セフィロス氏と海辺の町の情景
四月七日

 とうとう、海辺の町に移り住むことができた。前々からどこかへ引っ越すことを考えてはいたが、さるテレビ番組で、この美しい町のことが紹介されたのが決め手になった。紺碧の海、それに面して並ぶ真っ白な家、飛び交う海鳥、船着場のざわめき、石畳の町並み。そういうものをいかにも感傷的に見せられて、クラウドが黙っていないわけがない。もともと自慢の飽き症を発揮する直前であったクラウドは、さっそく翌日には「現地調査」へ出かけ、なんと家を借りて帰ってきた。わたしはせき立てられるように旧居を出なければならなかった。
 しかしこの町は、実に美しい。我々は船でそこへ乗り入れたのだが(クラウドの乗り物酔いは、船を前にしては歯噛みするしかない。酔っぱらって眠ってしまうというまことに実用的な対処法を編み出したためだ)、海は実に穏やかな凪で、船がかきわけるひと波も、その前進を祝福しているかに思われた。波止場は、実に活気に満ちていた。日焼けした屈強な男たちが、大きな木箱や樽を持ち上げて運び出す。そのかけ声があたりにこだまし、港に独特の喧噪を作り上げている。猫があわよくば魚のおこぼれにあずかろうとうろうろし、同じものをねらって海鳥が頭上を旋回する。船着場の監視小屋には、生涯を海に捧げてきたというような精悍な顔つきの老人がいて、厳しい表情で船が次々に吐き出すひとたちを眺めていた。灰茶の髪を頭のてっぺんで結い上げた女が、なにやら紙を手に男たちに指示をとばしていた。ああいうのを港の女傑というのかもしれない。
 みすぼらしい風采の老翁がひとり海を見つめてたたずんでいたが、わたしがさっと彼に目をやると、視線を感じてかこちらを振り向いた。そうして目があった。老翁はにやりと笑いかけてよこしたが、その口元には歯が一本もなかった。見た目には乞食まがいの男に見えるが、彼の中にはなにか並みならぬものがあって、わたしに不思議な印象を残した。
 こちらがひとしきり感傷に浸っているあいだに、クラウドは港に出入りしている配送業者と交渉し、我々の荷物、といってもほとんどがクラウドのものだが、それを家に届けてもらうことに決めていた。こういうところは、クラウドは昔からたくましいのだ。つまり、盛大にふっかけてくる商売人を相手に、ぎりぎりまで値切るというようなことは。なにしろ他人の銭勘定にかけて、クラウド以上に手厳しいのをわたしは見たことがない。これで自身も吝嗇家であるなら話もわかるが、そうではないのが彼の彼らしいところであるとも云える。
 身軽になったわれわれは、船着場から歩いて新居に向かうことにした。港町は当然、港の周りがもっとも栄えており、飲食店を筆頭におびただしい数の店が軒を連ねている。裏手に入ったところには、お定まりの歓楽街もある。おのおのの店が潮風に白い外壁を晒し、軒先に思い思いの色のオーニングを張っているさまは、にぎやかで楽しげだった。
 太った陽気なコックのいる小さなレストランでひとまず腹を満たしてから、われわれは町の中心地である広場に向かって歩きだした。港から中心地までは、坂道になっている。ここは海と山とのあいだの斜面を切り開いて作られ、発展してきた町だ。故に港から離れるに従って勾配は急になり、建物はその急な斜面に沿って、海を向いて建てられている。いつまでも続く坂道のせいで息も絶え絶えになったころ、ようやく中心地である広い円形広場へたどり着く。広場はぐるりを数段の階段に囲まれて、あたりより幾分低くなっている。中央には、天使像が設置されている。天使はゆったりしたローブをまとい、大きな翼を半ば開き、首を少しかしげて面を伏せ、どこか恍惚とした笑みを浮かべている。両腕は、なにかを抱きしめるように胸の前で交差させている。右足はしっかり地面についているが、左足は飛び立つための準備をしているかのように、軽く浮いている。この広場から、十字に広い主要道が伸びて、そのあいだを埋めるように建物が建てられ、狭い石畳の路地が作られている。広場から奥へ行くほど入り組んで、迷路のようだ。
 われわれはうるわしい天使像を拝み、広場の階段に腰を下ろしてすこし休憩することにした。ひとりの道化師が、年季の入ったジャグリングを披露しており、道行くひとたちの喝采を浴びていた。露店も複数出ていて、クラウドはひとつの店から、空色のガラス瓶に入ったラムネを買った。それから、道化師の技を見物に行った。ひとしきりそれを見終わると、彼はぴょこぴょこ跳ねながら戻ってきた。途中、小さな男の子が突然彼の目の前を駆け抜けたので、クラウドはラムネ瓶を落としてなるものかとばかり頭上に掲げ、片足で立ち止まったが勢いを殺せずくるりと一回転した。子どもが走り去ると、クラウドはわたしを見、そのまま片足でけんけんしながらやってきた。彼の永久不変の童心。彼に、平穏あれ。わたしは微笑し、戻ってきたクラウドの髪に口づけた。クラウドは階段のすこし離れたところに座っている、終始抱き合ったりキスしあったりしている男女を冷やかし半分に眺め、あたりをうろつきまわる鳩をおどかし、猫に舌を出した。こういうことをするときは、彼は機嫌がいいのだ。ラムネの瓶を、彼は捨てずにとっておくと云った。この町で買ったもの第一号であるので、これは記念として飾らなければならぬ、との由。
 われらが新居は、広場から歩いて小一時間ほどの、住宅街にあった。茜色の屋根が美しい、石造りの古いアパートだ。四階建てで、灰色の石壁や、バルコニーの豪奢な手すり、外壁に絡まる蔦、アーチ型の玄関など、なんとも云えない雅致がある。中へ入ると、幾分手狭なエントランスである。光が当たらないので、すこしひんやりしている。中央に、上の階へ続く螺旋階段がある。どの階にも左右に部屋がふたつずつ、我々の部屋は、最上階の東側だった。
「前に住んでたばあちゃんが、先月死んじゃったんだって。旦那が死んでから六年くらいひとりで頑張ってたって話だけど……五十年来住み続けてたらしいよ。すごいよな」
 それで、わたしはどんなお古の部屋が待ち受けていることかと思ったが、予想に反してなかなかのものだった。
 まず、そこは非常に広かった。壁は白く塗りなおされたばかりで、焦げ茶の木の床もニスがけされてつやめいており、まるではじめてひとを迎え入れる部屋のような感じを与える。処女室、なることばがもしもあるとしたら、まさにそのような趣がある。入ってすぐにリビング、左手にキッチンとダイニングルーム、バスルームの水周りセットがまとめられている。右手にふたつ部屋があり、好きにせよとばかりにがらんどうだ。各部屋に、鉛色のスチームが設置されている。地下にボイラー室があった、とクラウドが云っていたが、冬になればこれが熱せられて、部屋を暖めてくれるわけだ。こういう鉛色をしたものの管理は、クラウドに任せるに限る。
 行李を解く間もなく、クラウドはわたしを宅配業者待ちという名目で置き去りにして、どこかへ出て行ってしまった。わたしは部屋の壁という壁に触れ、以前住んでいたという老婆の、あるいはその連れ合いの痕跡を感じ取れないものかどうかやってみたが、まるきり新しくなってしまった壁は、わたしの要求を冷たくはねのけてしまった。わたしは諦めてバルコニーに出た。かすかに潮の香りがしそうな風が、緩やかに吹いている。バルコニーは、わたしたちがいましがた歩いてきた路地の一本裏の通りに面していて、眼下で小さな子どもたちがボールを蹴って遊んでいた。向かいには似たような外観のアパートがあり、二階の角部屋に花の好きなご婦人でも住んでいるのか、手狭なベランダをこれでもかとばかりに花でいっぱいにしていた。わたしもいずれ、このバルコニーをあのようにする自信がある。そのうちに、あの向かいの花の主がこちらのバルコニーの存在に気づき、意識するようになるだろう。対抗意識を燃やすだろうか、それとも穏やかな同志への好意をもって、それを受け入れるのだろうか。後者であるならば、そこに友情が芽生える可能性というものがある。そういう想像は、楽しいものだ。
 ここにカフェテラスのようなオーニングを取りつけ、小さなテーブルセットを買ってきて、置いたらどうだろうか。日よけの件については、クラウドに相談してみなければならない。あの子はそういう工事なら喜んでするからだ。
 ドアが開いた。足音が複数。クラウドがなにやら指示をとばしながら入ってきた。彼は、家具屋を引っ張ってきたのだ。
「ベッドはそっち。その食器棚は、ダイニングに置いてくれません? あ、その棚はこっち。それはこの隣の部屋。カエルですか? それは玄関です」
 わたしはそのカエルなるものが気になったが、家具屋の仕事のじゃまをしては悪いので、バルコニーでじっとしていた。男が三人、ベッドや棚やランプなどを次々に運びこむ。息のあった仕事ぶり。他人の手慣れた仕事を見るのは気分がいいものだ。ばたばたしているところへ、今度はガス屋と電気屋が来た。水道局の係もやってきた。クラウドが港で雇った運送業者もやってきた。なんだかいろいろなひとがいっぺんに来る。そしてとうとう、バルコニーも家具屋の男たちに占領されることとなってしまった。わたしが先ほど考えていたようなテーブルセットを、運び入れるためだ。スチールとチークでできていて、椅子は二脚。わたしは多少驚きつつ、バルコニーを追放され流浪の民となった。クラウドは次々にやってくる荷物だのなんだのの相手で忙しくしており、わたしだけがこの家の中で、立場や仕事を持たない宙ぶらりんの存在だった。先ほどクラウドが云っていた「カエル」は、陶器製の二足歩行ガエルの置物のことだった。チョッキを着て、軽く体を折り曲げおじぎをしている。背中には縦長のかごをしょっていて、そこに空色の傘が一本たてかけられていた。なるほど、こういう傘立てもあるわけだ。
 すべて片づくのに、午後いっぱいを要した。家具が配置され、電気もガスも水道も通って、郵便局員もわれわれをみとめ、新聞も無事明日の朝刊より配達されることになって、晴れてここはひとの住まう家となった。クラウドは自身もあれこれの運搬にひと役買ったため汗だくで、Tシャツの袖をまくりあげ、タオルをねじって額に巻きつけ、耳にはいつも使用している空色の鉛筆を一本差していた。いっぱしの現場作業員のようだった。彼は作業員ひとりひとりに飲み物を渡して労をねぎらい、丁重に送り出すと、ため息をついた。
「終わった」
 と叫んで、彼は万歳をした。わたしは彼をほめ、ねぎらった。
「完璧だろ? これでもう十年もひとが住んでたみたいになったよ」
 わたしはすっかり整った部屋を見回した。まったく魔法のようだった。数時間前までがらんどうだった部屋に、いまでは生活に必要なありとあらゆるものが運びこまれている……テーブルに椅子、棚、食器、テレビ、ゴミ箱、鏡、ベッド、冷蔵庫、カーテン……バスルームにはタオルまでかかっていて、ボディソープのたぐいがセットされている。クラウドには必需品のドライヤーもある。クラウドがこれらの日用品にいくらかけ、どのように調達してきたのかは、あえて訊かなくてもそのうち彼の方で話してくれるだろうが、それにしても完璧だ。いますぐ生活をはじめるのになんの支障もない。引っ越しを何度も繰り返しているせいで、彼は一種の専門家になってしまったようだ。日常生活というものが、どんな品物で構成されているのか、彼はもうすっかり把握してしまっているのに違いない。
 わたしは美しい夕暮れが広がるバルコニーへ出た。そうして、クラウドが選んだ椅子に腰を下ろし、あたりを見渡した。クラウドもやってきて、反対側の椅子に座った。
「ここに、日よけ用のオーニングをセットしたらどうかと思うのだが」
 わたしはバルコニーの上を指さし、自身の思いつきを口にした。もちろん、クラウドの完璧な引っ越しにけちをつけるつもりがあってのことではないが、彼は上を見上げ、それから両手で頬を挟んだ。
「おれとしたことが、思いつかなかった! おれのばか! 完璧だと思ってたのに!」
 それでわたしは笑って、いちどきに住居を完璧に仕上げるのは無理があると云い、不完全を完全にしていく過程もまた趣があるものだと諭し、あとで買いに行けばいいと云った。それに、ほかはほとんど完璧なのだ。わたしは彼の頭をなでて、ひとまず風呂に入ったらどうだと云った。クラウドは自分の汗のことを急に思い出したのか眉をしかめ、風呂場へ飛んでいった。部屋に引っこむ前になにげなく、向かいのアパートの例のベランダに目をやると、胡桃色の髪をした、細身の若い女性が熱心に花に水をやっていた。白い肌が夕暮れの色に染まり、ひどく印象的だった。
 それから、わたしたちは引っ越し祝いをするため、近所のレストランへ出向いた。もうすっかり夜になっていて、星が出ていた。クラウドは髪の毛を念入りにセットし、彼なりにめかしこんで、わたしの腕に手をかけてきた。で、わたしは応じた。われわれは連れだって、なだらかな坂を上り、窓の輝きがいくつも投げられている路地を左右に曲がって、煉瓦づくりの建物の、小さな暗緑色のドアをくぐった。ドアの横には円錐を逆さにしたような形のランプが取りつけられていて、道行くひとを誘うように、ゆらゆらとオレンジの光を揺らしていた。
 狭い店内は、給仕をするエプロン姿の小太りの奥方とあいまって、家庭的な雰囲気が漂い、客を心安い気持ちにさせる。先ほどまでの慌ただしさを追い払うように、ゆっくりと食事を楽しむ。クラウドはワインを飲みながら、あるいはフォークを振り回しながら、今回の引っ越しの手配にまつわる様々なできごとを語った。わたしは手持ちの話題が特になかったので、向かいのアパートに住む花の女性の話をした。クラウドは彼女に興味を持ったらしかった。
「そのひとが、あんたを同志と認めて友だちになれるかどうか、賭ける?」
 クラウドはうれしそうな顔で云った。なにかというと賭の話を持ち出して、わたしから金を巻き上げるのが、クラウドの趣味のひとつなのだ。
「それなら、おれは友だちになれる方に賭けるが……期待をこめて」
「賭け成立だ。おれは、あんたみたいなのと友だちになれる女性なんていないって信じてるから……いくら賭ける?」
 わたしは百ギル札を財布から出して振りながら、それはどういう意味だと訊ねた。
「どうもこうもないよ。そのままの意味。あんたの見た目はさ、鑑賞には適してるけど、実用には不向きなんだ。恋人とか、友だちとか」
「それはまたどうしてだ」
「整いすぎってこと。昔のさ、裸の男の彫刻あるだろ、あれの身体みたいなもん。あんな身体見せられたら、完璧すぎて恋愛感情とか欲情とかいう問題じゃなくなる。フレンドリーな感じがないよ、ああいうのって」
 云いながら、クラウドは備えつけの紙ナプキンを一枚失敬し、そこに日付と賭け金および賭けの内容を記載し、ポケットにしまいこんだ。ここでデザートのシャーベットがやってきたので、クラウドはそれに夢中になり、話は終わってしまった。わたしはほめられたのかけなされたのか、そこのところはよくわからないが、追求するのもばかばかしいことであるので、おとなしく引き下がった。
 なにしろこの町はふたりにとってまだ新しいものであったので、帰りは少し逍遥し、クラウドは夜店で口の中ではじけるという星形のあめ玉をひと袋買い求めた。小柄で痩せ枯れた、眠たげな目の老人がシートを広げ、ぼんやりとパイプ椅子に座って営んでいるという店だった。さすがにこれを記念としてとっておくことはしないだろうなとからかい半分でクラウドに訊ねると、右腕に頭突きを食らわされた。
 クラウドの買ったベッドは例によって特大サイズであり、わたしたちはその上でさんざん転げ回ったが、こんなことは日記に詳しく書くわけにはゆかぬ。
 少なくとも海辺の町での生活の、出だしは大変良好であるかに思われる。