った。おかげで彼は、もはや絶滅危惧種になってしまった、まじめでもの堅い少年だと思われていた。母はみんなの前では謙遜しながらも鼻を高くしていたが、内心では気が気でなかったようだ。そのころ、彼女の立派な息子は絵や彫刻に興味を持ち、自分も手仕事をする人間になりたいなどと願っていたからである。リーブ・トゥエスティはあの聖母のような美しいものを生みだす秘密を知りたい、そのわざをもった人間になりたいと熱心に願っていたのである。
 そのころ彼は両親にせがんで、両親の知りあいで美術教師をしている人物に、絵と彫刻を習いはじめた。手ごたえとしては、彫刻のほうが性に合っていた。石や木を前にして、実際に手でもってさわりながら、徐々に形態を、形を生みだす感覚が、自分には合っていると感じていた。週に一度出される課題を消化しながら、しかし彼はいつでもあの聖母の再現を夢見ていた。手ごろな木片を見つけてきて、あるいは粘土のかたまりを手にして、彼は絶えずあの聖母の顔を、あの小さな唇を、鼻を、アーモンド型の目を、なめらかな頬の丸みを再現しようとこころみていた。
 彼は、心から彫刻家になりたいと思っていたのだろうか。いまとなってはもうわからない。だがそのころこうした制作にのめりこんでいたことは確かだった。両親にしてみれば、単なる趣味のひとつのつもりではじめさせた手習いに息子があまりにのめりこむのを見て、心配がつのるばかりだったろう。生まれつきのあの能力とあいまって、なにか自分たちには理解できない世界を息子がもっており、それがいずれ息子を、あるいは自分たちを飲みこんでしまうのではないかという不安が、両親のうえに密かにのしかかっていた。リーブは両親のこの不安を感じとっていたが、無視していた。たとえ両親であっても、世俗的で理解のない連中の云うことに注意を払ういわれはなかった。
 このころ彼は、自分が一種の招命を受け崇高な使命を与えられているのだと考えていた。美のあの絶大な力をこの世にびもたらす者、美への崇拝を地上にとりもどす者、そしてそれに命を与える者。聖母の清き騎士は、その戦いに命がけで身を投じねばならない……そのくせそうした壮大な思想が実際になにを意味しているのか、彼はまだなにひとつ知らなかった。彼は騎士でありながら、自分がなにと戦っているのかをまだ知らなかった。
 ある日リーブは、美術教師のアトリエで制作をしていた。夏休みで、うだるように暑い日だった。アトリエは私邸の涼しげな庭に面しており、窓はすべて開け放たれていたが、それでも室内はむっとして熱がこもっていた。ときどきブーンという虫の羽音が聞こえ、庭の草木がそよぐのが聞こえた。大きな窓から、夏の午後の日差しが強烈に部屋のなかへ入りこんでいた。
 彼は秋に開かれる展覧会に出品してみるように云われており、その制作に没頭していた。美術教師はこのとき電話で急にどこかへ呼ばれて、席を外していた。時間になったら帰ってもよいし、わたしが帰るまでいてもよいと云って、半時間ほど前に出ていったきりだった。
 いつもならこの時間には、通いの家政婦が来て仕事をしていることが多かった。信心深い迷信家の女で、十字架やお守りや聖書をもちだしては、まわりからからかわれていた。リーブも彼女をからかうのは好きだった。だがこの日は来ておらず、家にはリーブひとりきりだった。教師の家は住宅街の少し奥まった区画にあり、あたりは静かだった。
 彼はひとりきりで、石のかたまりから徐々に浮かび上がってきつつある像に向きあっていた。展覧会には、あの聖母を再現して出品すると決めていた。自分の技量がまだとうてい及ばないことはわかっていたのだが、どうしてもそうしたかった。そのために彼は日々、倦まず試行錯誤を続けていた。
 デッサンはもう何枚にもわたって描かれた。あの教会の聖母の模写は、画帳を埋めつくさんばかりだった。手ごろな大きさの素材を見つけては、思い描いているような形をあらわすにはどうしたらいいだろうかと彫刻刀を握った。その努力が少しは手伝ったものか、今日、この日、彼ははじめて多少は納得のいく聖母の顔に出会った。特にその唇のわずかに開かれ、ほころんだ瞬間のやわらかさを、彼は硬質な石のうえにはじめて再現し得たと感じた。それは彼を感動させた。おどろくほど自然で、うっとりするようなやわらかさを感じさせる唇の出現は、なにか人智を超えたものが働いた結果のようにも感じられ、おののくような気持ちにおそわれて、リーブは思わずやすりを置いて、一歩退き、しげしげと眺めた。
 愛らしい唇と目、それに小気味よい鼻先をもつ、美しい女性がそこにいた。なにかを求めるように、顎をつきだすようにして首を伸ばし、アーモンド型のやや垂れさがった目は夢を見るように開かれて少し上を向き、その目からあふれ出た夢を、開いた唇が受けとっているかのような、なにか自足した、完結した雰囲気をただよわせる乙女。確かに乙女だ。あの聖母よりも幼く、愛らしい。それは自分の年齢のせいだろうとリーブは冷静に思った。
 いくらか個性を出したいとの思いから、乙女はベールをかぶらずにむき出しの髪を風になびかせていた。そこはまだ作成中の荒っぽい筋のような状態で、体もまだ全体の輪郭が出現しただけという状態だったが、もし自分の理想に少しでも沿うように完成できたなら、きっとすばらしく美しい女性になるだろう。
 リーブは自分の前に両腕をもってきて、やすりやのみや刀の扱いでくたびれてしまった手を見た。ほんとうにこの手がこの少女の顔を造ったんだろうか? なにかぜんぜん別の力が働いたためではないか? ぼくにこんな顔をこしらえるだけの技量があるかしら? 彼には不思議に思えた。
 だが視線を腕からふたたび少女に戻したとき、その美しいおもてを見たとき、ふいに、リーブはその少女の実在を確信し、彼女は自分のものなのだという確信に打たれた。彼女はそこにいた。空想のなかで幾度も思い描いた女が明確な形をもち、重さをもち、確かな物体としてそこに存在していた。自分の力を超えた技量は、自分の聖母への献身の結果であるように思われてきた。彼女が自分を祝福し、この像の完成を望んでいる、聖母は彼女のために捧げている自分の努力を喜んでいるという気がしてきた。
 リーブは報いられたと感じ、震えるような喜びを感じて、おずおずと少女に手を伸ばした。おそるおそる頬の丸みをなで、作成中の彫像を確かめるようにでなく、あたかもひとりの可憐な乙女に対して恥じらいがちにそうするように、顎から秀でた額にかけて手のひらでたどり、鼻先を、苦心して彫りこんだ眉を、開いた目を、ほれぼれと指でたどった。そしてやはり彼女の唇……小さく、花びらのように、少しつき出され、ほころんでいる唇、そこにリーブはそっと指先で触れ、そのあまりのなめらかな手ざわりにわれながら驚いて、指を引っこめた。
 リーブは長いこと少女を見つめた。それから、引きよせられるように少女の唇に自分の唇を近づけた。
 触れあった唇は冷たく、なめらかだった。リーブは思わず唇のあいだからため息をもらした。そのとき同じような息が、相手の唇からももれ出した。リーブははっとして身を引いた。
 彫像の女は、いまやはっきりとその目をこちらへ向けていた。
「ああ、ようやくあなたにご挨拶ができるのね」
 うっとりしたような、かわいらしい少女の声で彼女は云った。
「もうずっと前から、あなたとこうしてお話がしたいと思っていたの」
 少し聖母に似た、しかしやはり別の存在である少女は微笑んで云った。リーブはうろたえた。いったいぼくはいつ力を使った? 動けなんて命じてはいないはずなのに……。リーブの能力は自覚的な命令をともなうもので、とっさのことでその場でそうとは感じられなくても、あとから考えてみると、命令するきざしがはじめに自分のなかにあり、それに反応するようにものが動いたり、しゃべったりするのだった。だが、このときはまったくふいうちだった。リーブは少女に対して、まだなにも……感動以外のなにも感じてはいなかったのだ。
「驚いてるのね……」
 少女はくすくす笑った。
「それはわたしが、あなたがじかに生みだした作品だからなの。わたしはほかのものとは違うのよ。あなたが自分の手で、時間と愛情をこめて作ってくれた……だからわたしは生まれながらにあなたのもので、生まれながらにこうしてあなたとおしゃべりしたり、お望みなら、歌ったり踊ったりもできるのよ……」
 少女はまだ荒削りの大まかな輪郭にすぎない体を、揺するようにちょっと動かした。
「体のできるのが待ちきれないわ。きっとわたしにすてきな足をくださるわね? 裸足でも靴を履いているのでも、どっちでもいいわ。そんなことかまいやしない。足ができたらわたしはあなたのために踊るでしょう、歌を歌って、手をたたいて……」
 少女はうっとりと夢想するように目を閉じ、深くため息をついた。
「……きみは」
 リーブはおそるおそる少女に話しかけた。
「きみは踊るための足がほしいの?」
「ええ」
 少女は目を開き、リーブをまっすぐに見つめて云った。ひどく純粋な、こちらの心に一直線に入りこんでくるようなまなざしだった。
「それに手と腕、たたいたり、さわったり、あなたに触れるための手。わたしにくださるでしょう、きっと?」
 澄んだ美しい声音と表情に魅せられて、リーブは夢中でうなずいた。
「もちろんだよ。ほかにもなにかほしいものはない? ぼく、できるだけきみの希望に沿うように頑張るよ……」
 少女は楽しそうにくるくると目を動かした。
「あるわ。とっても大切なものよ。わたし、名前がほしいの。あなたに名前をつけてほしいの」
 少女は首を傾け、懇願するようなしぐさをした。
「わたしはあなたの作品、あなたが生みだした、そしてこれからいくつも生みだすことになる偉大な作品の最初のもの。あなたが心をこめて慕っているあの聖母と比べても、決してひけはとらない。わたしはあなたのもの、そしてあなたはわたしのもの。どうかわたしに名前をください。わたしの体はまだ未完成な状態だけれど、あなたが名前をくださったなら、そのときわたしは生まれ、ひとつの確かな存在になる……そしてあの聖母にも決してひけはとらない……ほんとうよ……」
 少女の言葉が、ねだるようなまなざしが、甘く彼をとりまいた。リーブは思ってもいなかった要望に少し困惑し、それでも少女を喜ばせたくて、思いつくかぎりの名前を頭に浮かべようとしたが、とっさのことでちっともうまくいかなかった。
「……だめだ、そんな急に、きみにふさわしい名前なんて思いうかばないよ」
「だけど、ぜひ思いうかべてもらわなくちゃいけないわ」
 少女は少し唇をとがらせ、しかし愛嬌のある調子で云った。
「名前がないなんて、存在しないのと同じことだもの。あなた、わたしが名前もなしに、作品一号とか呼ばれていていいの? あんまりだわ、そんなこと……」
 リーブは少女のために、うなりながら懸命に考えた。だが思いつこうと焦れば焦るほど、さまざまな名前は遠のいていった。
「きみが踊ってくれたらなあ!」
 リーブはふと思いついて、祈るように云った。
「きみがもうできあがっていて、ほんとに手足を動かして、踊ってくれたらなあ! そしたらぼくは、きみにぴったりの名前を思いつけそうなんだ……」
 リーブは残念そうに、まだただの輪郭にすぎない少女の体を見やった。だが少女は顔を輝かせた。
「まあ、それならあたし、頑張ってみるわ。まだこんなだけど、踊りの片鱗くらい見せられるかもしれない。手伝ってちょうだい……」
 少女はリーブに助けを求めるように身をよじった。リーブは彼女に近づき、どうしたらいいの、と云った。自分がもうこの少女の造り主であるというより、ほとんど平等な、否、おそらくそれに隷属する存在になりかけているのを、リーブはどこかで感じた。だが崇拝や敬意というものは、そもそもそうしたものであり、騎士の名誉とはそうしたものだった。畏れ敬い、額ずき、従属することのよろこびを、彼は知っていた。それこそが美にふさわしい唯一の態度であり、人間に許される美への唯一の近づき方だった。
「あなたがほかのものにするようにして、助けてくれればいいのよ。あなたは誠実な助け手、わたしたちに命を与える人。念じて、命じるの、いつものように、動けって」
 少女は期待に輝いた目で、リーブをまっすぐに見つめていた。
「そしたらあたし、きっと踊り子にだってなれる……」
 少女はうっとりと云い、なにかを待ちうけるかのように目を閉じた。
 それに導かれるようにリーブも目を閉じ、少女の、まだぼんやりと体の形をしているにすぎない塊に触れて、祈るように心をこめて、こう命じた。さあ、動いて、まだ名前も知らないぼくの作品、いや、ぼくの女の子…………
 ごとごとと音がしはじめた。リーブが目を開けると、少女はゆっくりと回転しようとしているところだった。
「ほら、云ったでしょう? こんな作りかけの状態だって、やろうと思えばいろんなことができるのよ……」
 少女はゆっくりと一回転し、声を上げて笑った。
「まわりが回って見える!」
 そしてもう一回転し、さらにもう一回、それから反対へ回った。
「さすがに歩けやしないよね? だってきみはまだ足がちゃんとできてないし、台の上に乗ってるってだけなんだから……」
 少女の華やいだ笑い声にリーブも興奮して、からかうような軽い調子でそう云った。
「わからないわよ、飛びはねるくらいならきっと……」
 そうして少女がやや前のめりに身がまえたとき、ふたりの背後から、おそろしい悲鳴が聞こえた。ふり返ると、通いの家政婦が目を見開いて立っていた。リーブと目が合うと、家政婦は恐怖で顔をひきつらせた。彼女は胸にぶら下げていた十字架を握りしめ、ふりかざした。
「なんなの、いったいあんたなにをしたの、この化け物! 悪魔! ああ、神様、神様!」
 彼女はぶるぶると首をふって、助けを呼びながら逃げだした。
 ごとり、となにかが床にぶつかる大きな音がした。あわててふり向くと、少女の像はうつぶせに倒れて、ぴくりとも動かなくなっていた。

 そのすぐあとに、彼の一家は町を出て、よそへ引っ越したのだった。リーブ・トゥエスティはあの聖母と永久に別れた。あの聖母と、そしてあらゆる美しいものと。彼は聖母の騎士になれなかった。騎士でいつづけることはできなかった。相手を手に入れようとする欲望、相手のなにかを自分のものにしようとする欲望、その欲望のままに行動し、あげくそれに流され、相手の云いなりになるような人間が、どうして気高い騎士になり得るだろう。彼の試みは敗北した。彼は自分の能力にうぬぼれ、それに負けたのである。
 リーブ・トゥエスティはそれ以来、おのれのその能力を封印した。そしていまでは、あの能力ではなくて、言葉によって相手を説得しあやつるすべを身につけていた。今日の演説でも、彼の言葉に感動し、胸をふるわせていたご婦人がおり、静かに鼻をうごめかせていた殿方がいた。リーブ・トゥエスティは結局、政治家になった。権力を手にし、彼はいま世界をつくりあげ、あやつろうとしている。この世界そのものを、リーブ・トゥエスティは自分の作品とするだろうか。そしてそれと対話するだろうか。いずれその作品そのものが、おのれの言葉でもってリーブ・トゥエスティを断罪するだろうか。あるいはそそのかすだろうか。リーブ・トゥエスティは、そのそそのかしに耐えうるだろうか。自分はいかなるものも自由にできる力を持っているのだと、いずれそそのかされる日に、踏みとどまれるだろうか。誘いは美しい女の顔をしている。あるいはもしかすると、美しい男の顔であるかもしれない。甘く、危険で、あやうくて、自分が手を貸さなければ、守ってやらなければ、いずれ滅びてしまいそうに見えるものの顔をしている。
 リーブはこの夜、なぜだかいつまでも寝つけなかった。ようやく陥った浅い眠りのなかで、リーブ・トゥエスティは聖母に会い、あの少女の像に会い、孤児院の子どもたちに、あのきょうだいに会い、そしてクラウド・ストライフに会った。クラウド・ストライフはじっとリーブ・トゥエスティを見つめていた。彼はなにを求めているのだろうか。その目はなにを願っているのだろうか。なぜ彼はいまふたたび、リーブ・トゥエスティの前にあらわれようとしているのだろう。自分は彼のためになにをするべきだろう。ああ、これは誘いだろうか、いざないだろうか、そそのかしだろうか? クラウド・ストライフは謎だ、ひとつの人間的な謎…………
 目覚めたときには、リーブの心は決まっていた。彼は世界を作り、助けるように、クラウド・ストライフを助ける義務を感じていた。

3

 報告書があんな終わり方をした理由を、リーブはルーファウスの云う「歴史的会見」が行われるその日に、ツォン本人から聞きだすことができた。ご丁寧にリーブを迎えにやってきたツォンは、車に乗りこんだ彼に小さく、しかし敬意をもって一礼した。この男はなぜか昔から、リーブ・トゥエスティに本人の肩書きにふさわしい以上の敬意を認めていた。そしてリーブもまた、この仕事に忠実な男のことを畏れ敬うような気持ちを感じていた。
 それでリーブは、車が走りだしてしばらくたってから、こだわりなくこう話を切りだすことができた。
「しばらくお目にかかりませんでしたね。実はぜひお伺いしたいことがあったんですよ……あの報告書のことで」
 ツォンはすでに質問が出ることを予想していたかのように、小さくうなずいた。
「あれは途中まで、あなたの自信作だったのでは? といって悪ければ、文学的野心のうずいた案件というか」
 だが質問の仕方が予想外だったのか、ツォンはしばらくのあいだ黙っていた。やがて小さく笑みを浮かべて、当時を思いだすような顔になった。
「わたしは作家志望になどなったことはありませんよ、局長」
「でもあの報告書では、人間の謎への興味を隠すことができないといったふうでしたよ。心のうちを隠そうとしても、文章にしてしまえばなにも隠せない。書かれていないものをこそ伝えてしまうのが文字というものだから……」
「わたしを相手にテクスト論でも展開なさるおつもりですか? お望みとあらばおつきあいしますが」
 ツォンの声にはどこか楽しんでいるような気配が感じられた。
「まさか、わたしは文学も哲学も専門外ですよ……ただあなたが個人的に楽しんだでしょうねと云ったんです。それは伝わってきましたからね……」
「……楽しんだというより」
 ツォンはちょっとつき放したような口調で云った。
「ほとほと苦労したと云ったほうがいいでしょう。クラウド・ストライフに関しては、確かに楽しんだかもしれません。彼への興味がおさえがたいものだったことは認めます、彼への人間的な興味が……あなたはそれを読みとったのでしょう。ですが……」
 ツォンはほんの一瞬、顔をしかめた。
「あの報告書の本来の目的だったはずの人物、セフィロスという人物に関しては、実に悩まされたものです。昔からそうでした。彼はこちらが精一杯頭をひねって張った網を上から一度つまんでおいて、そ知らぬ顔でもとへ戻してなおかつ引っかかったようなふりをする人でした」
 リーブはこの描写を味わい、噛みしめた。
「まったくやりにくいことこの上なかった」
 ツォンはいまや本音を吐露していた。この男が、ほかにいったい誰の前でこんなことをするだろう。ルーファウス神羅の前ではないことは確かだったし、タークスの面々の前ではないことも確かだった。だがこの男に私生活などというものがあるとも思えなかった。おそらくそれだから、この男は仕事の合間に文学など読むのだ。
「わたしとしては、セフィロス氏への敬意から、彼のそうした態度を諧謔と云うべきか侮辱と云うべきかについてはあえて考えないことにしてきました。そして毎回きれいに忘れて流してきた。今回のこともそうです。われわれは必死になってクラウド・ストライフの行方を探していたわけですが、セフィロスにとっては、きっとすべてが冗談か遊びに過ぎないのでしょう。彼はそういう男です、彼に勝てる者などいません……たぶん、クラウド・ストライフを除いては」
 ツォンはいまいましげな表情を浮かべ、すぐにもとへ戻した。
「……報告書の終わり方が、わたしにはずいぶん不思議に思えました。あなたはあんなに楽しんでいたのに、あまりにもあっけなく、急に筆を折ってしまったという感じがして」
 リーブはひとつの可能性を思いつき、相手に水をむけた。間があった。ツォンの顔に、かすかな陰がいくつか浮かんで消えた。
「……その報告書をいよいよ書き終えようとしていたころ、彼が……セフィロスが……ふらりとわたしのところへ来ました」
「ああ、やはり彼でしたか」
「ええ、真夜中のことでした。ぎょっとさせられましたよ。物音がしたと思ってふり向いたら、彼がうしろに立っていましたから。からかうように笑っていました。わたしがどうやって入りこんだのですかと訊いたら、頭を指でとんとん叩いてみせました。彼は、われわれがクラウド・ストライフにつきまとうのは職業柄仕方がないにしても、そろそろやめてくれるように、そしてその報告書が書きあがった暁にはきっぱりとやめてくれるようにと云いました……」
 車は伍番街のほうへ向かって走っていた。いまだところどころにがれきが積み上げられ、骨組みがむき出しになったり屋根が崩れたりしている建物を横目に、車はなめらかに走っていた。
「わたしは、自分はそうしたことを判断できる立場にはないので、お気持ちはわかるがご希望に沿うのは難しいかもしれないと答えました。彼は笑って、それはそうだというように少し考えこむような顔をしたので、わたしは思わずこう訊いたのです。
『あなたはいったいなにを考えているのですか? 突然軍をやめて引きこもるようなことをして、これからどうするつもりですか? なにをしようと、神羅があなたを手放すわけはないのに……』
 いま思えば、あのとき彼はもうなにかを予感していたのかもしれません。彼はふいに楽しそうに笑って、こう云いました。
『きみたちはあの子の故郷に行ったのか?』
『ニブルヘイムですか? ええ、調査のために。わたしは行きませんでしたが、別の者をやりました』
『そうか……きみから話が聞けたら面白いだろうと思ったが。きみの描写を聞いたら、きっと思うところがあったろう。おれもあの村には非常に興味を引かれる。あの子と同じくらいに。なぜだろうな。なにかが無性におれを呼んでいるような気がする。あの子が呼んでいるのか、なにか別のものがそうしているのか』
 そう云って、ほとんどあこがれを抱いているような表情を浮かべました。
『ともかくおれはあえて機会を作ってでも行くつもりだ。いまはそれ以上のことはあまり考えていない。考えても仕方があるまい。先のことなど誰にもわからないのに。神羅を出ていったときには、おれだってこんなことになろうとは思いもしなかった』
 わたしはつい、好奇心をおさえきれずにこう訊いてしまいました。
『セフィロス、なぜあの少年兵だったのでしょう……彼は……つまり、わたしが云いたいのは……』
『あの子を見たか?』
 セフィロスはふいにそれまでとは打って変わった、冷笑といっていいような微笑を浮かべて云いました。正直に云って、わたしは少々ぞっとしたのですが、うなずきました。
『それでわからなかったのか? なにも感じなかった? そうだとしたらきみは幸せな男だ、それがわからないのなら……』
『わたしにわからないのは』
 セフィロスの声は熱っぽく、わたしは無性に不安に駆られ、無理に話をさえぎって訊きました。
『クラウド・ストライフという少年はいったいなんなのかということです。彼がなにをしたのですか? 周囲に対しても、あなたに対しても、彼はいったいなにをしたのですか。なにが起きたのですか、そしてなにが起こっているんです? ほんとうは、彼のまわりで……これは謎です、人間的な謎だ……』
『その謎がわかるには、きみもおれもあと千年は生きなくてはなるまいと思う』
 セフィロスは楽しそうに云いました。
『人間をあやつる運命の女神のすることは、われわれの理解を超えている。われわれはその前に無力なまま、鼻っつらを引きまわされて右往左往している……つかの間の幻のような幸福を、悲劇と悲劇のあいだに都合よく味わいながら。あの子はその幸福でありその悲劇だ……運命を甘受する気がないのなら、なにが起きてもかまわないという気がないのなら、あの子にあまり近づかないほうがいい。おれはいまきみのために云っている。単純に危険だと警告している。深入りはよすがいい、どんな穴に落とされるかわかったものではない。もっとも、それはあの子のせいではないのだが……おれは心から楽しんでいるが、おれのように楽しめるやつがいるとは思えない』
 セフィロスは心底楽しそうに、目を細めてわたしを見、云いたいことはそれだけだ、夜中に邪魔をしてすまなかった、と云って、また唐突に出ていきました。そのあと、わたしは数日かけて報告書を書きあげたのですが、深入りするなという彼の忠告が頭から離れず、結果としてあのような終わり方になってしまった。彼のその言葉の意味を、わたしはずいぶん考えたのですが……。そして報告書を書きあげたあとすぐに、あのニブルヘイムでのことがあった。そのために結局あの報告書は、日の目を見ずに終わってしまったというわけです……」
 ツォンは口を閉じた。車内に暗い静けさが広がった。車はもう、目的地である伍番街に着こうとしていた。
「……わたしには彼の云っていることがわかるような気がする」
 リーブは窓の外を見ながら云った。
「実際、非常に危険な人なんだと思いますよ、クラウドさんという人は。目があってしまうと、もう駄目だというようなね。わたしだって、こんなことになるとは思いもしなかった」
 ツォンがミラーごしにちらりとリーブの顔をうかがった。
「そして非常に嘆かわしいことに、あるいは幸福というべきなのでしょうかね、……それは美しい誘いなんです」
 ツォンはこの意味をとっくりと考えたようだった。そして静かに、半ばあきらめをにじませたような口調でこう云った。
「……わたしの人生はそうしたものからはほど遠い」
「わたしだってそう思っていましたよ」
 リーブは苦笑を浮かべてそう云うと、停止した車を降りた。

 リーブが歴史的会見の部屋に入ったとき、クラウド・ストライフはもうそこにいて、ソファのうえでおそろしくふてくされて不機嫌だった。唇をひん曲げて、むくれてそっぽを向いており、それが彼の美しさに、近寄りがたさというよりも致命的な愛らしさをそえていた。不機嫌に突きだされた唇はつままれるのを待っているように見え、鼻先までもつんとそっくりかえって、子どもの他愛ないわがままでも見るような景色をそえている。
 最後に彼を見てから、もう一年以上になる。なつかしさと新鮮さとを禁じ得ず、同時にこれまでのことや、報告書や、いろいろなことを思いだして、リーブは思わず赤面した。
 クラウドの横にはその「おまけ」とルーファウスが呼んだもの……その男のために、その男の死のためにクラウド・ストライフがすべてを賭けた男が、昔のままの、あのからかうような少々皮肉な顔つきで座っていた。テーブルをはさんで向かいのソファに、それと同じかそれ以上に皮肉っぽく辛辣な顔をしたルーファウスが座っており、ドアの横では、レノが相変わらずにやにや笑いを浮かべていた。
 リーブはルーファウスが顎で示した、空いたソファに腰を下ろした。ソファはテーブルをコの字型に囲むように並べてあり、リーブはちょうど向かいあった彼らを見わたすような位置に座らされた格好だった。クラウドはすっかり機嫌を損ねて、ソファの上に立てた膝に顔をうずめるようにしており、リーブがやってきたことにも関心をもたない様子だった。セフィロスはというと、そのクラウドをちらりと見てから、リーブを見やり、またクラウドを見て、なにかが愉快になったらしく、ひっそりと笑った。
「われわれのなかでもっとも忙しい男がやってきたようだから」
 ルーファウスは相変わらず嫌みっぽい口調で切りだした。
「はじめるとしようか? だがなにをはじめるのだろうな。実はわたしにもよくわからないのだが、そうだ、クラウド、きみにプレゼントがある」
 それを合図にしたように、ツォンがお茶のセットとカラフルな紙袋の乗った盆を手にテーブルへ近づいてきて、カップと取り皿を各人の前に置き、紙袋を真ん中に置いた。紙袋にはドーナツショップのロゴが入っており、中から甘ったるく油っぽい香りがただよってきた。
「これはきみの好物だろう、クラウド、昔懐かしい一品だ。弐番街の店が、去年復活した。きみがいなくなっているあいだにだ。大盛況だそうだ」
 クラウドは仰天して、袋を凝視し、それからルーファウスをにらみつけた。
「なぜ知っているのかという顔だな。もちろん、当時きみを監視していたからだ、タークスが」
 ルーファウスは声を上げて笑った。この若社長のおかしがるポイントが、リーブにはいつまでもよくわからなかった。
「突然きみたちを拘束してしまったので、なにかお詫びをしなくてはと思っていたのだ。まあこれで機嫌を直してくれ。ここにリーブ・トゥエスティが来ているのは気づいていたか? 認識して、挨拶くらいしてやってくれないか」
 クラウドはちらりとリーブを見たが、よりいっそう不機嫌な顔になって、目を背けた。彼はこんな状況に陥れられて、自分がからかわれ、侮辱されたと思っているのだろう。そしてリーブ・トゥエスティもそこに一枚噛んでいると思われているのだ。まったくの誤解だが、訂正しようとするのは逆効果に思え、リーブは小さくため息をついただけですませた。だが意外なことに、ルーファウスが弁護のために口を開いた。
「彼はわたしが呼んだだけで、この企てに参加していたわけではない……だから無罪だ、彼には怒りを向けるべきではない。純粋にきみに会いたがっていたんだ」
 その声は思いがけなく真摯なものを含んでいた。クラウドはふたたびちらりとリーブを見たが、やはり態度を変えず、なにも云わなかった。ドーナツの袋にも飲み物にも手をつけず、まるで喧嘩に負けて体面を失ったとでもいうように、傷ついた、不満げな顔をしていた。ルーファウスがため息をついた。
「やれやれ、だめか。少しは機嫌をなおしてくれると思ったんだが。きみが食べないならこのドーナツとかいうものをひとつもらおうか……わたしはこの手の市販品を食べたことがないのでね……この耐えがたい甘さはなんだ? 劣化した油の味がする。脂質と糖質の塊だ。信じられないほど不健康な食べ物だ。こんなものが人気なのか?」
 ルーファウスは指先でつまんだドーナツを少し自分から遠ざけ、不愉快そうに見つめた。
「おれも昔同じことを思ったが」
 セフィロスがはじめて口を開いた。
「いろいろ調べてみると、どうも脳というやつは不健康なものほどうまいと思ってしまうものらしい」
「本能の失われた種族の定めか」
 ルーファウスはひと口かじっただけのドーナツを取り皿に戻し、油と砂糖でべたついた指先がいかにも不快だというように手拭きでぬぐった。
 あとから思いかえしても、この会見がいったいなんだったのか、リーブにはよくわからなかった。ルーファウスとセフィロスはただ談笑していた。はじめはセフィロスの意図を疑っていたルーファウスだが、途中から、話題はあちこちに飛びはじめ、優雅なお茶のひとときというような様相を呈しはじめた。リーブは話題に入っていったものか、黙っていたほうがいいものか、どうにもつかみかねて、結局口をつぐんでクラウドをちらちら見つめていた。クラウドはずっと不機嫌だったが、それは侮辱を感じたことによるものから、退屈になってしまったためのものへ、時間とともにあからさまに変わっていった。最後のほうでは、彼はほとんど寝てしまいそうになっていた。
 クラウドが眠りかけていたころ、ルーファウスとセフィロスは、人民を効率的に統治するための手段という剣呑な話題について話していた。
「市民的な道徳。なんといってもこれだ。被支配階級にはぜひとも道徳が必要だ……というより、支配される者のみが道徳を必要とする」
 セフィロスは実に楽しそうに云った。
「清く祝福された夫婦関係、思いやりあふれる隣人愛、権威には敬意を、貧しき者には施しを、か? わたしに云わせればそんなものはほとんど宗教だ。それも、もっとも低劣な次元の宗教」
「もちろん、道徳はひとつの宗教だ。貞淑で慈悲深く忠実な、よき市民としての誇りのすべてがうるわしい被支配民を生む。こんなものは一種の奴隷根性だが、その奴隷根性も行きつくところまで行くと一気にアナーキズムに転覆してしまうのがおもむき深い。このちょうど中間の状態に人民を保つのはかなり微妙な舵とりを必要とする……だが恐怖よりは安あがりに違いない」
 セフィロスはうっそりと微笑んだ。ルーファウスは大げさに天を仰いだ。
「経費のことを云われると頭が痛い。いまやわれわれは魔晄エネルギーを失ってじり貧だからな。おやじのやり方も金がかかりすぎたが、世界がこういう状態になってしまっては、きみの云う道徳を全面に出す方法が一番向いているかもしれないな、まったく。宗教の復権か? わたしはそんな中世的な世界は大嫌いだ。無知と迷妄の支配する耐えがたい牢獄だ。そんなものの再来は断固として拒否する」
「お好きなように。無知と迷妄とはどうせ、抹殺されてもされても湧いてくるのだから。だいたいきみの欲望は、その無知と迷妄とをもっとも必要とするのではないか」
「だからわたしはその板挟みにあって、知恵を絞るのさ。そしていかにもこの世にふさわしく、道徳的な世界に道徳的な君主など必要ないことを証明してやろう」
「ああ、大それた野心よ。きみは神にたてつく者だ。きみの野望は偉大だが、ひとりの人間には偉大にすぎるかもしれない。きみに比べれば、おれの欲望などまったくたかがしれたものだ。おれはそんな野望にはつきあわないし、関係ももちたくない。この世の隅で、静かに花でも愛でていることにする」
 セフィロスはすっかり退屈してしまっているクラウドを見て、微笑んだ。退屈と不機嫌と眠さのために、クラウドの目はほとんど閉じかけていた。ドアにもたれて立っていたレノもあらかた眠っている状態で、ゆらゆら舟をこいでいたが、体勢を崩しそうになってはっとして顔をあげ、だるそうにあくびをした。クラウドもあくびをした。もうこの会見を終えるべきときだった。
「……ところでクラウド、きみはずっと黙ったままだが、なにか云いたいことはないか?」
 立ち上がり、出て行きかけたクラウドに、ルーファウスが訊いた。
「……おまえら全員くたばれ」
 クラウドは目を細めて部屋のなかを睨みわたし、吐きすてて、出ていった。ルーファウスが大笑いをはじめた。セフィロスがふき出しながらあとに続いたが、途中でなにかを思いだしたように戻ってきて、例のドーナツの袋をとりあげると、今度こそ出ていった。

 リーブはクラウドを追いかけて走った。伝えなければならないことがあった。あんな会見の場などでは、話ができるものでない。それにリーブは、相変わらずやっぱり彼の役に立ちたかった。彼に会って、その思いは弱まるどころか強くなっていた。
「クラウドさん!」
 建物の入り口で、リーブは追いついた。声を上げて呼ぶと、クラウドはふり返った。
「……なに」
 その迷惑そうな、いやそうな顔ときたら! リーブは一瞬くらくらし、同時に気がくじけてしまうところだった。だが自分がずっと考え、悩んできたことを、伝えないで終わるわけにはいかなかった。このことを云うためだけに、彼は今日ここへ来たのだ。拒絶されても踏まれても、なんなら殺されても伝えねばならない。
 セフィロスが少し先で、興味深げにこちらを見守っていた。口元は笑っていて、ルーファウスのものとはまた違った、皮肉っぽさと余裕に満ちていた。ふいにリーブは、彼にはみんなばれているという気がした。こちらの心のうちがみんな知られてしまっており、そのうえで遊ばれているような気がしてきた。そしてあろうことか、それに同情しているというような気配さえ、この男は醸しだしていた。
「用があるなら早く云ってくれないか、おれ帰りたいんだ」
 クラウドはいらいらと云った。
 リーブはその言葉に、ふっと笑ってしまった。帰りたい? どこへ? ああ、クラウドさんはそういう人だった。計画性があるようでぜんぜんなくて、かなりのことがその場の思いつきで、ものごとを深く考えたり検討したりするのはあまり得意ではなかった。リーブの胸のなかを、一瞬のうちにさまざまなものがよぎった。なつかしさ、憧憬、敬意、愛情、喜び、じれたような思い、あの旅のあいだに感じたもののすべて。彼はそれらを表現したかった。クラウド・ストライフとの個人的な関係を確かめるような言葉を交わしたかった。だが相手のおそるべき不機嫌がそれをさまたげていた。そしてその不機嫌さえ、リーブにはどこか子どもっぽくて微笑ましく見えた。やっぱりクラウドさんはクラウドさんとしか云いようがない、自分にとっては。たとえ彼がどんな人だったとしても。この人にふりまわされるなら、名誉なことだ。たとえこの人が、リーブ・トゥエスティのことなど一ミリも「興味ない」のだとしても。
 リーブは目を伏せて、自分のなかの感情を押しこめ、口を開いた。
「では用件だけ。その帰る場所の話ですけど」
 リーブは微笑んだ。
「クラウドさん、あなた、そもそもいったいどこへ帰るんですか? あてがあっておっしゃってるんですか? これからどうされるおつもりですか、おふたりで……雲隠れ? 逃亡生活?」
 クラウドの眉間のしわが深まった。かすかな動揺がその目に走ったように思われた。ほら、やっぱりなにも考えていないのだ。リーブは少し勇気を得て、畳みかけるように続けた。
「少なくともこの先も生きていかれるおつもりなんでしょう? 違うなんて云ったら怒りますよ……だったら、どうするんです、住む場所とか、食料とか、必要なものを買うお金。世界じゅう放浪でもするおつもりですか? 人目を避けて? 犯罪者みたいに隠れて? 確かにわたしたちみんな、なにかしらの意味で犯罪者かもしれないですけど、そんな必要はないでしょう……」
 リーブは甘く慈悲深いとさえいえるような声で訴えかけた。この声の調子に人を引きこむ力があり、なだめる力があり、説得や駆け引きに慣れた者の余裕があることを彼は知っていた。話を聞かせることに慣れている者の、政治家の余裕があり、相手を自然につつみこみ、飲みこんでしまえることを知っていた。自分でもわかるほどに興奮した熱っぽいまなざしを彼に注いで、リーブは続けた。
「なんだってあなたはそう雲隠れがお好きなんです? お名前だから? わたしたちのことを信用していないから? でもこの際理由はどうでもいいんです、わたしは単純にあなたの役に立ちたいんです。こうして多少は事情を知ってることですし。あなたが誰にも知られずにどこかでひっそり暮らしたいというなら、お手伝いします。家もお金もどうにかできます。放っておいてくれというなら構ったりしません。ただ、生活のお手伝いがしたいんです、苦手でしょ、そういうの……」
 リーブはそっと熱いため息をもらした。クラウド・ストライフのことだから、思いつきで逃げだしたはいいものの、いずれ途方に暮れてしまうに決まっている。これもまたいくつもの前例があるのだ。現実的な問題はこれ以上ないほどに苦手という人だ。いまさら仲間意識を振りかざして彼の私的な領域へ踏みこもうなどとは思っていなかったが、彼のために自分にできることを考えた結果だった。
 クラウドはちょっとのあいだおそろしく顔をしかめて考えこんでいた。そして不機嫌と当惑が入り交じったような顔で、リーブでなくセフィロスを見上げた。
「おれなに云われてるかぜんぜんわかんない。あんたわかる?」
「……たぶん」
「じゃあ、あんたが話してよ。おれどっかそのへんにいる」
「クラウドさん!」
 クラウドがほんとうにそのままどこかへ行きかけたので、リーブは驚き、思わず強い調子で呼びかけた。だがクラウドは相変わらず眉をしかめたまま、足を踏みだすのをやめただけだった。
 なにを云われているかぜんぜんわからないだって? リーブは青ざめた。なにがわからないというのだろう? この話のどこに、自分の気持ちのどこに、わからないようなものがあるだろう?
 青ざめてしまったリーブを見て、クラウドは困惑したような顔をした。
「あんたらみんななんなんだ? なにがしたいのかさっぱりわからない」
 クラウドはいらついた調子を隠さずに云った。
「なんでおれに構う? なんでほっといてくれない? おれなにか頼んだか? どいつもこいつも、そっちからちょっかいかけてくるくせに、おれが相手にしないと怒ったりどうのこうの云ってきたり、ほんとなんなんだ? わけがわからない。それでなんでかしまいに必ずおれが悪いことになるんだ。ほんとにどいつもこいつも」
 クラウドはしだいに激昂してきて、最後のほうでは耐えかねたように、ほとんど爆発して云った。彼はもはやリーブに向けて話しているのではなかった。彼個人にではなく、ありとあらゆるものに、この世界そのものに、怒りをぶちまけていた。こんな激しく感情的なクラウド・ストライフを、リーブははじめて見たような気がした。そういえば、今日のクラウド・ストライフはずっと、子どものように自分の感情をむき出しにしていた。不機嫌を隠さず、それをおさえようともせず、そしていまは、こんなふうに怒りをさらけ出している。口調までも、今日の彼はいつもの突き放したような、うちにこもった調子を欠いている。
「おれの完璧な蒸発計画が」
 彼はほとんど絞りだすように云った。
「失敗したんだぞ。あんたらのせいで。今度こそいなくなってやるって思ったのに。ああもう!」
 クラウドはそこまで云うと、唇をぎゅっと結んで、そしてふいに表情を消した。あふれかえっていた感情が一気に彼のなかに引き戻されて、片鱗も見えなくなった。だがそれは感情をあらわにしたことを恥じてのことではなかった。むしろ傷つき、意固地になって、もう誰にもなにも与えてやるものかと固く決意した人間の気配に近かった。彼は急にドアを開き、そしてまた急に閉じた。ドアが開いたときに生じた旋風のような、渦のようなものは、ドアが閉じられたとき、自分自身の感情を巻きこみ、飲みこみながら消えていった。
 この感情の乱高下は、リーブを戦慄させた。自分が非常にまずいことをしたのに気がついて、彼は動揺した。リーブ・トゥエスティはどうやら致命的な一撃を、最後のとどめといったものを与えてしまったようなのだ。リーブはいま、いたわりに満ちた言葉をかけたのだった。彼を尊重し、大切に思っていると声をかけたのだった。力になれると、助けることができると声をかけたのだった。ああ、自分はなにを期待して、こんなふうに彼に言葉をかけたのだろう、そうして彼をあやつろうとしたのだろう。子どものころ彼が嫌悪していた、あの聖母へ向けられる無神経さ、独善的で道徳的な連中の無神経さ、それをよりにもよって、もっともふさわしくない人へ、もっとも繊細な、否もっとも高貴な配慮を必要とする人へ、リーブ・トゥエスティは投げつけたのだ。
 リーブ・トゥエスティは慄然とした。彼はどうにか「すみません」のひとことを絞りだした。だがもう遅かった。クラウドはもうなにも見ていなかった。彼はセフィロスの腕を引っぱって、逃げだそうとしていた。それも当然だ。世界にあまねく満ちているこのものから逃れるには、ただ逃れるしかないのだから……そしてクラウド・ストライフは、昔からただそれだけを求めていたのではなかったか? この男の人生は、もしや、ただそれだけのことではなかったか?
 ふと、こちらを見つめているセフィロスと目があった。どうするのだ、この失態を? 彼はそう問いかけているように見えた。おまえは少しは話のわかる男だと思ったが、そのおまえまで、なにひとつ気づかなかったのか、こんなにひどい失態を犯すまで、なにひとつ?
 リーブは唇を噛んだ。だがもうどうすることもできない。だってなにもできないことがわかったのだから。なにもしてはならないということがわかったのだから……。
 セフィロスがふいに微笑んだ。そうして逃げだしにかかっているクラウドの腕をつかんで、そっと引きとめた。
「もちろん、われわれはもうここには用がないし、おれとしてもこんな場所はいますぐ引き払ってしまいたいのだが」
 クラウドが顔を上げてセフィロスを見た。彼はこの男のことだけを見ていた。
「ここを出てどこに行くかについて、いまいいことを思いついた。それで、思いついた場所はかなり遠いのだが、おまえを怒らせた罰として、この男に適当なところまで送ってもらったらどうだろう。責任をもって」
 クラウドはセフィロスを見上げて、しばらくぱちぱちまばたきしていた。それからその提案が気に入ったらしく、こくんとうなずいた。

 気持ちがようやく落ちついてきたのは、輸送用のトラックに乗りこんで、しばらくたってからだった。トラックの荷台には幌が張ってあって、クラウドはその荷台にいるといってきかず、ひとりで乗りこんで入り口を閉めてしまった。運転はリーブが自ら引き受けた。セフィロスはおとなしく助手席に乗りこんでいた。
 ハンドルを握ってしばらくすると、ようやく動揺がおさまってきた。その間、セフィロスはじっと黙っていた。ほとんど気配すら感じさせないほど黙りこんで座っていた。この男がこんなに存在感を消すことができるとは驚きだった。そしてあんなことがあったあとで、こんなに落ちついた、穏やかなと云ってもいいような顔をしているのが不思議だった。その余裕のある顔を見ていると、リーブは急にいまいましいような気持ちになってきた。ルーファウスが云っていたではないか。この男があえてクラウド・ストライフをタークスに見つけさせたのではないかと。とすると、こんなことになってしまったのは、もとはと云えばこの男のせいとも云えるのではないか。
「……きみの怒りは妥当だと思う」
 セフィロスがふいに口を開いた。そしてリーブを愉快そうな目で見つめた。心のうちを見透かされて、リーブはうろたえた。
「あの子がひどい目に遭っているときは、たいがいおれのせいだ。昔からわかっていた。おれにはあの子を怒らせる才能があると」
 セフィロスは微笑し、目を伏せた。皮肉をこめた言葉は、それを誇りに思っているというふうに聞こえた。云いようのない怒りがつのってきて、リーブは唇を噛んだ。
「あなた、わかっているならなぜ……」
「理由はいくつかある。どうしようもないところから云えば、単純に怒っているあの子を見るのが好きだし、なだめる過程が楽しい。ときどきみじめな気分になりたいことは? 自分がこのうえなく愚かで、この世で一番頭の悪い人間だと思いたい瞬間はないか?」
「そんな話は聞きたくありませんね」
 リーブは自分の語気のするどさにわれながら驚いていた。こんなふうに投げつけるような口調で人にものを云ったことなど、数えるほどしかなかった。
 セフィロスはふむ、と鼻を鳴らした。
「それなら美しいほうの理由を云おう。いまきみがおれに腹を立てているように、おれはあの子を理解しないこの世のすべてに腹を立てている」
 セフィロスは急に忘れていた怒りを思いだしたとでもいうように、ちょっと眉をしかめた。
「だいたいこの星はありとあらゆる意味で腹立たしい。言語と物象の関係ははなはだしい破綻を来しているし、物理法則は傲慢きわまりなく、人間は愚かで、星の意志などと呼ばれるあの……呼び方はなんでもいい、あの行き場を失った意識の屍のようなものの集合体のことだ、あれが大手を振ってのさばっている、神のごとくに」
 彼はまるでたいへんな苦痛を忍び、愚か者どもに我慢してつきあってやっているのだとでも云いたげだった。
「それならなぜこんなところにいるか? それがまた愚かしい話だ。おれはあの子のいないところでは息ができないらしい。まったく致命的な欠点だ。らしい欠点ではあるが。要するに、きみがあの子に義務を感じているように、おれも義務を感じている。ほとんど奴隷の義務を。太古の昔から、人が惚れた相手に対して常にそうであるように、相手の望みをかなえるために、躍起になって働こうとする。相手の尊い望みのためになら、ときに先んじてあの子の幸福を犠牲にすることさえ必要になる。まったく大変な綱渡りだ。求められていることは単純だが、その実行たるやすこぶる難儀で困難続きときている。もっとも、求愛者たる者は幾多の困難を乗りこえるものと相場が決まっているのだが、さておれがどこまで耐えられるものか」
 そしてセフィロスは自嘲するように笑った。
 リーブは彼の饒舌になかば気圧されながら、あの報告書のことを思いだしていた。クラウド・ストライフとつきあうとは、正気を疑うとレノは云った。そしてあの報告書を書いているツォンに、セフィロスは警告したのだ、あの子は危険だから深入りするな、と。セフィロスは、そしてクラウド・ストライフは、遠ざけ、遠ざかろうとしていた。あのときからすでに。
「……それでクラウドさんは、結局、いまなにを望んでいるんです?」
 リーブはちらりとセフィロスを見やった。彼は相変わらず自分自身を笑っているかのような表情を浮かべていた。
「いまはなにも」
 セフィロスはきっぱりと云った。
「なにも?」
 リーブは訊き返した。
「なにも。だがそれがまたおそろしく実現困難だ。一番難しいかもしれない。欲望を抱える人間があの子に会えば、なにか起こらずにはいない。本人はむしろ逃げまわっているくらいなのだが、他人の欲望があの子を追いかけてきてまでつかんでしまうというわけだ」
 セフィロスはもの憂く云った。リーブは自分の失態を思いだして、赤面しそうになった。
「……笑える話なんですが」
 しばらくたってから、リーブは打ちあけ話でもするような調子で話しはじめた。
「さっきまで、わたし、自分はほかの人たちよりクラウドさんのことを少しはわかっていると思っていたんです。おかしいでしょう? 彼はとても謎めいているけれど、きっとそのせいで、自分だけはわかっているというような気になっていた」
 セフィロスは同情するように少し微笑んだ。
「あの子にそう思わせる隙があるのは認める。隙というのが正しいのかどうか。正確には単なる無関心なのだが、往々にして人はそれを許容と勘違いしてしまう。自分はこの人に受け入れられたのだ、と」
「ええ、いまならよくわかりますよ。そういう勘違いには、立場上わたしも気をつけてきたほうなんですが、どうもクラウドさんには……調子が狂うというかなんというか……」
 リーブは自嘲気味に頭をかいた。なにがおかしかったのか、セフィロスは突然笑いだした。
「いや、失礼。一瞬、ようやくおれと同じ目に遭っている男があらわれたのだろうかと思って。きみがいまよく無事でここにいるものだと思って、実は少し感心している」
「……はい?」
 セフィロスは満足そうに笑っていた。
「つまりきみは試練に耐えたわけだ。鋭さともろさと美しさ……悪魔的な組みあわせだ。ある種の人間には、あの子はまったく抗いがたい魅力をもって映る。自分がそうだからよくわかる。だからある人間は危険を感じて本能的に身を引くか叩き出そうとするし、最初から無視してかかる者もいる。殺そうとする人間もいるが、自分から突撃して自爆するのは、よほどおめでたいやつか、よほど悲劇的な人種か、あるいはよほどあの子を愛しているかだ」
 あたりにはもう夕闇がせまりつつあった。うなだれたような春の午後の日差しが、ゆっくりと衰えて、あわいオレンジ色を帯びはじめていた。トラックはにわかに赤く染まりはじめた景色のなかを、淡々と走っていた。
「きみはその最後の人種なのか? だから無事に生きているのだろうか? きみは正しく美と愛に殉ずる騎士なのだろうか。そこにすべてを傾けるような」
 なつかしい言葉に思いがけない再会を果たして、リーブははっとした。記憶がよみがえってきて、幼い自分自身が、そのころの感情が、思いが、彼のうちに呼びさまされた。
「……昔、そうありたいと願ったことがありました」
 なつかしい思いにとらわれて、リーブは目を細めた。
「勇敢に、誠実に、そのために死をもおそれぬ覚悟をもって。でもこの地上で、その誓いを守りとおすことは難しい。結局、わたしは挫折したんです。そして堕ちていった、欲望の側へ。その破られた誓いを、失われたものを、あがなう方法をわたしはおそらくずっと求めていたんですが……そしてそのために、クラウドさんを犠牲にしかけたわけですよ。欲望を抱える人間が彼に会えば、なにかが起きずにはいない……まったくねえ。あとになってみるとたいていのことがそうなんですが、これもまた、実に壮大なひとり芝居でしたよ」
 セフィロスはなにも云わずにそっと笑った。その顔には、あわれみのような、同情のような、目立たぬ静かな深い感情のあらわれがあった。

 やがてトラックはセフィロスの云う目的地についた。だだっ広い草原のど真ん中だった。彼がここからどこを目指すつもりなのか、それはリーブには関係のないことだった。セフィロスは降りていって荷台の幌をめくりあげた。クラウドは奥のほうに、胎児のようなかっこうで転がっていたが、幌が開かれたのを感じてまぶしげに顔を上げ、すねたようにこう云った。
「……酔った」
 そうしてまた荷台に倒れた。セフィロスがふき出した。
 乗りもの酔いを落ちつけるために荷台に座っているあいだ、クラウドは相変わらずのふくれっ顔をして、われと我が身に腹を立てているといったふうだった。立てた膝にこころもち青くなった顔をうずめるようにして、不機嫌に目をとんがらせていた。セフィロスはその横に座って、背中をさすってやりながら感動的なほどかいがいしくつきそっていたが、クラウドは彼にぶつぶつ文句を云って、実に豊かな罵詈雑言を披露したあげく、ようやく酔いがおさまって、荷台から飛びおりた。
「あんた運転下手」
 クラウドはおまえのせいだと云わんばかりにリーブをにらみつけ、そう吐き捨てて、とっとと歩きだしてしまった。セフィロスはまたひとりで笑っていた。今日のクラウド・ストライフは、どうもすべてにおいてどこか子どものようだ。十六歳のままとまってしまったクラウド・ストライフが、いまようやくその続きをしているとでもいうように。
「すっかり嫌われちゃいましたねえ」
 リーブは苦笑を浮かべてクラウドを見送りながら云った。セフィロスはなにか考えているような微笑を浮かべた。
「あの子が立ちなおったら連絡させよう。数時間か、数ヶ月か、数年か。誰にもわからない。あの子はいつまでも魅力的な謎だ。その謎のためだけに、何千年と費やすに値する。くたびれ果てた体にむち打って戻ってくるに値する。この星などもうおれにはほとんど意味のない点のようなものにすぎないのだが、あの存在があるかぎり、それが意味そのものになる。すべてを与え、すべてを奪う。全人類が、あの子と同じ星に生まれていることを感謝するべきだ、おれのように、あるいはきみのように」
 リーブは笑いだした。
「わたしもわれながら大概だと思ってましたが、あなたも相当な方ですね」
「真理の問題と云ってほしい。なにに忠誠を誓い、なにを守ろうとするかで、存在の様式が決まる。この星はいろいろと気にくわないところも多いが、選んだのはおれだし、結局はなかなか幸福にやっている……ときどきは、この世にほかにも人間がいることをあの子に思いださせよう。そして自分が君臨することのできる人間が、存外多くいるのだということを示してやろう」
 セフィロスはそこまで云うと、リーブがなにか云うのを待たずにクラウドを追いかけて行ってしまった。足の長い彼はすぐにクラウドに追いついた。クラウドは追いつかれたのに気がついて、いまいましげにセフィロスにどしんとぶつかり、肘で押しやり、ひとりでずんずん行ってしまった。そしてまたすぐに追いつかれて、同じことをやり、しまいには体に腕を回されて、ようやくおとなしくなった。リーブには、むくれた彼がくんくん鼻を鳴らすのが見えるようだった。
 リーブは思わずふき出してしまった。この先、運がよくて、クラウド・ストライフのご機嫌がよければ、きっとときどきは、彼に会えるか、存在を確認するくらいのことはできるだろう。それくらいは許されるだろう。彼にはもう立派すぎるほど立派な騎士がひとりいるが、ときどき献金し捧げものを祭壇に捧げる信者のひとりくらい、存在を許されるだろう。そしてそれこそが、リーブ・トゥエスティが長いこと求めてきた地位であったかもしれないのだ。
 彼はトラックに乗りこみ、エンジンをかけた。運転が下手だと云われてしまったのがちょっと悔しかった。次にクラウドを自分の運転する車に乗せるようなことがあったら、最大限に気をくばって、いとも神聖な彼が、セフィロスの弁に従えばこの地上にいることが奇跡のような彼が、乗りもの酔いに悩まされぬようにしてやらねばなるまい。

失踪者たちの対話

 クラウドがおそろしくぷりぷりして歩いているので、セフィロスは笑いを禁じ得なかったが、そんなことをしようものならこの場で怒りにまかせて別れを告げられるか、殴り倒されるかしてしまいそうだった。それで、なんとか笑いをおさえ、彼をなぐさめるために肩に手を回して自分のほうへ引きよせた。さきほどリーブ・トゥエスティも怒っていたように、今日のクラウドの怒りは全面的に自分のせいなのだ。
「どうかご機嫌をなおしてくださいませんか」
 セフィロスは下手に出て云った。
「無理。いろいろ全部無理。おれの許容範囲超えた。あいつら絶対許さない。一ミリも許さない。ルーファウスの野郎、あのクソボンボン、おれの蒸発計画台なしにした。おまけにドーナツのことなんか云った。あいつが食ったやつ、おれの一番好きな味だったのに。金持ちなんかみんな死ねばいい。だいたいあんた、なんでそのドーナツもってくるんだよ、乞食みたいだろ。そういうことするの乞食だって母さん云ってた。でも腹減った。やっぱ食う」
 クラウドはセフィロスの手からドーナツの袋を奪いとり、手をつっこんで、むしゃむしゃやりはじめた。
「そう怒ってくれるな。あの男なりに……まあかなり独特というか、わかりにくい伝え方ではあるが……おまえに気を遣ったんだ。みんなおまえが気になって仕方がないというわけだ」
「ふざけるなよ、迷惑だ。おれのことなんかどうでもいいだろ、いちいち気にするなよ」
 ふたつ目のドーナツにかじりつきながら、クラウドはうなった。
「まあその通りだが、魅力的に生まれてしまった自分を呪うしかないな。それに、リーブ・トゥエスティの真剣さを考えてみろ。あの男はおまえの役に立とうと必死だった」
「おれは頼んでない」
「そうだが、そもそも人間というのはそういうひとりよがりなものだ。あれはおまえの崇拝者なんだ、慈悲をかけてやってほしい」
「なんだよそれ」
 砂糖にまみれた指をしゃぶって、クラウドはこちらを伺うような視線を向けた。セフィロスは少し考えて、続きを口にした。
「たとえばだ、さっきおまえがぜんぜんわからないと云った援助云々の話にしても、あの男はあまりにもまっとうに、自分の感情をおさえて伝えたからまずかった。あんな云い方ではなくて、こう云えばよかった。あなたを崇拝しています、どうか贈りものを受けとってください、ほかにはなにも求めません」
「……は? じゃなんで最初からそう云わない? それならおれなに云われてるかわかる」
 クラウドは三つ目のドーナツを口に運んでいた手を止めて、目をぱちくりさせた。
「だから、ずいぶんまずい伝え方だった。一般大衆だの社会だのに対してはあれでいいだろうが、おまえに対しては一番まずいやり方だった。あれでは侮辱しにかかったようなものだ」
「あのさ、昔からだけど、なんでみんなおれにわかるように云ってくれないわけ? そういうやつ嫌い。おれのことわかんないやつと、おれにわかるようにものを云ってくれないやつは嫌い」
「そうなると、嘆かわしいことに、人類の大半が当てはまってしまうだろうな。おれもかなりあやしい気がしてきた」
 クラウドは吟味するように唇をすぼめ、片目を細めてセフィロスを見た。それがまたたいへん魅力的な表情だった。
「あんたはギリギリ合格って感じだね、いまんとこ」
「ああ、泣くほどありがたい。苦労したかいがあった」
「おれ優しいだろ? あんたには優しいんだ、こういうの惚れたよしみとか云うの? 違う? あっそう。あれ? ちょっと待てよ、てことは、リーブのやつ、おれに惚れてる? それ本気で云ってる?」
 クラウドは信じられないというような顔をして、食べかけのドーナツを手にしたまま、口を開けてぱちぱちまばたきした。セフィロスは盛大にため息をついた。
「ああ、このうるわしい鈍さよ。たぶん、あの男はおまえの手を握るためなら悪魔に魂も売りわたすかもしれない。今度やってみるといい。片手をあの男の前に差しだして、握らせてやるから家でも買ってくれと云ったら、家どころか一生かかっても使いきれないほどのものをくれてよこすかもしれないな」
「おれ人に触られるの嫌いだから無理」
 クラウドはすげなく云い、ドーナツの残りを食べ終えた。彼の機嫌は目に見えてよくなった。
「ふうん、なんか意外だな。おれあいつのことチャンピオン級のカタブツって呼んでるんだけどさ。だってセックスのことなんか考えたら呪われるとか思ってそう。どういう育ち方したらああなるんだろ」
「育ち方については知らないが、どちらかというと性格の問題であるような気がする。ああいう男だから、おまえに清楚な夢を見て、あげくに夢を破壊されて苦しむはめになる」
「なに清潔な夢って」
「おまえはこのあいだまで、あの男のなかでは、白百合の咲く天上の園に住んでいた。おまえの云うチャンピオン級のカタブツが、いかにも美しいもののなかに見る純潔な夢だ」
「要するに童貞っぽい夢ってこと?」
「あからさまに云えばそうだ。おまえは天のものだった。そして堕天した、おぞましいほどひと息に。おまえがほんとうは清楚でも純潔でもなんでもなくて、ただひとりの男のために出奔したことがわかったとき、あの男がいったいどういう感情に直面したか、想像するだけであわれに思えてきてしまう……少々おかしみのあるあわれさだが」
「それ妄想だよ」
 クラウドはにべもなく云った。
「みんなおれに妄想しすぎ。ほんと、どいつもこいつも。だからおれ人って嫌いなんだ。みんなまとめて星ごとくたばりゃいいよ」
「それがおまえの望みなら、面倒だがもう一度頑張ってみるか」
「あんた、できんの? こないだ、もうくたびれたって云ってなかった?」
「確かにくたびれた。できれば二度とごめんだ。すべては徒労だ、なにをしようと、こんな場所にいたのでは。別の存在の仕方はいくらでもあるが、それはまあ、おいおい話すとしよう」
「それ、おれにわかる話?」
「時期がくれば、あるいは。だがいまはどうでもいい。ここがどこで、われわれがどこへ向かっているか、おまえはわかるか?」
 クラウドは、いまはじめてまわりのことに気がついたというように、興味深げにあたりを見まわした。そしてすぐにぴんと来たらしく、もう目的地がわかって、目を輝かせて走りだした。
 思い出に戻るのはいいものだ。それがふたりだけの、閉じた世界のなかに、いつまでもこだまして、めぐっているような思い出なら。あの森の家へたどりついたらば、古典悲劇のひそみにならって、大地にひれ伏し、口づけて、おお親代々のなつかしい地べたよ、とでもやらねばなるまい。そしてクラウドに、またなにかはじめやがったこいつは、というような目で見られ、冷たくあしらわれればそれでいいのだ。

あとがき