存在のにて

登場人物

セフィロス
智天使ケルブ

場所

暗闇。真っ暗でなにもない。
セフィロス、舞台右手に両手両足を拘束された形で、屹立した黒い岩のようなものの上にくくられている。あたりは暗闇のため、岩の形はほとんどわからない。セフィロス氏がただ拘束された姿で立っているようにも見える。

ひとりの智天使、おそるおそる舞台左手から登場。

智天使 (あたりをうかがうように左右を見回しながら独白)ああ、おそろしいところへ来てしまった。神の創造なさった世界にこのような場所があろうとは。ここにはいかなる光もない。ただ未来永劫閉ざされた暗闇があるばかりだ。ここではわたしの目は光を失って、ほとんど役に立たない。もしもわたしが、われら智天使の長、かの大天使様の命で来たのでなかったら、わたしの心はくじけ、この暗がりをこのように手探りで進むことさえままならなかったろう。ああ、ここはなんと凍えるように冷たく、恐ろしい暗がりなのだ! ここには名がない。あの悪魔どもの長、かの大魔王にさえ名があり、地獄という居場所が与えられたのだが、ここではそれすら禁じられている。この空間は名をもつことすら禁じられている……ここはつまり、存在しない場なのだ。存在が非存在へと転落する場なのだ。ここには真の無が、わたしがかつて見たことも聞いたこともない無がある……まったくの虚無……おお! (震える)


智天使、なおそろそろとおっかなびっくり歩き回り、セフィロスに気がつく。


智天使 おお、ありがたい! やっと探り当てた! ここにおいでになりましたか!
セフィロス (気だるげに)誰だ。
智天使 智天使のひとりです。われらが長、かの大天使様の命で参りました。
セフィロス 智天使になど用はない。かの神の栄光に包まれた大天使にも。(皮肉げに微笑む)
智天使 あなたのほうで用がなくとも、わたしどものほうではあるのです。
セフィロス どんな用だ。
智天使 いとも高貴なるお方。かの大天使様があなたさまに、機会を与えるとおっしゃるのです。ここから出ることのできる、最初で最後の好機をです。これを逃せば、もう二度とこの地獄の底よりなお深い虚無……神よわたしに勇気を与えたまえ! 神の栄光からもっとも隔てられた、この耐えがたい名もなき監獄から逃れるすべはありません……おそろしいことです、存在が名を剥奪され、名もなき場所へと追いやられるなど。あなたさまのしたことは、なるほど一種の反逆には違いないにしろ。
セフィロス なるほどこの牢獄は、そしてここにつながれているこの状況は、おれの行為の当然の結果に違いない。誰にも救ってほしいと頼んだ覚えはないが。
智天使 (悲しげに顔をゆがめて)どうかそのようなことをおっしゃいますな。大天使様はあなたさまにいたく同情しておいでで……
セフィロス (嘲笑して)大天使とはずいぶんお人好しな人種だな。同情などけっこうだと云われるとは思わなかったのか?
智天使 わたしには大天使様のお考えはわかりません。わたしにわかっているのは、あの方はあなたさまをここから救い出したいと思っているということ、そしてそのための伝令としてわたしを選んだということです。
セフィロス (智天使をまじまじと見つめながら)話を続けてくれ、智天使よ、なんじの務めを果たせ。
智天使 わたしに与えられた使命はこのようなものです。わたしはあなたさまに、かの大天使様よりことづかったある計画をお伝えし、あなたさまがそれに同意してくだされば、わたしはいま、この場で、あなたさまをここから連れ出すことができるのです。その縛めを解く術は、大天使様からうかがって、すっかり承知しております。
セフィロス (物憂げに)大天使はどんな計略を用意したのだ?
智天使 いとも高貴なる方! こうなのです。大天使様は、あなたさまが同意してくださるなら、自分が懲罰の天使たちにかけあい、とりなすことができるとおっしゃっています。懲罰の天使たち、あの地獄の大魔王でさえもおそれをなす、激しい怒りに満ちた天使たちは、まもなくあなたを裁くために出発します。最前、懲罰の天使たちに裁きを実行せよとの号令が下るのをわたしも聞きました。いましばらくは、われらの長、かの大天使様が彼らを押しとどめてくださるでしょう。しかしあまり時間がないのです。
セフィロス (なお物憂げに)懲罰の天使たちか。あの連中のことはよく知っている。連中にかけあうなら、大天使よりおれのほうがまだ似つかわしいように思うのだが。
智天使 (悲しげに)どうかご自身をあまり貶めるようなことをおっしゃってくださいますな! そういった自虐にふさわしい方ではありますまいに。わたしは大天使様がなにをお考えなのかはわかりませんが、あの方のお気持ちはわかるのです。あの方は、ほんとうにあなたさまに深く心を寄せておいでなのです。そしてわたしにはそのお気持ちがわかるのです。
セフィロス おれはあの大天使になにかしてやった覚えはないが。むしろ煩わせたといったほうが正しいだろう。正しく敬虔な、聖なる神の叡智に満ちあふれたかの大天使殿を。
智天使 なるほど大天使様はわれら智天使の長、神の叡智をその身に帯びたお方です。しかしあの方は神そのものではありません。神の知のなかには、あの方にもわからないことが多くあるのです。あの大魔王に起きた出来事を、あなたさまもご存じでしょう。それがかつて、かの大天使様の尊い、たったひとりの親友であったことも。その親友は、大天使様もあずかり知らぬ神の知恵を、誰よりも多く知っておりましたが。
セフィロス そのことなら知っている。おれはあの大魔王に声をかけられた。無視したが。
智天使 そのことは、われら智天使一同、存じ上げております。大天使様もよくご存じです。それだから、大天使様はあなたさまに対して救出の願望と、ある種の希望とを見出しておられるのです……高貴なる方! あなたさまはあの大魔王とは違います。わたしにははじめ同じであるかに見えましたが、その考えはもう捨てました。
セフィロス はて、なにが違うというのだろう。反逆者、ないし神にとって代わろうと企むもの、という意味ではほとんど同じなのだが。少なくとも、きみたち天の軍勢にはそう映るだろうよ。
智天使 おっしゃるとおり、われらはそう見なしておりました。そして、かの天を降った反逆者たちに続く者がまたひとり現れたのだと思いました。が、あなたさまはあの大魔王に与しておりません。ご自身で関与することを否定なさいました。ということは、あなたさまはあの大魔王の一派とは違うのです。それとはまた別のもの、また別の目的をもったものということになります。
セフィロス (皮肉げに)よくおわかりで。
智天使 そのあなたさまの目的というのが問題なのでした……わたしにはよくわかりませんでした。わたしのみならず、ほかの智天使たちにとってもそうでした。あなたさまの行動は謎めいており、悪を為そうとするのでも、世界を神に背くものに仕立て上げようというのでもないのです。たしかに、あなたさまもあの大魔王同様に、かの地上になにかしらの支配権を確立したがっているように見えました。あなたさまは神になりかわろうと画策しておられました。いわずもがなですが、これは大罪です……しかしあなたからは、地獄の軍勢どもがもれなく持ちあわせているあの悪意が、あの底知れぬ憎しみが、あの陰惨な暗い気配がありませんでした。わたしども智天使は首をかしげておりました。しかしかの大天使様は違いました。大天使様は、あなたさまの目的をご存じでした。あの方はこうおっしゃったのです。あの男は神の創造の秘密を探っている、否、それどころか知っているのだ、それはあの男の名に刻印されているのだ、と。
セフィロス (微笑む)
智天使 神が創造の秘密をあの男に打ち明けたとでもいうのですか、とわれらのひとりが大天使様に問いかけました。大天使様はそれに直接お答えにはなりませんでしたが、ただ、彼がいかなる名を持つものであるか考えてみよとおっしゃったのでした。そして名は力であると云いそえたのでした。わたしはこの意味を考えました……そしてわかったように思ったのですが、そのとき、わたしは大天使様に呼ばれまして、あなたさまを救出しに向かうようにという、この命令を授かったというわけなのです。
セフィロス なるほど。(おどけて)ようこそ、この存在の淵へ。存在が非存在へと転落してゆく奈落の底へ。このとおり縛られているのでもてなすことはできないが。しかしここはなかなか愉快な監獄なのだ。
智天使 (悲痛そうな顔で)その縛めを早く解かせていただきとうございます。こう申してはなんですが、そのような仕打ちは御身にふさわしくないかと。
セフィロス おれにふさわしい仕打ちもないが、ふさわしくない仕打ちもない。このありさまは、これはこれでなかなか快適なのだ。瞑想と思索にはもってこいの状態と云える。(微笑む)
智天使 そう皮肉をおっしゃらないで! ことは深刻なのです。あなたさまがお考えになる以上に。どうかわたしにその縛めを解かせてくださいませ。懲罰の天使たちが行動を開始したら、あなたさまはおしまいです。
セフィロス おれを終わらせられるものなどない。神の創造したもののなかには。
智天使 おそらくそうなのでしょう、偉大な力を持つ方よ。ですが、あなたが創造したものならどうです。
セフィロス どういう意味だ。
智天使 わたしは懲罰の天使たちが、あなたをどのように裁き、いかなる罰を与えるのか、話し合っているのを聞きました。それによれば懲罰の天使たちは……神よわたしにおののきに耐える力を与えたまえ! あなたさまには手を下さないのです。
セフィロス ……それで?
智天使 あなたさまには手を下さないのですが、そのかわり、あなたさまの創造したものに懲罰を加えるというのです。あなたさまへの罰として、それを滅ぼすというのです。
セフィロス (顔色を変えて)なんと云った?
智天使 (震えながら)お許しください。懲罰の天使たちの考えは、かの大魔王ですら及びもつかないほど峻烈で残酷なものです。その罰は苛烈で過酷を極めます……それはまさしく神の怒りと裁きなのです。それはこの世のなによりも酷烈なのです。
セフィロス (宙を凝視して)あれを滅ぼす! 連中はそう計画しているのか?
智天使 はい。それが、あなたさまの一連の反逆行為に対するあなたさまへの罰なのです。
セフィロス そんなことは不可能だ。それはおれの権利だ。おれのほか、いかなるものもその権利も権限も持ってはいない。いるはずがない。たとえ懲罰の天使たちだろうと。あれを創ったのはおれなのだ。
智天使 しかし神は例外です。そして懲罰の天使たちは神の意志によって、神の力によって動くのです。
セフィロス ではそれは決定事項なのか? あれを滅ぼすというのか? あれに罪はない!
智天使 (雄々しく顔を上げて)はい。ですから、どうかお急ぎください。大天使様のお心遣いを無にしてはなりません。時が迫っているのです。どうかわたしに、その縛めを解けと命じてください。縛めを解いて、ここから連れ出せと。
セフィロス (怒りに満ちて、腹の底から)そう来るとは思わなかった。そこまでするとは。神の正義とやらも地に墜ちたな。それ自身なんの罪もない、無関係のものを巻きこむなど。
智天使 (困惑した顔で)わたしには、そのご意見に同意することは許されておりません。それは冒涜に当たりますゆえ。ただ心から、おいたわしく思います。あなたさまというより、あなたさまの創造されたあの……
セフィロス あの子のことか? あれを知っているか? 見たことがあるか? そばへ行ってみたことがあるか。情け深い智天使よ、きみにはわかるまい。神の創造の日、おれは力に満ちていた。おれが最初に欲したことは、その力を行使することだった。おれはそれを行使した。そしておのれのために、おのれの存在のために、あの存在を呼び出したのだ。おれは呼び出すだけでよかった。創造の秘密は神の言葉のなかにある。きみたちもそれは知っているだろうが、しかしその秘密は神だけのものであり、同時におれのものなのだ。
智天使 存じております。その秘密はあなたさまの名のなかに秘められ、縫いこめられているのです。あなたさまはその秘密を所有しておられる。そして結局のところ、あなたさまはその秘密を解き明かすためにすべてを為したのでした。ご自身が所有しているものを知るために。おのれに刻印されたものをつきとめるために。それが人間の生き方なのでしょう。われわれ天使はそのような生き方をしません。神はわれわれには秘密を与えません。その身に刻印された秘密などはわれわれには無縁なのです……お急ぎください、いとも栄えある力の秘密を知る方よ、あなたさまの滅びが迫っているのです。
セフィロス おれの創造したものに手を出せるのはおれだけだ。その権利を他人におめおめ渡しはしない。
智天使 いったい、神以外のいかなるものが、かつて真の創造をなしえたでしょうか。あなたさまはその秘密を知っておられる。そしてあの方を生んだのです。ご自身の魂を分けあたえたのです。お急ぎください、ご命令を!
セフィロス 神がおれを滅ぼすことは許そう。おれを存在から非存在へと、名を剥奪されたものへと堕とすことは許そう。ちょうどいまおれがこうしてここにいるようにだ。だがあの子は違う。あれは存在したままでいなければならない。あれはおれが光のなかへ送り出したものだ。おれが光を与え、存在へと送り出したもの。おれはそれを思い出すためだけに生き、このばかげた状況を受け入れた。それは当然おれにふさわしいものだ、おれの行動の結果なのだから。だがあれは無関係だ、おれの思惑とはなんの関係もない。あれは生きているのだ。おれが呼び出したとき、あれは生きはじめた。おれがその輪郭を与えたとき……(うつむき、耐えるような顔つき。そしてまた顔を上げて)あれを滅ぼすことは許さん。
智天使 ご命令を!
セフィロス (決然と)いや、きみたちの助けを借りようとは思わない。わからないか? おれが納得してここにいたのだということを。この状況を、おれは甘んじて受け入れていた。いまのところ、この状況はおれにふさわしく、ここはおれにふさわしい場所だと思っていたからだ。おれは自分の行動の結果は甘受する。それが正しく人間の行動に対する審判なら。その意味で、おれは神なる摂理を信頼してさえいるのだ。だがいまやその判決は度を超えた。ふさわしい結果と受け入れた以上の罰を要求するというのなら、そんな判決は無効ではないか。度を超したのは向こうだ。掟破りを犯したのは……智天使君、そこをどけ、怪我をしたくなければ。
智天使 なにをなさるおつもりで……うわあ!(身をかがめて伏せる)


爆発と地響き、あたりは目もくらむような光に包まれる。
光が消えると、セフィロス、拘束を解かれた姿で立っている。


智天使 (おそるおそる頭を覆っていた手をのけて顔を上げ、驚いて)おお、あの方はご自分で縛めを解いてしまわれた!
セフィロス (手を握ったり開いたりして)ふむ、体が動くというのは爽快な経験なのだな。(智天使を見やって)きみの名は?
智天使 ここでは名は禁じられたものだとうかがいました。ここへ来る前、かの大天使様は、この場所へ足を踏み入れたならば、いかなる名も決して口にしてはならぬとかたく戒められたのです。この存在の淵において唱えられた名は、たちまち非存在に転落し、消滅してしまうのだと……。(震え上がる)
セフィロス (微笑んで)きみはこの場の気配が変わったことに気づかないか?
智天使 (あたりを見回し)そういえば、どうもこの場から独特の重苦しさが消え去ったような……。
セフィロス 監獄が収監された者を失えば、監獄の機能は失われるさ。
智天使 ではもうここは存在の淵ではないので?
セフィロス いや、相変わらずそうだろう。ここが存在と非存在の境目であることに変わりはない。だがおれはもはや縛られた囚人ではなく、しかも非存在を存在へと呼び出すすべを知っているのだ。
智天使 では、もう名を唱えても安全でしょうか。
セフィロス そう不安なら、試しにおれの名でも叫んでみるがいい。
智天使 いえ、やめておきます。あなたさまには悪意が感じられず、疑ういわれはありませんから。ご自身で、天の軍勢によってたかってかけられた縛めを解くことのできるようなお方であれば、なおのこと。わたしの名はカリブです。
セフィロス 古い、由緒ある名だ。そしてその意味はきみにふさわしい。きみは命令を欲していたが、その欲しがっていたものを与えよう。かの大天使のところへ戻り、おれには助けなどいらぬと伝えてくれ。手出しは無用だとな。懲罰の天使だろうが天の軍勢だろうが、おれを拘束し滅ぼすことはできても、あの子を滅ぼすことなど許されない。神にさえもだ。それは越権行為に当たる。あれはおれの創造したもの、真実におれのものだ。誰にも手出しはさせない。おれはあくまで思ったことを率直に行動に移す。それ以外の他意はない。そちらから与えてよこさない限りは。それをよく覚えておけと伝えてくれ……行け。


智天使、一礼して飛び去る。


セフィロス (天使を見送り、ひとり微笑んで)さて、愉快なことになってきた。懲罰の天使とやらも考えなしなことをしてくれる。おれは断じて怒りによって行動したことなどなかったのだが、この上さらに怒りを加えればどういうことになるか、想像してみなかったのだろうか。目にもの見せてやるなどとは野蛮な言葉だが、向こうが野蛮なのだから致し方ない。あの子に手は出させない……ああ、おれはあの存在が恋しい。たとえ自分が存在しないものとなっても、あの存在だけは! あれはおれのものなのだ。(悠々と歩いて退場)

あとがき