沈黙がおちかかる前の

 沈黙がおちかかる前の最後の会話は、らしいといえばらしいものだった。彼らは人が一般に「愛しあう」という表現をする行為のさなかに、それに半ば没頭しつつ半ば他人ごとのように、愛するという言葉の持つなにかしっくりしない感じについて話しあっていた。
「あんたのこと、愛しているなんて云うやつに会うたびにおれは思ったよ、そんなこと、おれだってあんたに云ったことないのになって」
 クラウドはふとしたきかっけで昔のことを思いだしてしまって、その当時の気分に引きもどされ、引きずられていた。セフィロスの愉快な英雄時代、十代の少年クラウド・ストライフは、命がけで彼のために戦っていた。偶像崇拝のおそるべき呪いを、自分がみんな引きうけてやるつもりで。そしてその呪いを、解けるとさえ思っていた。十代の危険な性急さと、情熱とで。
「で、そのころはそんなもんだと思ったけど、去年だか、おととしだか、ふとなんで云わなかったんだろうって考えた。でも、そんなせりふ鳥肌が立ちそうだし、そりゃ、あんたのことはすごく、すっごく好きだけど、でも、なんだろう、そんなんじゃないんだ。そんなんじゃない。そんなきれいな話じゃないよ」
 云いながらクラウドはかつての不満と怒りと悲しみとがぶりかえし、憂鬱になり、ほとんど泣きそうになった。
 セフィロスが動きを止めた。そして少し考えこんだあと、快楽を与えるためではなくて、なぐさめを与えるような触れ方に切りかえた。クラウドは抗議すべきかと思ったが、しなかった。快楽に逃げこむ前に、言葉で解消すべきなにかが、この話題の中にあるように思われた。
「確かに、愛しているは言葉として、美しすぎる」
 セフィロスは真剣な、自分の心のなかを見さだめようとするような顔をしていた。
「それは人間に捧げるには純粋すぎるもののように、おれにも思える。人間が人間に向ける感情は、もっとなにか瘴気のただよう沼地のようだ。執着と、虚構と、演技と、わずかばかりかいま見える真実と、悲しみと笑い」
 セフィロスはふと微笑し、クラウドの頬にかかった髪を、そして頬を、丸くなでた。
「それとも、それらをみんな織りこんだものが愛だろうか。どうだろう。記憶にあるかぎり、おれもおまえにそんなせりふを云ったことはないが、ただ言葉を口にするだけで満足して、その意味もわからないような人間にだけはなりたくないと思っていた、昔から」
 彼はなにか感慨深げにクラウドの顔の輪郭をなぞっていた。
「愛などとは、確かにきれいすぎる。特に、おれたちのようなのには。もっと生々しく、ときどき暴力的で、たまに静かで、ときにたわんで、張りつめる。そういう感じの連続のことを、おれは考えている。そのなかにいるおまえのことを考えている……いや、考えていた、このあいだまで。いまは感じている。おまえはもう現に、目の前にいるわけだから」
 彼らは何秒か、じっと見つめあった。いまセフィロスが発した言葉の余韻のなかでその意味をさぐるように、それがまるでお互いの目のなかに書きこまれているとでもいうように、彼らはじっと互いの目を見つめた。そのあいだを、さまざまな過去の亡霊が通りすぎた。そしていま現在、それらの亡霊どもをみんな討ち滅ぼして、ふたつの存在が互いに向き合っていることを、彼らは感じた。
 クラウドは誘うように目を閉じた。こんなときどうしたらいいのか、クラウドはよく知っていた。一度忘れていたが、もう思いだした。そして二度と忘れるとは思わなかった。
「……おれも同じようなこと思ってた」
 それを最後に、彼らは言葉から、行為と感覚へ道をゆずった。

 沈黙がこんなふうに長びくとは、別にどちらも思っていなかったはずだが、彼らはそれ以来、言葉というものに愛想をつかしてしまったように、お互いのあいだから言葉を追放してしまった。なくても足りるものが必要だろうか? 彼らは打ち捨てられた、誰のものともしれない山小屋のなかで、いろいろなものを敷きつめた寝床と、暖炉と、煙突と、テーブルと椅子が二脚あるだけの空間で、外から聞こえてくる音と、相手の息づかいだけを音楽にして、それで満ち足りていた。朝目覚めると、となりに相手の姿を探して、顔を、目をのぞきこみ、相手の気分を探った。それから一日をはじめたが、それは日に日に静かに、濃く、密度を増して、沈んでいった。
 冬になっていた。外はときどき猛烈な音をたてて吹雪いた。ベッドの上のほうに小さな四角い窓があって、それが唯一外の世界の姿を映していた。クラウドは一日じゅう寝床を出ないことが多かった。窓の外を眺め、セフィロスを眺めているだけで、彼には十分だった。ふたりのあいだから言葉が消えさると同時に、ものを考えるということがなくなった。彼はただ感じていた。外で吹きつける雪の音を、ときどき小屋がきしむ音を、相手の静かな気配を、そして気分の、雰囲気の変化を。自分の気分が変わったら……つまりなにかしらの欲求を覚えたら、言葉で云うのでなく、身ぶりや目つきや、あるいはただその気分を外へ放つことによって、相手に伝えるすべを、クラウドはなぜかもう何年もそうしてきたように知っていた。そしてセフィロスもおなじようにしたので、相手の気分も欲求も、彼はくみ取ることができた。
 言葉を追放したあとには、食べることと、寝ることと、交わることとが、彼らの欲求のほとんどすべてだった。
 山小屋の周囲にはふたりのほかに、死に絶えたようになにも存在していなかった。小さな鳥や動物でさえ、そばにはいないようだった。冬眠しない獣は、きっとどこか遠くをうろつきまわっていた。あるとき、クラウドはふと血の匂いを感じて目覚めた。このごろでは、昼も夜もあまり関係がなかった。自分の姿かたちもあまり関係がなかった。裸のまま外へ出てみると、セフィロスが小屋の外で大きな鹿を屠っていた。クラウドは子どものように無心に、鹿が解体されるのを見ていた。鹿は雄で、大きな、立派な角をもっていた。セフィロスはそれをきれいに切りとって、クラウドに渡した。クラウドはそれを宝物のように眺め、抱きしめて腕に抱え、長いあいだ手元に置いて楽しんだ。
 また別の日、セフィロスはたいそう美しい真っ白な虎を穫ってきた。クラウドは獲物を見て、その毛並みを非常に美しいと思い、それがほしいという感覚がわいた。セフィロスは望みをかなえてくれた。それから数日後に、セフィロスは白い並外れて大きなメスの狼を持ってきたが、それは別に食料にするためではなくて、単にクラウドに美しい毛皮を捧げるだめだった。

 やがて時間も彼らを見捨ててしまった。食べることと、寝ることと、交わることとが、円を描くようにしてくりかえされた。彼らは名前を失った。ただ目の前にいる相手が、自分の存在を保証した。相手の目が自分の目を見つめるとき、クラウドは自分の目のあることを知り、相手の腕が自分を抱きしめるとき、クラウドは自分に体のあることを知った。自分に触れる相手の感触で、彼は自分の体を知った。
 視線が向けられるとき、クラウドははじめて自分の存在を思いだした。セフィロスの視線を浴びることは昔から、なにより誇らしかった。彼の視線は、いつもさまざまな意味をこめながらクラウドの上をさまよい、楽しんだ。彼に見られることは、暴力的ななにかではなかった。むりやりに覆いをはがして暴こうとするような横暴さを彼の視線に感じたことは一度もなかった、欲望の目のなかにさえも。彼が求めるのは、クラウドというひとかたまりの存在だった、それがわかたれずに、覆われずに、ただそこにあることを彼は欲した。自分が彼の前にあり、彼のまなざしが自分に注がれているあいだだけ、クラウドは自分の存在が望まれ、あらわになり、満たされるのを覚えた。その感慨は多くため息となって、こぼれ落ちた。
 ある晩、ふたりは寝床のなかで寄りそいながら、窓から星を見ていた。荒れた気候の山の冬で、星の見える夜は珍しかった。クラウドはふと、故郷の給水塔から眺めた星空を思いだした。彼は過去に自分の目に映り、そしていま自分の目に映っている星の輝きを、そこに閉じこめられた過去と現在とを、セフィロスに見せたい願望が湧いた。それで相手を見ると、彼はもう自分を見ていた。そしてあの星の輝きと同じものを、自分のなかに探しているのがわかった。
 視線はクラウドの皮膚をつらぬき、内側へ入りこんで、なでまわした。自分のどこかあやふやな、不完全な記憶と人格とがことごとく消えさってゆくのを彼は感じ、水をくぐったように、あるいは火をくぐりぬけたように、古い自分が抜け落ち変容するのを、彼は感じた。
 長かった、という言葉に似た思いが、一瞬彼の頭をよぎり、かすめて消えていった。

 沈黙から目覚めたあと、ふたりがはじめて発したのは、互いの名前だった。クラウドはセフィロスに呼びかけ、セフィロスはクラウドに呼びかけた。そのときふたりを包んでいた沈黙の重たい覆いが破られ、張り裂けて、陰鬱な圧迫は消えさった。胎が開かれるように、光が、音が、さまざまな存在の気配が覆いの向こうから顔をあらわした。小さな四角い窓から、暖かな日差しが部屋のなかへ射しこんでいた。鳥が歌を歌っているのが聞こえた。
 クラウドはセフィロスに微笑みかけた。日差しが彼の白銀の髪に当たって、彼のまわりをあわく白い輝きで包んでいた。クラウドは相手の目にも、自分に当たる光の輝きが見えているだろうと感じた。セフィロスがそれに見とれているだろうとも。
 クラウドは跳ね起きて、扉を開け、春の気配のなかへまろぶように出ていった。冬の灰色の世界を超えて、大地は美しく装っていた。肌を刺すようだった冷たい空気は、いまや暖かく、やわらかく肌にじゃれついてきた。川が小気味よく遊ぶような音を立てて流れていた。白い蝶が飛んできた。鳥の羽ばたきが聞こえた。悠然と通りすぎる雲、虫の羽音、大地をうごめくものたちの気配。クラウドは胸いっぱいに空気を吸いこんだ。目を閉じ、自分の前にある世界を受け止めた。そして、やってきたセフィロスに云った。
「春だよ、セフィロス、いい季節だ」
「まったくだ、うるわしい季節だ」
 沈黙が続いていたなどとは思われないほど、会話は自然に出てきた。
「春になると、どうも頭がバカになる」
 セフィロスは首を振った。
「むやみに気分がよくなって、活動的になり、軽率になる。兵士をやっていたころは、春になるたびにびくびくしていた。自分の浮ついた気分のせいで、なにかとんでもない大ポカをやらかしそうな気がして」
「そうなの?」
 クラウドは目を丸くした。
「それ、はじめて聞いた」
「おまえに話していないことは、まだまだ山のようにある」
 セフィロスはクラウドを見て、柔らかく目を細めた。
「話そうとして忘れたり、やめたりしたことも。おれはおまえの感情は理解ができる。存在そのもののことも、その色や形のことも。だが考えだけは、云ってもらわないかぎり正確にはわからない。不安や怒りや喜びの中身、そしてそこに働く理屈については、語る必要がある。このまだるっこさ! だが結局、それがこの世の定めであって、おれたちはそれを選んだわけだ」
「おれたち? 選んだのはあんただろ?」
「ああ! そう思っていると思った」
 セフィロスは愉快そうに笑った。
「この話をすると長くなるし、おまえはきっと退屈する。まあそういうことにしておこう。いずれにしても、おれがおれの意志でここにいることは変わらない」
「なんかすっきりしない云い方するな」
「おまえが眠気を催さないで聞く気があるなら話すが……」
「いい。無理だよ、こんないい天気なのに」
 クラウドはそう云って、さらに春の美しさのなかへ出てゆき、存分に日差しを浴びた。そうしてふとセフィロスをふり返り、
「これからどうする?」
 セフィロスは考えこむ顔になった。少ししてから、微笑した。
「春を堪能する。自分の目で、耳で、手で、足で。五体があるとはすばらしい。一時は、二度とこうはなれないかと思ったが」
 その言葉が暗示する暗い側面に、クラウドは顔をしかめた。
「おれはおまえのことを考えていた」
 セフィロスは愉快そうな顔つきを変えずに、クラウドのほうへ向かって歩いてきた。
「最後の意識が消えさる瞬間まで、おれはおまえのことを考えていようと思っていた。そう決めていた。いつからだったかもう忘れたが」
 彼はやってきて、クラウドの真正面に立ち、顔をのぞきこんできた。あの印象的な瞳孔の目は、不思議な色合いを見せてゆらめいていた。
「おれはほんとうに、言葉を持たない存在になりかけた。肉体を持たない存在にもなりかけた。だが結局おれも、この存在以上の存在になるには欲深すぎ、気が短すぎた。身の丈に合わない試みをして、背伸びするものじゃない。そういうことをすると、ひどい仕返しをくらう」
 セフィロスは愉快そうに、満足げに笑った。
「おまえはどうしたい、クラウド」
 セフィロスはクラウドを見下ろして云った。クラウドは自分の望みを訊かれたことに、セフィロスが自分との約束を忘れていないことに、満足した。
「冬に不足してたぶんの日差しを浴びる。そうしないと、ビタミンなんだかが足りなくなるんだって。母さん云ってた」
 クラウドは云った。
「それから、どこでどうやって暮らすか考える。でもそんなのあとだ。この天気だもんな」
「まったくだ。この陽気、この陽光、こんな日にものを考えるやつはバカだ」
 セフィロスのその言葉が、クラウドにはなぜかたとえようもなくおかしかった。彼はけたたましい笑い声を上げ、あんたがそういうこと云うの変だ、と云って、笑い転げた。なぜかセフィロスは昔から、クラウド・ストライフをバカ笑いさせるという、誰にもできない芸当ができるのだ。そのこともクラウドは愉快だった。
「春だ」
 笑いが収まると、クラウドはそう叫んで、駆け出した。目的地もなく、向かう先も知らないまま、幼い子どものように、彼は駆け出した。セフィロスが愉快そうに自分を見つめているのを背後に感じながら、春のいかにも間延びした、暖かな日差しを感じながら。
 冬はもう終わり、まだしばらくは戻ってこない。