英雄志願者の死

 日ざしはすでに盛りを過ぎて、森のなかに神秘的な、けぶるような翡翠色を穏やかに投げかけていた。それは目の前の泉のうえに、青と緑の美しい色を広げた。
 そこは夢のような場所であった。ブナやマツのあいまを縫って、葦やシダの茂みのあいだから、泉がふいに顔を出すこの場所をセフィロスは気に入っていた。高々とそびえる木々が立ちはだかった、黒い恐ろしいような森をぬけ、岩場や倒れた大木やじめじめした沢辺を越えて、はじめて達することのできる場所だった。暗い灰色の森のなかに、ふとほの明るい光のきざしのようなものが感じられ、それに導かれるようになお木々のあいだを進んでゆくと、ふいに視界が開け、さえぎられていた光は翡翠色をまとって天上から惜しげもなく帯のように降りそそぎ、美しい青々とした泉が静かに身を横たえている。泉のうえでは、光は煙のように、もやのように青みをおびた白に輝いている。泉の水は甘く、冷たく透きとおっていて、ここまでたどりついた者への褒美のように、ときどき水面を揺らして、さらさらと涼やかな音をたてる。それと木々のざわめきのほかに、音をたてるものはない。森のもっとも奥深いこの場所は、すべてのものからあまりにも遠く、あまりにも森閑とした神聖さをおびていた。
 至上の地は、あるいはこのような場所のことであるかもしれない。乳白色の光と美しい緑とが混じりあい、青い泉のうえにエメラルドグリーンの楽園を描きだす。風は青緑の色のなかでたわむれ、泉の水とふれあい、生命の豊かさを謳いあげている。
 森をさんざんに歩きまわってこの場所へたどりついたとき、セフィロスは自分が森に受け入れられたことを知ったのだった。そのころの自分のことを、セフィロスは「手おくれになる直前にもぎとった反抗期」と名づけていた。長年自分を養ってきた会社にもう知らぬと云い、絶縁状をつきつけ、好きにすると云って出てしまったあと、彼はもはや頼りになるものをなにももたず、なんの人脈も、いかなるあてもない放浪者となった。そうなることを彼はよろこんだ。心細さは感じなかった。戦争は終わった。殺戮の英雄は、もはや地上に居場所をもたないのだ。それは人間の思惑や仕組みを超えた摂理である。
 ほとんど一縷の望みのようなものをかけてたどりついた森だった。自分だけの場所を、他人から与えられるのでなく自分の手でつかみ、そして存在を許される場所を、彼は切望していた。環境をがらりと変える必要があった。おのれの存在の様式そのものを根本的に変えてしまうために、なにもかもを逆転させ、転覆させる必要があった。都会をはなれ、彼は田舎へ向かった。人工を捨て、自然へとおもむいた。ただおのれの足を信じて。
 たどりついた森ははじめよそよそしい、疑りぶかい顔で、この新参者の男をどうしようか決めかねるようすだった。セフィロスはそれを感じたが、森をなだめ、受け入れてもらうための儀式はすでに人間のあいだから失われて久しかった。セフィロスはそれを痛切に感じた。自分と森とがはるか以前にとりかえしのつかないほどに分かたれてしまっており、もはや互いに意志疎通するすべさえも失われているのを感じた。
 おまえの気持ちがおれにはわからない。セフィロスは神秘的な迷宮を隠す入り口の前にたたずみ、悲しくそう呼びかけた。おれの気持ちもおまえにはわかるまい。われわれはなんと他人であることだろう。われわれの前には、なんという大きな隔たりがあることだろう。
 だがセフィロスは根本的に、どうしようもない愚かな楽天家だった。楽天家が常にそうであるように、はなはだ無為無策で、なりゆきにまかせることの力を信じて疑っていなかった。それはおそらく半分は恐怖の欠如から来ていたが、あとの半分はまぎれもなく生来の性格から来ていた。彼はおのれの性格のほうを信じた。それに根ざした直感のようなものを信じた。そして身をゆだねるために森へ飛びこんだ。森が不信を解いて、懐を開く気になるまで、相手に試みさせるために飛びこんだ。死の恐怖は彼には無縁のものだった。なにものも自分のなかに恐怖を呼び起こさないことが彼の一番の恐怖だった。自分の死は、なにか非現実のものであり、周りはすべて滅びても、自分は滅びる気がしない、それを許されていないというような、奇妙な実感が彼にはあった。それがまた彼を天井知らずの楽天家にしてもいた。
 森は突然自分のなかに入りこんできたこの異物におののき、排除しようとして、道を閉ざし、同じ場所をぐるぐるとめぐらせた。それが森のやりかたなのだ。森の不安……人間が黒い森におびえるように、森も人間におびえるのだ。森と人とが出会い、互いに互いの存在がひとつのよろこびになるまで、人は森の試みにあって、何度も迷い、道を失い、途方に暮れなければならない。そうして根気づよく信頼を勝ち得なければならない。そのような根くらべなら、セフィロスは負ける気がしなかった。それは実在と実在の勝負、人格と人格の勝負なのだ。それならば、彼は存分に楽しみ、愛してやまない気になれた。命を奪うための勝負には、彼はもはや飽きていた。そもそものはじめから、そんなものを欲したことは一度もなかった。
 セフィロスにとって、勝利はこの泉を見つけた瞬間におとずれた。否、見つけたという言葉は能動的でありすぎる、彼は導かれたのだ。森へ飛びこんでから、何日が、あるいは何週間がすぎたのか、彼はもはや気にもとめていなかった。彼はもうとうに森の時間を生きていた。真っ暗な夜と、ほの暗い昼、森の奥深くにはそのどちらかしかない。暗い森の胎内を歩きまわることは、天体の運行を頼りに生きるのとは天と地ほども違った。それがまたセフィロスをよろこばせ、静かに高揚する解放感で満たした。おれはもうこの世のものでない。おれはこの世に属していない。そんなことを、セフィロスは何度も思い、そのたびにわき起こってくる愉快さを噛みしめた。
 もっとも奥深い場所にある、神秘的な美しさ。森の聖所。もっとも優美な、もっとも繊細な、至聖所に彼は招かれた。それは森の降伏のあかし、あるいは友情の、信頼のあかしだった。おまえはここにいてもよい、われわれはおまえを受けいれる、という声を、セフィロスは聞いた気がした。それは全身に染みわたるよろこびを彼にもたらした。なんの後ろ盾もない、ただひとりの男として、自分の力で、彼はそれを勝ちとったのだ。辛抱づよく、忍耐し、あてどのなささえもよろこびとしながら。おののくような気持ちで彼は落ち葉のつもった地面を踏みしめ、一歩ずつ慎重にシダや葦の茂みを踏みわけ、優しく揺らめく泉のまえに立った。染みわたる静けさのなかの聖なる美しさは、この場所にみなぎっていた。生命をもたらすもの、生命そのものの息吹は、この泉の深みからのぼってきて、きらめきを放ちながらあたりに充溢していた。
 感謝の祈りを彼は知らなかった。詩作も彼はできなかった。そこでその場に倒れこみ、大地に頬をつけて彼はじっとしていた。鳥の鳴き声さえ遮られた、葉のささやくようなかすかな音だけが聞こえる場所で、森のうちなる生命のなかで、彼は肢体をのばし、安らいだ。緑色の風がそよいだ。その風のなかに、彼は還ってゆく気がした。このような深い受容を、彼はまだ経験したことがなかった。個体である必要を、彼はもはや感じなかった。すべてが溶けあい、ひとつであるときのあの恍惚と安堵を、彼は感じた。
 その日以来、彼は心安んじてこの森に居を構え、のんきな隠遁生活をはじめた。しばしばこの泉の聖所を訪れ、なにをするでもなくたたずんで、翡翠色の木漏れ日のなかで長い時間を過ごした。彼はそれを愛し、まるでおのれ自身を確かめるように、その場所の木や草や泉の水の冷たさを確かめた。それは自分の力で手に入れたがゆえに真実に彼のものであり、それゆえにまた真実に彼自身であった。

 この聖所に少年を連れてくることになぜためいらいを感じなかったか。ともかく彼はためらわなかった。クラウドが相変わらず手ぶらでやってきたこの週末に(彼はいつも遊び道具をなにももってこなかった。この歳ごろの少年たちが熱中しているゲームだとか音楽だとか雑誌だとかのたぐいを、都会にあるものを、彼はなにひとつここへもちこまないで、ただ体だけをもってきた。まるでそれ以外のものは実在でなく不要であると尊大に確信しているみたいに)、セフィロスはだしぬけにクラウドを森の泉へ連れてゆくことに決めてしまった。おもしろい場所があり、水浴びもできると云って彼を誘った。
 クラウドはちょっと首を傾け(それは実に魅力的なしぐさだった)、唇をすぼめて考えこむように見えたが、すぐに目を見ひらきセフィロスを見あげて興味を示した。この少年の好奇心をうごかし、興味を引きだし、誘いだすことはよろこびだった。少年をよろこばせることのよろこびを彼は感じた。
 だがあるいはこれはひとつの試みだろうか。少年をともなって森を歩きながらセフィロスは考えた。自分はクラウドの反応を見ようとしているのだろうか。あの場所に、クラウドがなにを見出すかによって、なにを感じるかによって、この少年がどんな存在であるのかを、確かめようとしているのだろうか。それによってこの少年を見きわめようとしているのだろうか。だがいったいなにを見きわめ、なにを試すというのだろう。自分のなかにもうすっかり居座ってしまっている少年にたいして、試みることなどできるのだろうか。望みどおりの好ましい反応を示すかどうか、あるいはこちらが失望するような反応を示すかもしれないなどと考える、そんなことが、この少年にたいして許されるだろうか。この美しい、皮肉げで、激しくて冷たく、おのれの存在の価値などに悩むことの決してない少年に。
 クラウドは着替えとタオルと水着が入っているショルダーバッグを右肩から下げて、セフィロスについてきた。彼は水浴びが死ぬほど好きだと云った。
「おれは水場を見ると飛びこんじゃうんです、昔から、なんでか知らないけど」
「ニブルヘイム一帯が水がちな地方だという記憶はないが」
「そうだけど、でも森のなかに湖があったり、あちこちにわき水があったりした。泳ぎを習ったことはないけど、母さんの話だと、おれは生まれたときから泳げたって云ってた。おぼれないおまじないに一応後ろ髪を伸ばしてたけど、そんなことしなくたって、水のなかに落っことされてもこの子は死なないって思ったって」
 彼らは暗い森の道とは呼べない道をかきわけ、ぬかるんだ沢辺にさしかかっていた。足もとは滑りやすく、じめじめした泥と落ち葉の堆積物に覆われて、一歩踏みしめるごとに靴の裏にべちゃべちゃとこびりついた。セフィロスはこの子の手をとるか、いっそ抱きあげて歩いてやりたい気がしたのだが、クラウドはじっと地面を見きわめて、ぬかるみのひどくないところを選んでぴょんぴょん飛びながら、それを楽しんでいた。
「そうか、伸ばした後ろ髪を水の精がつかんで引きあげてくれる……いつ切った?」
「十四の春に、ミッドガルに出てくる前」
 答えながら、クラウドは落ち葉のつもったうえに、靴裏に厚くこびりついた泥をこすりつけた。
「水の精も、おまえのような子どもを殺したら後悔するだろうな。あるいは欲しがって離さないか」
 クラウドの無意識に皮肉っぽい形をつくっている唇や、つんとした鼻先や、創り主の手において全身全霊で甘やかされたとでもいうような造形を見つめて、セフィロスは微笑んだ。
「それ、なんでか知らないけど、あんたちゃんと人間に愛されないとだめよって母さんが何度も云うんです。どういう意味だろ?」
「……わかるような気がする。第一おまえが人嫌いで人よりもほかのものを愛しそうだし、おまえの存在そのものが、なにか人間が手を出していい領域の外といったように見えもする」
「おれ別に普通だけど。おれが普通で、まわりが変なんだ」
「ああ、もちろんそれはわかっている。そのために、おまえは高い壁の向こうに、あるいははるかな高いところにいるように見えるわけだ。そして周囲の人間をいたたまれない気持ちにさせる……ほとんど憎悪のような」
 ぬかるむ場所を抜け、滑りやすい岩場を踏みこえて、ふたりは森の奥へと進んだ。セフィロスはクラウドがついてこれるよう、ずいぶん速度を落として進んだが、クラウドは彼の手を借りるのを恥じているのか、ちゃんとついて行けることを示そうとして、いくぶん急ぎ気味に、どこか前のめりについてきた。
 それはセフィロスには微笑ましく、またいかにもこの年ごろの少年らしい態度として好ましかったが、少しもの足りない気もした。セフィロスの考えでいけば、こんなふうに美しくもの怖じしない少年は、もっと尊大でありわがままであっても許された。きっとクラウドにはまだ遠慮があるのだ。彼にはまだ、セフィロスへの畏敬の残滓のようなものがこびりついているのだ。それがぬぐい去られる瞬間のことを、セフィロスはもうずいぶん長いこと、楽しげに思いめぐらしている。
 奥へ進むに連れて、木々はますます高く密集し、日差しは届かなくなり、やがてふたりは暗いなかに閉ざされたようになった。セフィロスは明かりがなくともほとんどすべてが見わたせたが、クラウドには難しかった。彼はこんな暗い森の奥にははじめて入ったと云い、セフィロスにほとんどくっつくようにして歩いた。
 セフィロスは何度もクラウドの手を引いてやろうかと思ったし、またそうしたかった。体に腕を回し、この暗い道のりでしか味わえない独特の親密さのなかで、そぞろ歩きたかった。だがそれは、ふたりのあいだにはまだ許されていなかった。クラウドは大人と子どものあいだを揺れうごく、壊れやすく美しい清らかさをもったままで、セフィロスはそれにたいするほとんど畏怖に近い感情をもっていた。クラウドの肌は神聖だった、まだ誰にも開かれたことがなく、あの熱っぽい欲望をもって触れられたことがなく、誰をも知らないゆえに誰のものでもなかった。それはいまだ天に属していた。未発達な、少年らしい繊細さと芽生えつつある男らしさのはざまにあって、それは真実触れがたい、犯しがたいものとしてそこにあった。だがセフィロスはじれてはいなかった。焦ってもいなかった。それがいずれ自分の手に入るだろうことを、なぜか彼ははなから疑ってはいなかった。
「……で、要するに、いまから行く場所にたどりつけたのは、森が入れてくれたからってことですか?」
 ふたりはセフィロスが最初にこの森へ飛びこんだときの話をしていた。
「おれはそう思っている。科学屋に云わせれば、実に非科学的でけしからん考えだと云われそうだが。森に意志があるなどとは、ああいう連中は決して思うまい」
「おれはわかるな」
 クラウドは道に倒れこんだ大木のうえによじのぼって、飛びおりてから云った。
「うちの山……うちの村のとなりにニブル山って山があるんですけど……その山も、人を選ぶんだって。山が選んだ人間は、入山したら絶対に帰ってこない。でも、山が選ばなかった人間は、ちゃんと帰ってくる。山から降りてくるやつは、この世でまだやることのある人なんだって」
「それは興味深い。おれにはそういうことはとてもよくわかる。人間が事物とのあいだにとり結ぶものはいつも関係であって、決して一方的なものではない。それを忘れると、えらい目にあう。科学は実に一方的で独善的だが、だからおれは都会も文明も嫌いなんだ」
「おんなじこと、村の年寄りが云ってた。山をこわがらなくなったらおしまいで、山の獣をうやまわなくなったらおしまいだ、って」
 やがてふたりは森のもっとも暗い、産道のような道を抜け、光にあふれたあの泉のほとりへたどりついた。
「……すごい。世界が緑色だ」
 突然あらわれた光にまぶしそうにしていたクラウドは、光に慣れてあたりを見まわすと、目を丸くして云った。
「うちの山みたいに灰色じゃない」
「おまえのところの山は灰色なのか?」
 セフィロスは最前の会話を思いだしながら訊ねた。
「うちの山、墓場みたいな場所で、どんよりして霧がかってて、どこもかしこも灰色なんです。死んだみたいな灰色。山肌も、空も、木も全部……なんかミッドガルに似てる。こんなきれいな緑色の場所、はじめて見た」
 クラウドの故郷、ニブルヘイムには、確か神羅の記念すべき第一号魔晄炉があるのだ。あの会社の手を伸ばすところ、すべてが死の大地になるのではないかとセフィロスは思っていた。この地上に満ちている灰色と死の原因のほとんどは、あの会社にあるような気もするのだった。だが彼は色がほしかった。美しい色彩がほしかった。おのれの畏怖するに足る聖なるものがほしかった。力ならば、彼は誰よりももっていたけれども、そして偶像としてならば、誰よりもよく機能していたけれども、セフィロスはおのれが頂点にいるような世界は望んでいなかった。恐れ入り、うやまい、身を投げだし、崇拝するなにものかを、彼は求めてやまなかったのだ。
 セフィロスはあらためてクラウドを眺めた。灰色の墓場から来たというこの少年はしかし、光のような美しい金髪と、海のような瞳とをもっていた。その瞳はいま、この場所に満ちている翡翠色の光を受けてきらめいていた。灰色の墓場から来た者に、この泉のまわりの色彩はどれほど美しく見えるだろう。生命の色彩に飢えた者の、餓えたような歓喜の光を、セフィロスはその目のなかに見た。そしてクラウド自身のなかに、なにかたとえようのない生命の色彩を見る思いがした。
 クラウドはそわそわしだし、好奇心に満ちて駆けだそうとした。だがその前に、一瞬立ちどまり、セフィロスをふり返って、微笑んだ。小さく、柔らかく。目を細める動きにあわせて、まつ毛が黄金の羽のように目のうえに降りかかった。いつもなぜかしら皮肉めいて見える唇が、いまは慈悲をたたえて柔らかく伸びていた。それは確かに少年の顔をした微笑に違いなかった。しかしその微笑は彼の年齢と性別とを越え出て、はるかに高いところから、いまセフィロスのために降りてきたもののようにも見えた。霧がかったような緑色の光の帯が、いま彼のうえに降りそそいで、その微笑をとりかこみ、ふちどり、ひとつの聖画のように仕立てあげた。
 それは一瞬のことだった。クラウドはすぐにきびすを返して、自分の好奇心にしたがった。だがそれに打たれたセフィロスには永遠の感触をのこした。決して消えないものを、あの微笑は自分に刻みつけた。永遠に続く、たとえ生命が滅びても消えないものを。
 ……セフィロスは深く満ち足りた思いに満ちてため息をもらした。永遠の微笑をよこした少年は、いまや好奇心のかたまりになって、あたりを動きまわっていた。そこには子どもの信頼があった。自然を信頼する者の気安さで、この場にただよう森厳さをものともせずに、探究しにかかっていた。地面に生いしげる草を調べ葉の裏側を調べ、転がっている小枝や落ち葉の形と意味をさぐろうとした。あたりに生き物がいないか見きわめようとして、足もとから泉にむかって敷かれている苔の繊細さに気がつき、そっちに目を奪われて、しゃがみこんで熱心に眺めはじめた。
 セフィロスはクラウドの性向の、ひとつのしるしをそこに見たような気がした。しかしあるいはあれは性格というより子どもらしさかもしれないとも思い、だがたとえこの先何十年たったとしても、クラウドはあんなふうではないかとも思ったりした。それが事実かどうか、見きわめられるようになるまでそばにいたいものだとも思った。あの体から子どもらしさが消えても、心からは決して消えさりはしないだろうことを、誰へともなく証明してみせたいようにも思った。


 なにかが水に飛びこむ音がして、セフィロスは本から顔を上げた。泉へ目をやると、水面にぶよぶよと波紋が広がっていて、水辺のそばにはクラウドの着ていた服が投げすてられてあった。とすると、あの子は泉へ飛びこんだものと見える。ほんとうに水浴びが好きなのだろう。セフィロスは思わず笑ってしまった。
 だまって見ていると、ときどき呼吸のために金髪頭が水面に浮かびあがってくるのが見える。だがそれはまたすぐに泉のなかへもぐりこんでいってしまう。セフィロスはしばらく見ていたが、どうもまだ当分のあいだクラウドのひとり遊びが終わりそうにないので、また本へ視線を戻した。
 本のなかでは、美しい牧歌がくりひろげられていた。森のなかで、ニンフとそれに恋する男がすったもんだをくりひろげている。いまだ愛を知らない冷たい美しいニンフ、男を拒絶することに高潔なよろこびを見出している処女のニンフ。この牧歌は近年ようやく決定的な写本が見つかって、現代語訳が出版されたばかりだ。原典のほうも出ているが、そいつにいたっては大判なうえに詳細な解説と各種写本の比較と注解のためにページは二千を優に超え、もはやおのれが本であるのかどうかすらあやぶまれるというような顔をして、書斎の机のうえにかなりの幅をしめて、すまなそうに居座っている。
 先日クラウドを書斎に入れてやったら、まっさきにその威圧的なたたずまいの書に目をとめて、こいつで人を殴ったら一発に見えるけどこれは鈍器ですかと云った。それからあたりを見まわして、ここ本屋ですか、と云った。貸本屋をやってもよかったが、あいにくクラウドの興味を引きそうな本は一冊もなかった。セフィロスはそのとき、彼の興味をかきたててやれないことに説明のつかない責任を感じたが、クラウドはといえば、本の装幀に興味を引かれたらしくて、おもむろに一冊を手にとると、あられもなくおっ広げて背表紙とページの隙間をのぞきこんだりした。
 そのときもセフィロスは笑ってしまった。自分なら、本を決してそのように扱いはしないだろう。もっと優しく、うやうやしく、すばらしい女を扱うようにするだろう。ページに触れるたびに、その一枚一枚を、きめ細やかな肌のように味わう。ほとんど人間のように、それぞれに微妙な風合いの差をおびた肌。そしてこの子の肌はどんなだろうと考えた。ページをめくる音を聞く心地よさのように、指先に触れる紙の感触に指がよろこびふるえるように、この子の音によろこび体の輪郭や色味や肌ざわりによろこぶ。セフィロスはその日を待ちのぞんでいる自分を見出した。そう遠くないその日を。
 実際に、それは遠くない。クラウドは性に、愛のよろこびにかたくななニンフでないのは明らかだ。愛に硬直した者は、素肌を敵のように見なし、ふれあいを堕落したもののように見なす。だが彼はそうでない。その証拠に、クラウドはいま金髪から水をしたたらせながら裸の上半身を泉へ浮かべ、頭をふってしずくをまきちらし、それから身をひるがえして優雅に背泳ぎで泳ぎだした。水をかくバシャバシャという心地よい音が、あたりに響いた。水泳を習ったことはないという彼の動きは確かに正式な泳ぎかたとは呼べないが、効率がよさそうだ。のんびりやるならばきっと、いつまででも泳いでいられるだろう。水のうえを優雅に飛びはねる魚、あるいは水しぶきをあげて飛びたつ鳥、たわむれにそこを遊び場にする獣、クラウドの動きを眺めながら、セフィロスは次々にそうしたものを思い描いた。
 もうどうあっても牧歌の世界へは戻れそうになかった。本を閉じ、もたれかかっている木にさらにのびのびと体をあずけて、クラウドの白い腕が泉の透明な水をまとって伸びあがったり降りていったりするのを、体が唐突にぐるりと回転し、反対側へ泳ぎだすのを、あるいは次になにをしようか考えているかのように、泉のうえにひっくりかえってぷかぷか浮かんでいるのを見ていた。セフィロスの目はそれをいちいち追いかけて、存分に楽しんだ。牧歌は現実となり、目の前で美しいニンフが裸で水浴びを楽しんでいる……サテュロスならば襲いにかかろうが、不運なことにセフィロスはもう少し文明的なしつけを受けている。この美しいニンフの成熟を、彼は待っている。あと少し。あとほんのひと押しで、この美しい少年は自分の体のもつ別の意味にたいして、完全に開かれるだろう。

 やがてクラウドは水の遊びに飽きて、あるいは少し冷えてきたのか、泉からあがってきた。人生ではじめて買ったという半ズボンのような水着だけを身につけて、上半身は惜しげもなく光のなかにさらして。彼は全身から水をしたたらせていた。金髪はへたりこんで顔のまわりに貼りついており、水滴は光を受けて透明に美しく輝いて、彼の真珠のような、あるいは泉の泡だちが集められ形をなしたような白い肌を飾った。ほんとうの太陽を知らない者の肌の白さ、重々しい、陰鬱な北の白さだ。まだ発育途中の、少年らしいあやうい輪郭だが、手足はすでにすらりと伸びて、その気になれば他人へからみつくことができるのを示している。
 服と一緒に投げすてられていたタオルをとり、クラウドは髪と体をふきはじめた。セフィロスはタオルの動きを追いかけていた。少年を盗み見るようなこの行為は、彼の存在にたいするなにかしらの侵害に値するだろうか? 否! このような領域にまで合意だの権利だのを持ちだすやつは滅びるがよい。なるほど視線は支配の欲望をうちに秘めた暴力かもしれない。そしてこのような、愛神の領域に開かれる前の体を視線のよろこびの対象とすることは、確かに一種の先どりであり冒涜であるかもしれない。だが自然は美にたいしてなんと云っているか? 美しい花の前に足をとめ、そのつくりや色の繊細さに感嘆し楽しむときにこそ、それらを作りあげた労苦は報われるのではなかろうか。いったい美は、見る者のよろこびに開かれさらされているのでなければ、なんの価値があろうか? そしてこの少年はそのことを知っているがゆえに、いま彼の目の前にこうして素肌をさらしているのではないのか?
 セフィロスはこのように与えられた望外の美の前に浸っていたが、そのとき彼のニンフが急になにかに驚き、飛びあがって、うわあと悲鳴をあげ、タオルを放り投げて尻餅をついた。セフィロスはあわてて立ちあがり、そばへ寄った。
「蛇、でっかい蛇がいる……」
 クラウドは怖気をふるいながら、指で少し先のほうを示した。
 青緑色の蛇が、茂みのあいだから首をのぞかせていた。うろこはわずかに金色がかって見え、両目も金色で、目のまわりに、黒く細い横線を一本引いたような模様があった。ちろちろと舌を出して、なにかをさぐっているかのようにしばらく泉を見つめていたが、やがて人間がいることなどものともせずに、堂々と茂みから這いでてきた。体長は二メートル近くありそうだ。こちらには目もくれないで、頭をもたげて相変わらず泉をじっと見つめている。
 クラウドが無意識に自分のうしろに隠れるように這いすすんだのを感じて、セフィロスは苦笑した。
「怖いのか」
「蛇は無理……生き物としてあり得ない、気持ちわるい……」
 クラウドはぶるぶる頭をふった。まだろくに髪を拭いてもいないので、水滴があたりに飛びちった。普段のふてぶてしい彼を見なれているせいで、それはセフィロスの目に笑いを誘う愛らしさをもって映った。セフィロスは蛇から目を離さずに、しかししゃがみこんでクラウドの頭をなでてやった。
「セフィロスさんは蛇、平気なんですか?」
 クラウドは多少安心したのか、ちょっと恨めしげな目つきでセフィロスを見あげて云った。
「毒蛇か五メートルもある大蛇ならさすがに考えるが、距離があるから特にどうということはない。なかなか興味深い、美しい生き物だとも思う……大丈夫か?」
 そのとき蛇が急に首をめぐらしてこちらを向いた。そしてセフィロスと目があった……と思ったのは一瞬のことで、蛇はクラウドを見ていた。尻餅をついて縮こまっているその姿をじっと見据えながら、どこかもの欲しそうにちろちろと舌を出した。そしておのれの姿を見せびらかすように、力を誇示するかのように、さらに首をもたげた。セフィロスがさてはこれは殺すの殺さないのという話になろうかと思いかけたとき、蛇はだしぬけに首を下ろして這いつくばり、身をひるがえしてふたりとは逆のほうへ這っていった。そして茂みのなかへ消えた。
 クラウドがはっきりわかるほど体の力を抜いた。セフィロスはふり返って、大丈夫かと声をかけた。クラウドはうなずいたが、ふいに顔をしかめて、右足をちょっと持ちあげた。かかとから血が出ていた。
「噛まれたか?」
「噛まれてない……たぶんそのへんの枝かなんか踏んだんだと思う……と思いたい。よくわかんない」
 クラウドは困惑した顔で云った。
「傷口を見てみよう」
 セフィロスは白い土踏まずに手をかけ、そっと持ちあげた。彼の足に触れるのははじめてだった……こんな間近で見たことも。
 かかとの傷は、さいわい小さな切り傷だった。クラウドの云うように、驚いた拍子になにか鋭いものでも踏んでしまったのだろう。ほっそりした傷口から、赤い血が点々と染みだしていた。それが白い肌のうえに、鮮やかな丸いかざりのように浮いていた。鼻先にかすかに血のにおいを感じる。昔からこのにおいには敏感だった。彼の子どものころの記憶は、いつもこのにおいとともにあったと云ってもいいほどだ。血液の採取があるたびに、腕にあてがわれるガーゼに染みてゆく自分の血を、セフィロスは不思議な思いで見たものだった。これが命のもとだとは、その象徴であるとは、そしてそれが自分の体をめぐっていて、こうして染みでてくるとは、なにか奇妙なことだった。
 そのとき、彼はその子どものころの記憶を思いだしたのだったか? そして感傷的な気分に打たれたのだったか、それともなにかまったく別の観念がはたらいていたのだろうか。ともかく彼はその瞬間、クラウドの白く丸いかかとににじむ血を見た瞬間、一種の異様な引力のようなものに引きずられて、いまにも丸い水滴から、涙型のしずくとなってこぼれそうになっていたその血に唇を寄せた。
 クラウドの足が反射的に引っこもうとした。痙攣したような、わななくようなそのうごきが、セフィロスのなかに、非常に強い、ほとんど感動といっていいような欲望をかき立てた。クラウドはいま片足を軽く持ちあげられた状態で、少し開かれ、しかしその太股のつけ根の部分は閉じていた。そこになにがあるかについて、セフィロスはほのかな予感のようなものを抱いていたが、それがいまや急に鮮明になり、確信になり、夢想するものから狙いを定めて追求すべきものへと変わったようだった。セフィロスはおのれの瞳孔が、ただでさえ剣呑な印象をぬぐえぬこの瞳孔が、狩りの残忍なよころびに満ちてすぼまったように感じた。
 クラウドの血は鉄のにおいを帯びて甘かった。それはセフィロスのなかに流れる血とはまるで別のもののように感じられた。それを口にふくみ、舌先で味わったとき、彼は自分の血がクラウドの血を求めて燃えあがるような気がした。なめとったはしから次々に浮かんでくる血をまた丹念に吸いとって、かかとの丸みを、皮膚の不思議なやわらかさと弾力を、唇で、舌で、歯で感じることのよろこびに、彼の体は穿たれたようにふるえた。この美しいかかと、土踏まずの好ましいアーチ、透きとおった魚の群のような涼しげな指、拇指球の弾力のあるふくよかさ。うるわしい骨の浮いた足首、ふくらはぎの線の楽しみ、魅力的に浮き彫りされた膝。それがいまむき出しのまま目の前にあった。そして少年の血は甘く清白な味でもって、渇きを止めるようでいて、さらに渇かせるようにセフィロスをかきたてていた。
 鮮烈な瞬間はいつも、永遠の記憶に張りつけにされる運命にある。クラウドの血を味わうこの瞬間は、夢のように時間の概念から隔てられて、彼の意識に張りつけられた。否そもそも、この場所へ来たときから、彼らは時間から逸脱し、なにか世界の裏側へでも入りこんだようだったのだ。時ははるか以前にすでに止まっていた。翡翠色の光、泉の瞑想的な輝き、クラウドの水浴び、蛇、そして流された血。
 ……セフィロスは顔を上げた。そうして自分をまともに見据えているクラウドの目とぶつかった。彼は不思議な顔をしていた。唇を少し開いて、とがめるようでもなく、困惑しているようでも、嫌悪しているようでもなく、ただおそろしく透徹した、なにか超越した目をもって、彼を見ていた。それは地上に起きていることの意味を、はるかな高みから見る者の目に近かった。そこにははっきりと理解がふくまれ、理解のうちにあるあわれみや奥深い抱擁さえもふくんでいたが、その目をやどした当の本人はそんなことはみじんも意識してはいないというような、なにか奇妙にものごとを先どりしたような目だった。唇の開きかたは花のほころびる瞬間に似ていた。ほころびて、いまにも花びらのひとつが落ちてくる、あの瞬間に似ていた。
 彼はその唇に意識を吸いよせられ、引きずりこまれるように感じた。森の奥で、芳香をまきちらす花に魅入られたように。だがその唇はいまは、まだあまりにおそれ多かった。まだ誰も触れたことがなく、そのなかをさぐったこともない唇は、いっときの高ぶりにまかせて蹂躙するには神聖でありすぎた。手続きの問題ではなかった。時間の問題でもなかった。彼はただ、その神聖さを、もっとも神聖な瞬間のなかに、もう少しとどめておきたい別の欲望を感じたのだった。知っているが知らず、子どもであるが大人でもあるような、そんな存在であるクラウドを、この曖昧な、しかしひどくはっきりした生き物を、まだしばらく、あと少し、そのままにしておきたい欲望がまさったのだった。
「もう血、とまってます? 蛇に噛まれたわけじゃない?」
 クラウドはこだわりない声で云った。だが不思議と夢が破られたようには感じなかった。セフィロスは微笑んで、うなずいた。そしてクラウドの足をそっと地面に置いた。クラウドはさっそくそれを自分のほうへたぐりよせ、首をかしげて傷を右から左から眺めた。
「よかった。外でけがしたら傷はなめて治せって母さん云ってたけど、こんなとこどうやって自分でなめるんだろってさっきちょっと思ったから……猫じゃあるまいし……」
 そう云いながら、クラウドはかがんだり脚をうんと引きよせたりして、なんとかかかとをなめてみようとしていた。体が柔らかいので、ほとんど成功しかけていたが、あと数ミリが届かないようだった。
「それより、着がえの途中だったのではないか」
 セフィロスは思い出させた。
「あ、そうだった」
 クラウドはすぐにかかとをなめる試みを放棄して、落ちていたタオルに手を伸ばそうとしたが、セフィロスの手のほうが早かった。
「お手伝いいたしましょう、お怪我をなさったばかりですから」
 セフィロスはふざけて云った。クラウドは笑って、両腕を立てた膝のうえに乗せて、寛大にも手伝いを受けいれることを示した。
「さっきの蛇、毒蛇だったかな」
「どうだろう。はじめて見るやつだった。もっとも、おれの見たことのあるものなど、五万といる生き物のなかのひと握りだろうが」
「うちの村に虫博士って呼ばれてるやつがいたけど」
 セフィロスはクラウドのやわらかな金髪を、すぐにほどけてしまう繊細な織物でも扱うように、丁寧に拭いてやった。
「暗い顔した、眼鏡かけてるオタクみたいなやつ。おれより二つ年上で、おれにしょっちゅうカブトムシとか蝶の標本とか見せに来て、見せるだけならいいけどあげるとか云うし、正直めんどくさいと思ってた。で、ある日、おれがすごく機嫌悪かった日だけど、そいつがいつもみたいに箱抱えてうちに来たから、悪いけどおれ死んだ生き物に興味ないって云ったんです。そしたらそいつ、すごく悲しそうな顔して、うちに来なくなっちゃった。しょっちゅう来てたのに。おれは別にそいつと遊びたかったわけじゃないから気にしてなかったけど、あとで聞いた話、そいつしばらく寝こんじゃったんだって」
「ああ……ずいぶんこっぴどく振ったな」
 セフィロスは笑いをこらえきれなかった。
「うん、そのときはよくわかんなくて大げさすぎって思ったけど、いまはちょっとわかる気がする。でも、この話続きがあって」
「それはぜひ聞かせてくれ……いや、待った、当てようか。その傷心の博士は、今度は生きた虫をもちこむようになったんだろう……たぶん、自分は姿を見せずに、おまえの家のどこかに……玄関か、窓辺か、とにかくどこかにそっと置いて帰る」
「……すごい。当たってる」
 クラウドはセフィロスが輪にして差しだしたタンクトップに首をくぐらせる途中で動きを止め、目を丸くした。
「なんでわかるんですか? 朝起きてカーテン開けたら、窓枠のとこに、うねうね動く緑色の虫がいっぱい並べて置かれてたときのおれの気持ちわかります? おれ悲鳴あげるとこだった」
 クラウドは盛大に顔をしかめた。セフィロスは今度こそ声を上げて笑ってしまった。
「それもわかる。そして、博士のプレゼント作戦が悲しいほど逆効果だったことも」
「逆効果どころじゃなかった。おれほんとにそいつのこと嫌いになったし、そいつもおれのこと嫌いになったからこういうことするんだと思ってた」
「ああ、それが屈折した心理の悲劇的なところだ。やり方がまずすぎるせいで、想いが伝わるどころか真逆の印象を与えてしまう。ほんとうはただおまえのご機嫌をとりたかっただけだろうに。そしておまえを不愉快にしたことの赦しを乞うていた……その博士の複雑な心のうちに比べたら、おまえは無邪気な赤ん坊みたいに見える」
 セフィロスはクラウドのうしろから上着を広げて差しだし、袖を通すのを手伝った。襟をなおしてやり、金髪の生え際からうなじにかけての白さを楽しんだ。
「その虫博士は、おまえが村を出るときはどういう反応を見せた? この世の終わりというような顔をしたか? それとも、おまえはとことん残酷に、それさえ相手に告げてやらなかったのか」
 セフィロスは云いながら、その言葉が意味するものに高揚している自分に気がついた。
「おれそいつに会うの避けてたし、そいつもおれを避けてたし、話もしなかった。でも、おれが村を出る直前にちょっと事件があったんですよね……当てます?」
 セフィロスは自分をいたずらっぽく見つめるクラウドの目の青さや、皮肉っぽい珊瑚色の唇、水浴びを終えてまだみずみずしくふくらんだような肌を見つめながら、しばらく考えこんだ。
「……いや、今度は当てられないだろう。生きた虫を贈るところまでは想像がつくが、その先はおれの想像の及ばない領域にある。そのような痛手を……おまえの機嫌を損ね、さらに失う追い打ちをかけられた少年の心と行動については」
 クラウドは立ちあがってズボンをはき、着がえを終えた自分を眺めまわして、肩や太股のあたりの生地をつまんでなおしはじめた。セフィロスも立ちあがった。
「そいつ、おれが村を出る前の日、ひとりで山に入ってったんです。ニブル山って、見通しが悪いし、道がわかりづらくて、危険だから遊びに行っちゃいけないって、村の人間は生まれたときから云われて育つんだけど……とにかくそいつ、山に行ったんです、ひとりで。それで、崖から足を滑らせて、落っこちて、脚の骨折った。たまたま人が通りかかって見つけたからよかったけど、下手したら何日も見つからなかったかも。そいつ、白骨死体になってたかもしれない。あの山で死ぬと、死体はぜったいに見つからないんだって。山がもらうんだって。でもあいつはきっと、山がいらないって思ったんだ。だから生きて戻ってきた」
 クラウドは今度は髪の毛をととのえだした。毛先を指で梳いて、水気を吸ってへたりこんでしまった髪が少しでも見栄えよくなるように心をくばった。
「なるほど。ぶっそうだが偉大な場所だ。そしておまえはその山についてずいぶん親しげに語る」
「まあ、おれも戻ってきたから。村の云いかたで云ったら、戻されたのかな。虫博士も戻された。虫博士がおぶわれて戻ってきたとき、おれも見てたけど、あいつ死んだみたいな青い顔して、ぐったりしてた。すぐに家に運ばれて、あいつのこと見たのはそれが最後。おれは次の日の朝村を出たから」
 クラウドは着がえをすませた自分の姿にようやく満足して、あちこちいじり回すのをやめた。
「……その博士は、山へなにをしに行ったのだと思う」
 美しくととのったクラウドを見下ろして、セフィロスはどうしても訊きたい衝動をおさえられずに云った。自分の内側で、なにか暗いものが燃えあがっていた。
「さあ」
 だがクラウドは冷淡だった。その冷淡さが、セフィロスにさらに暗いよろこびを与えた。
「知らない。なにか虫でも探しに行ったんじゃないですか」
 クラウドはいまやどこか挑発的に、顎をつきだすようにして、セフィロスを見あげていた。まるでセフィロスがその陰気でねじ曲がった博士ででもあるかのように。セフィロスの暗いよろこびはますますかき立てられて、笑みが浮かんでくるのを止められなかった。
「……その男は、英雄になりに行ったのさ」
 セフィロスはクラウドの細い顎に指をかけて、上を向かせた。小さく揺れている青い目をとらえてのぞきこむ。自分の瞳孔が、またいっそうすぼまっているだろうと彼は思った。
「そしてなりそこねた。不器用な男だ。徹底的に悲劇的な性質を負っているものと見える。その男は……もはや少年ではあり得ない、そう呼ぶことは不当だ……おまえの歓心と、赦しとだけを求めて、ひとつの偉大な冒険をやりぬこうとした。おそらくは……その山に、なにかめずらしい、美しい生き物がいるのではないか、めったにお目にかかれないような……たとえば蝶のような。きっといるはずだ」
「うん、いる。おとなの手のひらくらいの翅のある、すごくきれいな蝶が。真っ青な宝石みたいなやつ。でも、村の人も写真でしか見たことないんだ。山に魔晄炉ができてから、一度も見ないって年寄りが云ってた」
「ああ、そう来なくてはおもしろくない。おまえの故郷の山に、ぜひとも行ってみなければ。われわれの虫博士は、きっとその蝶をつかまえに行ったんだろう。おまえに捧げるために、そうしておまえをとりもどすために」
 クラウドはちょっと目を伏せて、考えこむような顔をした。セフィロスは彼の顎から手をはずして、考えるのを助けるように、指先で頬をなでた。
「それで山に入って、崖から落ちたってこと? ドジだな」
 クラウドは軽蔑するようにそう云った。セフィロスは笑いだした。ドジと吐きすてたクラウドの唇が、そこから出てきた言葉の意味する態度が、ひどく愉快でたまらなかった。
「ああ、男なら生涯おそわれないようにと願う最大の恥辱であり悲劇だ。それはほとんど死に等しい。英雄志願者は死んだ。立ちなおれるだろうか、われわれの虫博士は。彼はおまえを失ったし、名誉挽回の機会も永久に失った。求めていた和解も赦しもかなわないまま。そのせいで、きっとその男は生涯おまえを想うだろう。たとえこの先家庭をもったとしても、一生ひとり者でいるにしても、春がくるたびに、思いだすだろう、自分の受けた癒しがたい屈辱のことを、それをもたらしたおまえのことを」
「……おれはなにもしてない」
 クラウドは不機嫌に唇をつき出した。ゆがんだ珊瑚色がずいぶんと愛らしく見え、セフィロスはそれをつまんだ。
「もちろんだ。おまえはちょっとご機嫌ななめだっただけだ。そしてそれも、もとはと云えばわれらが博士が勘違いはなはだしい贈り物をしようとしつこかったせいだ……間の抜けた話だ……彼はそれに気づいて責任を感じた。そしてふたりの関係を、もとあった状態へと回復しようとしたが、しょせん二流の役者だった、相手は本物だったが。……かわいそうに! われらが博士はどれだけ打ちのめされたことか」
 セフィロスは物語の完全さに感極まって、クラウドの前にひざまずいてその手を唇に、胸に押しいだきたくなった。だがそれはやりすぎであり、この場にふさわしくもなかった。セフィロスはクラウドの黄金の前髪をかきわけ、まだ少し湿ったような額にうやうやしく口づけた。クラウドのまつ毛がゆっくりと降りて、彼の皮膚をかすめた。唇を離すとき、目を半ば閉じたクラウドの、まるで動じていない顔を見て、セフィロスは天に昇るような心地がした。この存在の、なんという完全さ。彼はおのれが何者であり、なにをなすべきか、情け容赦なく理解し実行しているのだ。
「……そっか、わかった」
 唇が離れると、セフィロスの顔をじっとのぞきこんで、クラウドは云った。
「セフィロスさんの目、蛇に似てるんだ。なにかに似てるなって思ってたんだ」
 なにか非常に重大な暗示が、予言がそこにあるように感じられて、セフィロスはクラウドを見下ろした。その青い目は相変わらずどこか曖昧で、夢のようで、しかしはっとするような意志を帯びてそこにあった。大人と呼ぶにはあまりにも透明で、子どもと呼ぶにはあまりにも知りすぎている目。彼は山から戻されたと云った。水に落ちても死なない子だと母親が云った。こんな危険な子どもは、山だって水だって願い下げだろうとセフィロスは思った。この子を引き受けるのは自分だ。こんな子を扱えるのは、きっと自分だけに違いない。
 少年の指が、白く、まだほとんどなにも知らないような指が、ふいにセフィロスの顔に向けてやってきて、目尻をちょっと持ちあげた。彼がこんなふうに触れてきたのははじめてではなかろうか? 自分のほうからは、よく頬をなでたり額をぬぐってやったりもしたが、この子のほうからこんなふうに、好奇心をたっぷり染みこませた指で、さぐるように触れてきたのははじめてではなかろうか。セフィロスはくすぐられるようなよろこびを感じた。
「おれ、ほんとに蛇苦手なんですよね。たぶん母さんのせいだけど。母さん、蛇が大嫌いで、見かけると悲鳴上げて飛びのいて、あわてて家に帰るんです。だからおれも蛇見るとすくんじゃうんだと思うんだ。でも、そういうやつにかぎってよく蛇に出くわす、さっきみたいに。嫌いなやつにはよく会うって云うし」
 クラウドの指は反対の目のほうへ移っていった。同じように目尻を引きあげ、引きさげ、その下にある眼球の形を確かめるようにまぶたに触れた。ああ、もしもいまいるのがここでなかったら、彼がこんなに神聖な瞬間を自分の前にさらしているいまこのときでなかったら、そのいたずら好きな指をつかまえて、噛みついてやることができるのだが。
「母さんも云ってた。嫌いなやつとは、なんかあるから嫌いなんだって。なんかってなに、っておれが訊いたら、よくわかんないけど、すごく根深いなんかよ、って云ってた」
 クラウドの指が離れていった。
「……おれの目が蛇のようだと云ったやつは何人かいたが」
 セフィロスはいまのいままで忘れており、話しはじめるつもりもなかったことを、急に話しはじめている自分に気がついた。
「たいてい死ぬ間際の恐怖からか、あるいは敗走直前の捨てぜりふか、そんなような文脈でそう云った。おれはよほどおそろしくて、憎らしい存在らしい。蛇はたいてい嫌われ者だ。執念深く、狡猾で、それこそさっきのように、ふいうちをくらわす。人間と蛇とのあいだには、永遠の敵意が置かれている。和解不可能な敵意が」
 それはたいていいつも戦場だった。彼がおのれに与えられた力を行使する場所だった。敵意を向けられ、憎悪されるのは。だがセフィロスはいつも不当な扱いをうけているという気がしていた。自分がはなはだしい誤解をうけているか、まったく場違いなところにいて、違う役をやらされているような気がしていた。あの場所では、すべてが焼かれて灰になる戦場では、彼はかたときもおのれの存在を実感し信じることができなかった。だがここは美しい緑の、泉のほとりだった。あの硝煙のにおいは、鉄と血のにおいは、いまははるかに遠かった。ああ、そうだ、ここで味わう血は甘かった。戦場の血は死のにおいを帯びているが、さっきこの場所で味わった血は、甘く血をたぎらせるような、生命を燃えたたせるような味がした。セフィロスはさっき味わったばかりのクラウドの血の味が、舌のうえによみがえってくるのを感じた。
「そうかな。人間がみんな蛇のこと嫌いかどうかは、よくわかんない。それにおれ、好きだけどな、セフィロスさんの目。さっき蛇ににらまれたとき気づいたけど。ていうか、気づくまでセフィロスさんがこんな変わった目してるの、あんまり意識してなかった」
 クラウドは平然とセフィロスを見あげている。ああ、おれはいまようやく不適切な役をはなれ、自分の役をやっているのだ。セフィロスは心底そう実感した。好かれ、受けいれられるとはそういうことだ。クラウドが完全に、みごとに彼であるように、この少年の前では、自分の生が充足し存在がよろこび踊るのが感じられる。この美しい少年のために捧げものをするのは、ひ弱な虫好きの少年(やはり少年だ、英雄のなりそこないときては)などにはとても務まるものでない。自分はそのために、これほどまでに力をもったのだ。この少年のまえに立ち、受け入れられることに比べれば、戦場で敵をなぎ倒すことなど、ただの遊びにすぎない。
「それはかなりのんきな発言だ。たいていの人間は、一番最初にこの目に違和感をおぼえる」
「そうかもしれないけど、おれ自分が興味ないとなんにも気づかないタイプだから」
「なんだ、おれの見た目に興味をもってくれていなかったのか」
「そうじゃないけど……なんていうのかな……説明できない。とにかく、さっき急に気づいたんです。あの蛇の目はきんきらしててなんか怖かったけど、セフィロスさんのは別に怖くないもんなって。瞳孔がぎゅってなってても」
 ぎゅっというところにあわせて、クラウドは右の人さし指と親指をすぼめてつまむようなしぐさをした。
「それはありがたい。はじめて云われた。といっても、他人と瞳孔の話をしたことはないが」
「まあ、しないですよね。見た目の話って繊細だから」
 見た目でからかわれた経験のあるクラウドにとって、その「繊細」はいかに繊細をきわめた繊細であることだろう。そしてそれでもその話題を口にすることは、どれほどの意味をもっていることだろう。

 クラウドが腹が減ってきたというので、ふたりは帰ることにした。セフィロスはもはやクラウドの体に腕を回すのをためらいはしなかった。手を引いて滑りやすい場所を移動するのを助けるのも躊躇しなかった。一度ならず抱きあげて歩いてやったが、クラウドは自分のプライドを持ちだす気配もなかった。彼はもう助けを拒絶しなかった。年齢や立場の差、そしてなによりも心理的な距離から来る遠慮は消えていた。クラウドは行きのときよりはるかに彼らしく帰った。与えられ、捧げられ、贈られる者として。かつてそれによってひとりの英雄志願者を殺してしまった、その存在の力に満ちて。
 あるいはひとりでなかったか? 彼はもう無数の志願者を葬りさったのか? そうかもしれなかった。それを考えるとセフィロスは愉快だった。誰も彼のかかとには達しない。誰も彼の血には達しない、狡猾な蛇でさえ、すべてをなげうつほんものの英雄以外には、誰も。そのありきたりな称号は、いま逆転し、旋回して、あらたな輝きを帯びてセフィロスのうえにあった。この少年になにを贈り、なにを捧げ、なにを与えよう。彼が求めるものはなんだろう。それを知ることができたとき、彼の体を知る許可を得られるだろう。甘くみずみずしい、もう十分に熟した、その体を。



 災厄ののち、セフィロスの森の家がのこっているのを見つけたとき、よろこんだのはどちらかというとクラウドのほうだった。ふたりはおっかなびっくりなかへ入ったが、玄関のドアは蝶番が狂っていたし、床板はおそろしく痛んでいて、雨漏りの気配があちこちにあり、煙突はほこりやすすですっかり詰まっているようすだった。クラウドは急に大量の仕事ができたことに欣喜雀躍し、書斎の蔵書が無事らしいことを神に感謝したいといわんばかりの気持ちになっていたセフィロスを放っておいて、後先も考えずに煙突からとりかかり、全身を真っ黒にしてしまった。
「だって、なにはともあれ火が必要だろ、家にはさ」
 唇をつきだして文句を云っているクラウドの体を拭きながら、セフィロスは実にそのとおりだが、そうではあってもこんなに体をよごす仕事を真っ先にはじめないでもよかったのではないかと云った。
「おれは煙突掃除が好きなんだ。村にいたころ、近所のじいさんについてまわって、一緒にやったんだよ。じいさん、小遣いくれた」
「おまえのような子と煙突掃除をしてまわるのは、ご老体にとってさぞ楽しくて誇らしいことだったろうが、煙突掃除が原因で陰嚢癌が多発した話は知っているか」
 クラウドはうそ、と云い、心なしか顔を青くした。
「要するに、すすというやつは危険物質で、煙突掃除はきわめて不衛生な仕事だということだ」
「……おれ風呂に入りたい。いますぐ。全身洗いたい」
 クラウドはせっぱつまった顔で云った。セフィロスは笑ってしまった。そうしてふいに、こう疑問に思い、疑問を口に出した。
「そういえば、われわれのあの泉は無事だろうか」


 彼らの泉は無事であった。すべてを破壊せんとやってきた災厄にも耐え、その後の世の中の騒がしさともまるで無縁であるといった顔をして、泉は相変わらず翡翠色の神秘的な光のなかに、動じず、泰然として輝いていた。
「おれ、何回くらいここに来たんだっけ?」
 クラウドはまぶしげにあたりを見まわして、なつかしさを抑えられない調子で云った。
「三度ほど。そのたびにおまえは水浴びを楽しんだ。そしておれはそれを楽しんだ」
 セフィロスは目を細めて云った。
「そんなもん? もっと来たと思ってた。で、あんたがいつもすごくいかがわしい目でおれを見てるなって思ってた」
「美のよろこびに浸っていたと云ってほしい。水浴びをするおまえは夢のように美しかった」
「あーあ、おれも年くった。あのころは、二十代の半ばなんてじじいだと思ってた」
「ちょっと待て、その理屈だと当時のおれも老人のなかに入らないか?」
「あ、そっか。そこまで考えなかった」
 なにやら味わい深い会話をのこして、クラウドは水浴びに行ってしまった。堂々と衣服を脱ぎすて、全裸になって、彼は泉に飛びこんだ。そしてセフィロスはというと、相変わらずクラウドの水浴びを泉のほとりの木によりかかって楽しんだ……よく彼がよりかかったマツの木も健在で、セフィロスがその根もとに座ってよりかかったとき、やあよく戻ってきたねと云わんばかりに針のような葉を揺らした。それでセフィロスはその幹を親しげに叩いて応えた。それから相変わらずのことで本を開いた。彼の救いがたい感傷によって、その本は正しくあの牧歌であった。クラウドの水浴びの楽しげな音を聞きながら、セフィロスはあのときと同じ時間を、あるいはあのときの続きのようにその本に没頭した。

 そしてクラウドが泉からあがってきたとき、セフィロスは時の流れを痛感したのだった。クラウドの体はもう成長途中のあやふやな少年のものではあり得なかった。それはひとりの意志をもった男の体であったが、それにも関わらず、やはりどこかあやういような、どっちつかずの雰囲気をかなり残してもいた。すらりとした四肢は少年のころのままのようにも思われた。特にあの脚は、すっと伸びやかな脚は、そして土踏まずのアーチも美しいあの愛らしい足は、相変わらずあのころのなごりをとどめて、永遠の少年らしさの記憶をともなって、そこにあった。
 セフィロスは立ちあがってクラウドのもとへ歩いていった。蛇の急襲がなくとも、それは自分の役目であることを、セフィロスはいまでは心得ていた。用意していたタオルをとりあげ、うやうやしくベールをかぶせるように、クラウドの黄金の頭にそれをかぶせ、髪の毛の一本一本を愛撫するように、なでつけるように動かした。クラウドは満足そうに微笑んで、セフィロスの手が動くにまかせ、与えられるものを受けいれた。服を着せられ、身なりをととのえたクラウドは、また新しい美しさをもってセフィロスをとらえた。彼がちょっと服を変えるだけで、身につけるものの色が変わるだけで、その姿はどれほど鮮やかに変わって、見たこともない美のよろこびをもたらすことだろう。
 あのときは、蛇がそこに出たんだ、とクラウドは地面を指さして云った。彼の記憶はもうかなり確かだったが、それでもときどきセフィロスを相手に過去を確かめるようなことを好んだ。
「そうだった。そしておまえは怪我をした、丸い小さなかかとに。おれはおまえの血を知った。すべてをもった清らかな血。あれがはじまりだったか、終わりだったか、いまでもおれにはわからない」
「あんた、あのときからおれのこと飲み物だと思ってた?」
 セフィロスがクラウドの体液全般に固執するので、クラウドはおれはあんたの飲み物かとよく云うのだった。ときにからかいをこめて、ときに羞恥を帯びて、ときにあきれたように。
「はっきり意識したことはなかったが、いま思えばそうだろうな。あのときを堺に、おれの求めるものは変わってしまった。おれの役目も変わってしまった。おれに生命を与えるものは、水でなくおまえの血になった。おれもあのときに、きっと死んだのだろうと思う。そして再生した。すべての終わりがはじまりであるように、古い英雄は死んで、新しい英雄が生まれた……」
 セフィロスは目を伏せ、微笑んだ。あのときから、身のまわりに起こるすべての死が、ひどく象徴的な意味を帯びるようになったのだ。最後には自分の死でさえも。そして自分に死を与える者は、同時にまた自分に生命をほどこす者だった。そのうちにめぐる、清らかな炎に燃えるような血を彼に与えて。
「だがこうしたことは、結局あとからわかったことだ。あのときは、おれは単に蛇がおまえを見つめているので気が気でなかった」
「ほんと? あんたなら、たかが蛇なんてひねり殺せるだろうけど。あのころは怖かったけど、いま出てきたら、おれだって頭踏みくだいてやる」
「ああ、恐ろしいことを云う。おまえは蛇の恐怖を克服してしまったのか。実に残念だ」
「まあ、蛇におびえてるおれのほうがかわいいのはわかるよ。だから年くったって云ったんだ。あんたに襲われること多数で、慣れちゃったのかもよ」
 クラウドは実に生意気な顔で云った。
「おれを蛇と一緒にしないでくれ。それにいつでも襲えと云ったのはおまえだ」
 セフィロスは顔をしかめた。クラウドはあはは、と愉快そうに笑った。
「うそうそ、ごめん、傷ついた?」
 クラウドはわざとらしくそう云うと、両手でセフィロスの頬をつつみ、のぞきこんできた。その目はやっぱりからかいに満ちて、笑っていた。
「おまえが蛇に怖気をふるったり、気持ちわるいの生き物としてあり得ないのと云っているのを聞いているだけに、多少は」
「まあそうだけど、バカだなあ」
 クラウドは実に美しく目を閉じて、セフィロスにキスした。
「あんたのこと殺すにしても、頭は砕かない、さすがに。あーあ、あのときのおれはこんなことになるなんて夢にも思ってなかった。いずれあんたに襲われるのはわかってたけど、さすがに殺されかけるとは思わなかったし、あんたを殺すとも思わなかった。蛇の頭って、あからさまにアレみたいだよな。それで、交尾したあとにメスがオスを丸飲みしたりしてさ、ああ、おれなに云ってんだろ、なんかその気になってきた」
「おまえのその気がいつ、なにによって起きるのか、おれにはわかったためしがない」
 セフィロスはぶつぶつ文句を云ったが、クラウドのその気にはちゃんとしたがった。たったいま着せたばかりの服を脱がすのだって、手間ではなかった、特には。クラウドがなんだかいろいろなめたがり、飲みたがるので、セフィロスはそれにもしたがったが、同じことをちゃんとやりかえした。おれは蛇ではない、おまえに丸飲みにされるのはごめんだ、と云って。