冬の湿った夜の火

 灼熱のなかで彼は青い海のような瞳が揺らぐのを見た。それはいつも耐えがたい瞬間だった。だが夢のように甘いときでもあった。その瞳の揺らぎは彼のためのものだった。それよりほかのいかなるもののためにも揺れうごきはしなかった。彼のための波だち、さざめき、霊妙なものの乱舞。その波のゆらめきがもたらす誘いは危険だった。それはいつも、自分のほうへ来るように、自分のなかへ還るように、自分のうちでまどろむように、と呼びかけていた。
 母とはなにで、誰であるか。このときほど彼が真剣にその問いの前に立つことのできた瞬間はなかったが、またこのときほど、彼が容易にその問いを握りつぶした瞬間もなかった。灼熱のなかで、金のまつ毛にふちどられたまぶたが青い瞳に落ちかかり、閉ざされた。ひとつの風景が失われた。そして暗闇がやってきた。
 赤い炎が燃えているのはわかったが、あたりは暗かった。火の粉が舞っているのがわかったが、彼には見えなかった。足もとに、手に、べっとりと血を感じ、鉄のにおいが鼻を突いた。熱さは、渇きは耐えがたかった。だがそれこそが自分にふさわしいもののように、自分のためにあらかじめ用意されていたもののように彼は感じた。炎と暗闇とを、いまおのれの眷属のように、彼は感じた。それは青く、潮のにおいのする、生命に満ちた海からは、天と地ほども遠かった。

 砂のような渇きをおぼえて、セフィロスは身を起こした。あたりは青くほの暗く、静まりかえっていた。一瞬彼は、自分がどこにいるのか、いまなにをしているところなのか、自分がどんな存在であるのか、わからなくなりかけた。夢を見ていたのだった。クラウドの故郷の夢を見ていたのだった。炎に包まれたニブルヘイムの夢を見ていたのだった。あの熱さの確かさ。あの暗闇の鮮明さ。燃えたつ炎は、彼自身の姿を確かにあらわしていた。いにしえの詩人は怒りを歌ったものだ。怒りもひとつの歌であり、ひとつの確かな実在でありそれ自身の運命をともなうことを、その詩人は知っていたのである。あらゆるものを、熱風の嵐のなかに閉じこめ、たたきつけ、打ちこわし、破壊せんとする、あの暗い喜び。それはおのれから去ったか。あるいはまだおのれのうちにあるか。
 動くものの気配がセフィロスの意識を過去から引きもどした。クラウドが寝がえりをうった。彼の横で、背中を丸めて、薄いやわらかいまぶたを閉じて、金のまつ毛に頬骨を彩るにまかせて。彼は光の色をしており、海の色をしている。どんな暗闇のなかにあってもそれはわかる。それすら感じられないほどの暗闇の存在について、無邪気に首肯することはもうできかねる。そしてそれは決定的な一線だ。暗闇は彼を容れなかった。そして光の届くほの暗さのふちへ押しやった。灼熱からも渇きからも離れた、どこでもないようなこの場所のなかへ。静謐な暗がりのなかへ。この山小屋のなかで、荒れ狂う冬のうちに、セフィロスはふたたび人間に戻らねばならない。彼は上昇したぶん、降りてこなければならない。クラウドを置いては、やはりどこへも行けないからだ。
 クラウドが目を開けた。億劫そうに、まぶたを半分ほど開きながら数度瞬きし、それから間近にあるセフィロスの顔をまじまじと見つめてきた。もの問いたげでもなく、どんな感情もない、見つめあう目と目のあいだに惹き起こされるものがこの世のすべてなのだと知っている者の目だった。クラウドは微笑んだ。
「あんたなんか深刻そうな顔してるよ」
 彼はささやき声で云った。自分の声で、なにかを壊してしまうことをおそれているようでもあった。
「夢でも見た?」
 クラウドは唇に微笑を浮かべたまま、ふたたびまぶたを閉じた。
「おまえの故郷の夢を見た」
 クラウドは目を開けた。
「炎に包まれた。灼熱の中でおれは乾きを感じなかった」
 クラウドの目が少しさまようように揺れた。口元はまだ微笑んだままだった。
「おれあんたがやけどしないのかなって思った気がする」
 クラウドはささやいた。とても優しいものを包むように、壊れやすい思い出を語るときのように。
「だって熱かったもんな、あの日」
 それはクラウドのその、どこかなつかしむようでさえある云い方のためだったか、あるいは口元の微笑のためだったか? セフィロスはおのれの渇きの耐えがたいのを突然意識した。そして水気を得る必要をおぼえた。
 セフィロスはクラウドの額に口づけた。髪の生え際に、まだかすかに汗ばむような気配がのこっていた。なぜ彼は湿った、温かな夜のようなのか。こんなふうに横たわっているときには、クラウドは湿った夜を従えている。彼はとてもみずみずしく見える。うるおいに満ちて見える。若く艶のある髪、海の深みを思わせる目、波打ちぎわの泡だちをあつめたような肌。そこから美の女神が生まれた。そして情欲と争いは地に満ちた。
 セフィロスはそこに確かにある海の、潮の味を求めた。眼球に、優しく、だが遠慮ぬきに舌をあてがい、まぶたを押しあげてかすかな丸みを感じとった。クラウドは反射的に反対の目を閉じていた。まぶたのふちをまつ毛ごとなめあげて、隙間から舌を押しこみ、頭をおさえてぞろりと舌を一周させ、唇を押しあてて、吸いあげた。かすかな潮の味が、舌に残った。セフィロスは渇きをおぼえていた。眉間へ、鼻先へ彼はくだってゆき、唇から湿った口内へ、潤いをもとめるようにして進んだ。クラウドは笑みの形をした唇で、彼を優しく引きこんだ。

 彼は湿った夜を連れている。湿って熱っぽい狂騒の夜を連れている。火を囲んで歌いおどる夜を連れている。あるいは静かに森の奥深くで息をするような夜を。獣の満ち足りて眠る夜を。
 月夜に咲く花がおのれの存在に満たされて充足のため息をつくとしたら、おそらくこのように香り、大気に溶けだすだろう……頭の片隅でセフィロスはそんなことを考えた。クラウドの呼吸は熱く湿って、満ち足りた思いに満ちていた。それが自分の存在のゆえであることをセフィロスは疑わなかった。自分の存在がもしもこのように彼を愛撫し、彼を満たさないなら、クラウドはおそるべき渇きを味わったことだろう。それはセフィロスの渇きとなんら変わるところのないものだろう。そしてクラウドはそれを実際に味わったのだ。引き裂かれ、置き去りにされ、失うことのなかにある凍えるような冷たさを彼は感じたろう。もしも彼がこんなに熱く、自分を燃やすことを知らないならば、それに耐えられなかったろう。あるいはあの日、セフィロスが火をともしたのだろうか。そうだとすればうれしいことだ。自分が触れなければこの子の肌はこんなにも熱く、湿って、燃え上がることがないというのであれば。
 いまクラウドが頭をのけぞらせたために、セフィロスの目の前にむき出しの喉がさらされていた。いつでもそこを食いやぶることができるというのはひとつの喜びではなかろうか。鎖骨のあいだのくぼみにたまっていた汗が流れ落ち、セフィロスはそれをすすりこんだ。このどちらかといえば小柄な、華奢な体のなかに、クラウドは驚くべき生命のしぶとさとでもいうべきものを、いくつも抱えこんでいた。あんたに何度ぶっ刺されてもおれ死んでやらない、とクラウドはいつだか云ったのだ。ざまみろ。おれは不死身なんだ。
 不死身の、不滅の生命よ! 生命はひとつの閉じた系だ。だが驚くほどに開かれた系でもある。生命活動は交換の現象だ。外からとりこみ、うちにおいて生成する。いまや彼らは互いをとりこんでいる。そしてひとつの閉じた輪をつくっている。永久に循環しつづける輪を。そこにおいてはじめて互いに生きることのかなう輪を。そのとき渇きは去り、生命は永遠へ向かって踊り出る。
 クラウドの目から涙がひと筋流れた。そこから流れ出るとき、クラウドのまつげに触れて涙は黄金色のしずくとなった。にわか雨のあと、濡れた木の葉の先から、日の光を受けてしたたるつゆのひとしずくのように、彼の涙は美しい金色をして、惜しみない恵みの豊かさをあらわすようだった。
 セフィロスはふいにひとつの、鮮やかなイメージにとらわれた。黄金の秋の収穫の日、彼と輪を描きながら、樽いっぱいの葡萄を踏み踊ったことはなかったか? これは明らかにいまの生の記憶ではない。星をめぐる記憶の中に、彼らが遠い昔に過ごしたかもしれない思い出のうちに、それは眠っていて、いま呼び覚まされたのだ。以前セフィロスは星の胎内においてありとあらゆるものを見た。彼はもういくつもの生を生きた。そしていつも、生のどの瞬間にも、この星をめぐるときにも、もっとはるかな地をめぐっているときにも、クラウドはいつも彼に与えられたただひとつの分だった。そこへ立ち還ること、その存在の恵みのなかにふたたび還ってゆくこと、そして交わって、星の意志よりもうるわしいただひとつのものを生むこと。そのためだけに、彼らは生きた。そのためだけに、セフィロスはいままた、こうしてここにいた。

 いつか、まだ未成年だったときだ、夜、熱帯の湿った森のなかで、樹液をもとめて木に群がる虫どもを見た。節くれだった木の、がさついた幹から琥珀色のねばっこい液体が染みだし、流れてしずくを作っていた。黒や茶色や緑色をした虫どもは、脚を広げて幹にしがみつき、うっとりと樹液を吸っていた。セフィロスは興味をおぼえて指先に小さなしずくのひとつを取り、匂いをかいでみた。少しつんとするような、それでいてその奥に甘さをつつみ隠したような、複雑な匂いだった。指先をこすりあわせるようにすると、煮つめた砂糖液のようにねばねばとからみついてきた。舐めてみたが舌先に甘さは感じなかった。だがあんなに虫どもが夢中で吸っているところを見ると、連中にとってはなによりのごちそうに違いなかった。
 どこかで、ぎゃっというような気味の悪い動物の鳴き声がした。木の葉ががさがさと音をたてた。遠くに、かすかに、獣の気配を感じた。まつわりつくような熱い、こもった空気をした夜の森のなかで、視覚と嗅覚はとぎすまされ、皮膚にぴりぴりしたようなざわつきをおぼえた。頭上には半月がかかっていた。蒼く、いやに輪郭のくっきりした半月が。セフィロスはなぜか突然ひどく愉快な気分になり、自分が興奮していることに気がついた。このままこの熱く熟れたような森のなかで生きていったならば、自分は間違いなく獣のようになるだろうと思った。ひとり孤独に、しかしそのうちに孤独という観念そのものを忘れて、獣のようになってゆくだろうと思った。花を飾ることも、歌を歌うことも、祈ることも忘れて。
 その晩、セフィロスは森を夜通しそぞろ歩いた。夜明けまでには、野営地へ戻らねばならなかった。戻りたくはなかった。だが、戻らねばならないことはわかっていた。獣に戻るにも、人間になるにも、彼にはひとつのものが欠けていた……獣に戻るには、交わるべきつがいが、人間になるには、花を捧げるべきひとりのうるわしい人が。湿ったむっとする夜気のなかで、セフィロスはその人がどうか自分に与えられるようにと、ただそのことを願った。そうしたら、自分は感情に流されることも、理性をはずれることも、思うままにできようから。どんな力を手に入れていようと、そのことができないのなら、あらゆる能力は無意味である。その力がないのなら、どんな強さを持っていようと、なにひとつなしとげられはしないのだ。
 そして時は満ち、月は満ちた。彼はおのれの手に入れたかったものを手に入れた。彼の理性をはずし、感情のたがをはずし、彼のすべての装備を解く者が、彼の最後の一線までもとりさって、燃やしつくし、灰からまた彼をつくりあげた。揺らめく炎の前に物憂げに頬杖をついて、クラウドがちょっと指先をくるくる動かすと、炎のなかでひと山の灰になっていたセフィロスはまた人の形をとりはじめる。羽は抜け替わり、若がえっている。クラウドはなにか退屈そうに、先ほどくるくる動かした指を唇にあてている。ああ、彼はきっと退屈してしまったのだ。セフィロスが、あっけなく燃え尽きてしまったので、燃え尽きていたあいだに、退屈してしまったのだ。セフィロスは責任を感じる。その不満げにとがった唇を、満ち足りた笑みにしなければならないと感じる。だが同時に、彼にこんな顔をさせるためになら、何度焼きほろぼされても満足だった。灰になり、風に乗って、不機嫌な彼のまわりをただようだけで満足だった。きっとセフィロスは彼の鼻先や首筋をくすぐり、笑わせてやるだろう。そしてまた自分を呼びもどす気にさせるだろう。

 小屋のなかはほの暗いあたたかな闇につつまれている。忍びこむ冷気を追いだすために、窓は覆いふさがれてしまった。曇天と雪の冬は日の光をさえぎり、暗闇を決して邪魔しない。ここには原初の優しい安らぎがある。光のとどかない、耐えがたいまぶしさの暴力から守られた、あの暗がりがある。目を閉じてじっとしているクラウドのうちにもそれはある。彼の肌はまだ汗ばんでいる。セフィロスは彼のなだらかな額に口づけ、湿った髪の生え際から、もう引きかけている汗の最後のひとしずくを唇に乗せる。それでクラウドは浅い眠りから目を覚ました。そして、おれたち、非生産的すぎるよな、とふと気がついてしまったというように云った。
「だって毎日食って、やって、寝てるだけだもん」
 それのなにが悪いのかとセフィロスは云った。生物に必要なのはその三つのことだけだ。生物に生産/非生産なる概念を決してあてはめてはならない。すべては循環するのだ。大切なことは、その循環のなかにいることであり、その循環のなかにいることを疑わないことである。
 クラウドはあくびした。そうして眠たげな目でセフィロスをじろじろ見てこう云った。
「おれなんでもいい。あんたとリユニオンとかいう羽目にならないんだったら」
 ああ、その可能性を捨てておくことは幸福なことだ。いま二である存在が一になるとは、ここに現象し、ひとつの人格となった存在を放棄することに等しい。かつてセフィロスが、あの星をめぐる、一なるものの中からつきぬけ出たとき、そのときのことを彼はおぼろげにしかおぼえていないが、そのときクラウドもまた彼のあとを追って出てきたのだった。その責任を感じたときセフィロスはセフィロスとなり、その責任を生じさせたときクラウドはクラウドとなった。それを捨ててまたすべてがひとつであるもののなかへ埋没するくらいなら、そのようにして互いを失うくらいなら、彼は永久に抗いつづけるだろう。すべてに否と云うだろう。星にも、宇宙にも、神にさえも。そして自分が自分であることと、クラウドがクラウドであることを、死守しつづけるだろう。
「なんか話して」
 クラウドはまぶたを閉じかけていた。
「こないだ話してくれたような話。なんだっけ、ライフストリームに還ったあと、また生まれ変わる前に……」
「その前に、魂はひとつの火をくぐり抜ける」
 セフィロスはクラウドの額をなで、張りついた髪をすくいあげた。
「昔の人間はそれを浄化のための炎と考えた。実際には、浄化というより変容といったほうがいい。金属を火の中へ投げこんで、溶かしてまた新しく形を作るように、精神は溶けだし形を変える」
 クラウドの目は涙の膜のなかでゆらゆらと揺れていた。
「そのときに、強く願えば望むままの姿をとることもできる。海原を渡るものになりたければそのように、翼あるものになりたければそのように」
 クラウドはちょっと考えこむような顔になった。だが彼は自分以外のなにかになりたいなどと思うだろうか。そんな必要もないのに。
「おれはこの次にその機会があったら、どうなろうか考えているのだが」
 セフィロスは微笑んだ。
「根っこの生えたものになりたいと思ったことは? そうなったら、動き回らなくていいことになって、さぞ好き放題に怠けられるのではないかと思っているのだが」
「おれやだ」
 クラウドは思わず笑いをもらした。
「あんたに根が生えたら、根こぎしてみんな掘り出してやる。退屈だよ、動かないなんて。おれ二日もたたないうちにひまで死んじゃう」
「そうか、だめか」
 セフィロスはたいへん残念そうに云った。
「一度根が生えたようになってみたかったのだが。そうしておまえが雨になっておれの上に注いできたら、世界は完全なものになるだろう」
 セフィロスはうっとりと目を閉じた。クラウドはあきれたようにため息をついた。
「あんたほんと、妄想しすぎだよ。いまにはじまったことじゃないけど」
「話せというのは妄想しろということとほとんど同じだ、お話をねだるということは」
 クラウドはまた考えこむような顔をしたが、その意味がわかったふりはしなかった。そしてまた目を閉じた。今度こそまじめに眠ってやろうとでもいうように、彼は丸まり、すぐに寝息をたてはじめた。いつでもどこでも眠れることを……乗り物に乗っているとき以外……クラウドは昔から自慢にしていた。彼の寝つきのよさには、まったく驚くべきものがあった。いったい彼が豪胆なのか神経質なのかについて、セフィロスはときどきひどく混乱させられた。クラウドが自分の存在を定義すること、あるいはされることに本能的に反抗しているのだということに気がついたのは、彼を知るようになってかなりたってからのことである。つまり彼はいかなるものにもなりうるが、同時に決して自分以外の何者にもならないのである。
 だが彼らはいま、そのほかの生でなく、この生を生きているのだ。この形で、このあり方で、この様式でもって、互いの存在を補完しかたどりつつ生きている。セフィロスは生命を求めるときクラウドに立ち還ればよく、死を求めるときおのれの情念にしたがえばよい。これくらいの単純さが彼には心地よかった。この単純さのなかにある濃淡の澱を、さまざまな綾を、彼は楽しんでいる。人間であるとは結局それ以上のなにものでもない。二千年も前から、この星で、人間どもはそのように生きてきた。犠牲を捧げ、みずからをあがない生きてきた。セフィロスもまたいましばらくのあいだ生きるであろう、クラウドとともに、互いに多大な犠牲とあがないをともなったこの生を。