地から天へ

 そこで我らは言った、「堕ちて行け、一人一人がお互いに敵となれ。地上に汝らの宿があろう、かりそめの楽しみがそこにあろう」と。 ……コーラン 牝牛34節

 彼は天使たちが天から堕ちてゆくのを見た。天使たちは人間の女と交わり、怪物を生んだ。彼はそれを下からでなく、上から眺めていた。雲間よりはるかに高いところから、太陽の光よりもはるかな高みから。
 彼はそれを興味深く、非常に不思議な驚きをもって見ていた。地の生きもののように生殖し、増えひろがることは、天使の本性の望みのなかにないことだった。だがそこになにか、この存在のままではおよびのつかない自由が、ひそんでいるような気もした。ひねもす神を賛美するだけの、この存在のままでは。
 彼は心動かされた。胸騒ぎがし、気分が高ぶり、いますぐになにか行動したい衝動はおさえきれないほどになった。自由! ひたすら神に仕えることは自由であるか? ひたすら賛美するこの生は自由であるか? 聖、聖、聖なるかな! これが唯一の声であり、これが唯一の歌である生は、いったい自由と呼べるものか?
 彼はふいに、自分が圧倒的な力のまえに隷属する者に過ぎないという認識に打たれた。それは彼の動揺を誘った。隷属! それはいまや彼の目を開き、不快な、屈辱の感情をもたらした。自分が満たされていないことに彼は気がついてしまった。永遠の賛美を歌う生などまやかしである。それは単に与えられた仕事をするだけの、神の操り人形に過ぎぬ。そんな生があるものか? ここから堕ちていった者たちは、地上で数を増している。いまこの瞬間にも、交わり、あらたな子をなしている。おれはなにをしているのか? こんなところで、神の命ずるままにその存在を賛美しつつ、いったいなにをしているのか、いったいなにかをしていると云えようか? 彼はその思いにとらわれ、胸を焼かれるような思いにとらわれた。
 おれはなにをしているのか、こんなところで、こんなつまらぬ仕事のため、自分の意志も持たず、自分の力を試しもしないで。
 矢も盾もたまらなくなり、彼は六翼の翼を羽ばたかせ、下降をこころみた。至高の天から、はるかにへだたった地へ、そこになにかがあると信じて、そこに自由が、おのれの力を発揮できるものが、おのれ自身のよろこびが、あると信じて。
 彼が天を離れたとき、天上の天使たちのどよめきが聞こえた。だが彼はふりかえらず、それを気にとめもしなかった。彼らの支配者たる神は、しかし、沈黙を守っていた。

 下降は苦しい道のりであった。くだってゆくにつれ増してくる空気の重みに彼は耐えがたいものを感じた。天上では彼はいかなる重さも感じたことはなかったが、くだってゆくにつれ、翼が切りさいてゆく大気はねばつくようにからみつき、まつわりついて、彼をいらだたせた。くだるにつれて速度は増してゆくどころか徐々に落ちていった。彼は同時に、おのれの体の重さを意識しはじめた。腕や脚がくろがねの鎧をまとったように重くなり、翼に耐えきれぬほどの力がかかるのを感じた。いまにも重さに翼が折れ、制御の力をうしなってまっさかさまに落ちてゆくかと思われた。
 だが彼は歯を食いしばった。これしきのこと、おのれが選んだ自由の前に、くじけてどうする。これしきの苦難に負けてどうする。重さよ、地の重みよ、重力よ、ここへ来ておれを蹂躙するがいい。そうして彼は勇気をとりもどした、あるいは、いま、生まれてはじめて勇気のなんたるかを、彼は知ったかもしれなかった。

 重さと翼の痛みに耐え、地表ちかくへくだったとき、彼の目に美しく光る金色のものが見えた。それはちらちらと誘うように光った。彼は目を細めて方向を見さだめ、それを追いかけた。翼はもう体の重さのためにほとんど動かず、はためかせて風に乗る力を与えようとしても、うまくいかなかった。ほどなく、彼はよろめきながら地上へ降りたった。やわらかな足の裏に、感じたことのない大地のざらついた感触と温度を感じた。それは吸いつくように彼の足裏をとらえ、もはや決して離さないかまえを見せた。そして彼は翼が失われたのを感じた。
 しょうことなしに、彼は歩きだした。慣れない歩行に足裏は悲鳴をあげたが、彼はその苦痛さえもよろこびとした。それは自由の代償としての痛みだと彼は考えた。おれはいまおのれの足で歩いている! 誰の力も借りず、誰の命令も受けずに、おのれ自身の意志で。
 そして彼自身の意志はあの金色に輝く光のことを知りたがっていた。あれは天上で常に仰ぎ見ていた光ににている。神の御座をとりかこむ光ににている。この地にそのようなものがあるのか? この地上にも神ににた者があるのか? それは神がとりわけ恩寵をそそぎこんで創り、なおかつ失望を味わったあの人間なのか? いったい人間とは何者か? それでもなお天使たちをも魅了するその存在には、どんな秘密があるというのか?
 ほどなく、彼は森をゆくひとりの人間を見つけた。人間はなにか入っているらしい袋を肩にかついで、実に軽やかな足どりで歩いていた。白く内側から輝くような肌をもち、黄金のまばゆい、輝かしい髪をして、青々とした目をもっていた。それは天使たちに勝るとも劣らないほどに美しく、神に接するときのように、彼のなかに熱い歓喜をもたらした。
 黄金の髪をなびかせ、人間はなにか存在の充足に満ちて、質量に満ちて、歩いていた。一歩ごとにその足裏が体の重さを支え(とはいえ人間は重さをまるで感じさせずに、たいそう軽やかに歩いていた、そしてその細身の体は実際に軽そうであった)、前へと倦まずに踏みだしてゆく、その動きが彼に実に好ましく映った。彼はまだもたつくような、慣れない足でどうにか人間に追いついた。人間の髪から、嗅いだことのないかぐわしい香りがたちのぼった。神のためのなだめの香りとは、似ても似つかぬあたらしい芳香だった。
「どこの別嬪さんか知らないけど、おれになにか用?」
 地の人間は、彼に気がつくとふりかえって、しばしじろじろと彼をながめたが、やがて唇を非常に独特の感じにゆがめて云った。からかうような、見定めるような、皮肉るような、不思議な微笑を浮かべて云った。声はたいへん独特だった、彼の聞いたことのない音調だった。
 返事に困り、しかしこの人間の言葉に応じたいと願ったとき、彼の口からはじめて賛美以外の言葉がほとばしり出た。いいや、用というわけでは、しかし、さっき金色に光るものを目にしたと思い、それがいったいなんなのか、とても気になったので。
 人間は目を細めてくすりと笑った。それはとても魅力的に見え、彼の心臓は小さく跳ねた……ああ、なんということだ、おれは心臓をもっているのだ、この胸のなかに、この場所に。
「光るものって……いったいどっから見たんだ、崖の上からでも見た?」
 確かに地表からではない、少し上からだ、と彼は答えた。自分の声がこんな響きをもって響くことに彼は驚いていた。それはたいへん優しく、誘う響きをもっていた。賛美の響きではなく、もっと別の目的をもつような響きだった。だがその目的がなんであるのか……それが彼自身にもわからなかった。
「ふうん。じゃ、遠くから見て、わざわざ追っかけてきたってこと? あんた、もしかして盗賊? おれが金目のものでももってると思ったのか?」
 盗賊というのがなんであるか、彼にはわからなかった。だがなにかよくないものであることは理解できた。彼は自分は悪さをするものではないと云った。人間はなぜか、その言葉に盛大に笑った。笑い声は鈴の音のように響いた。
「自分からそういうこと云うやつって、たいていろくでもないやつだ。そう相場が決まってる。でも、ま、いいや。見たとこ、あんた武器ももってなさそうだし、だいたい荷物も……あんた、どっから来たんだ? 旅人にしちゃ、えらい軽装だ」
 人間が自分をじろじろ眺めまわすので、彼はどことなく気まずい思いをし、自分は遠くから来たのだと云った。
「ふうん……で、どこに行く予定なんだ?」
 このあたりのことはよくわからない、どこへ行くあてもない、と彼は答えた。人間はまたもや大笑いした。
「あんた、大丈夫? もしかして脱走した囚人とか? なんかやばいことして逃げてるとか? なんだか知らないけど、ちょっとおもしろそうだな……ちょうどいいや、おれ、話し相手もいない旅で退屈してたんだ。よかったら次の町まで一緒に行かないか?」
 彼はそれは大変ありがたい申し出だと云った。そうして、金色の人間と並んで歩きだした。
 人間はいろいろなことを話した。出身地、これまでの生いたち、年齢、こなしてきた仕事のことなどを、こだわりなくあけすけに話した。それでいて、彼にはなにも訊ねなかった。おれが話し相手を求めてただけだから、あんたのことは別に訊かないよ、と云って。彼は人間の話を楽しんだ。人間の話と、それを話す人間の表情や口調やしぐさや雰囲気に魅了された。人間のひとつひとつの動作が、人間の一瞬一瞬が、とても美しかった。
 やがて日が傾いて、あたりはしだいに暗くなりだした。人間は彼の手を引いて、彼を森の奥のほらあなへ導いた。
「このあたりは前に通ったことがあってさ」
 人間は明らかに、こうしたことに慣れていた。袋のなかから布や毛布をとりだして寝床をこしらえ、火をたいて、食事をつくる。人間は温かいスープをつくって、パンを添えて彼に差しだした。彼はおそるおそるスープを口に入れた。塩気と野菜の味が舌の上に広がった。まずいとは思わなかった。素直にうまいと感じた。自分がものを食べ、飲みこんでいることが不思議に感じられたが、悪いことではないように思われた。
 やがて夜が更け、ふたりは眠りにつくために横になった。敷物が足りないので、体をよせあった。人間の温かな体温を感じながら、彼は目を閉じた。暗闇と静寂とがおとずれた。
 しばらくして、人間の手が自分の髪をさぐり、なでているのに気がついた。首をひねると、人間は目を開けて彼を見ていた。
「あんたって、変わった目してる。それにすごくきれいな髪だ」
 人間は不思議な笑みを浮かべた。柔らかくて、やさしげで、しかしなにかこちらを落ちつかなくさせる熱っぽいものを帯びた笑み。
「おれ、普通はぜったいこんなことしないんだけど」
 人間の青い目は自嘲気味に笑っていた。
「なんだろ、あんたがきれいだからかな。ちょっと人間じゃないみたいな」
 人間の顔が近づいてきて、唇が触れた。人間の腕が首にからみついてきた。唇は温かく、湿って、心地よかった。彼は夢中でそれを味わった。そして感覚がしびれたようになり、次々にやってくる刺激に酔いしれた。人間の肌はやわらかく、みずみずしく、彼にぴったりと吸いつくようだった。その体にやどるいくつもの秘密を、深い神秘を、暗闇のなかにおいて彼は知った。

 人間はふたりで寝て、子をなし、増える、と彼が云ったとき、金色の美しい人間は笑った。人間はクラウドといった。まさぐりあいながら名乗られ、また自分の名前を訊ねられて、彼は答えた、セフィロスと。その瞬間に、彼はおのれの体から翼のなごりが、最後の天的なものが、奪いさられたのを感じたのだった。
「おれといくら寝てもガキなんか生まれやしないけど」
 金色の美しいクラウドは、相変わらずはすにかまえたような顔つきと口調で云った。
「なにかが芽生えはするかもね。そのほうが、うんと大事なことだよ」
 そう云ってクラウドは湿った唇をふたたび彼の唇に押しあてた。そうして彼を、おもしろがっているような、いつくしむような、やわらかい光の揺れる目で見つめた。
「……なにかとは、いったいなにが芽生えるのだろう」
 セフィロスは云った。クラウドは声を上げて笑った。
「なにが? 知るかよ、いろいろだろ。たとえば人が愛って云ってるようなものとかさ」
 愛、とセフィロスは口に出した。そうそう、愛、とクラウドは相変わらずの皮肉っぽい口調で云った。愛、とセフィロスはもう一度云い、それから微笑んだ。それは知っている。天上にいたとき、彼はそれを見ていたし、知っていた。神の御座のまわりは、いつでもそれに満ちていた。だがそれがなにを意味し、どんなものであるのか、ほんとうのところを彼は知らなかった。知らなかったことに、この瞬間に気がついた。それを知っているだけで、経験していないことに、彼はこのとき気がついた。そしてなにかひどく新鮮な気持ちで、クラウドを眺めた。
 クラウドのからかうような笑みは、天上で決してお目にかかれぬたぐいのもの、まったく辛辣で悪魔じみていた。だがその笑みのなかに、すべての甘美さはまた眠っていた。彼は自分が真実に堕ちたことを知った。だがそれは、あの天を、あの無限の場所を目指すべくふたたび上昇するための足がかりにすぎぬことをもまた、彼は知った。

井筒俊彦訳『コーラン』岩波文庫|1957年