大人に不信感を抱いている子どもは

 大人に不信感を抱いている子どもは、自分に愛情を示してくれる相手を徹底的に試すものだ。また裏切られるのが怖いから。誰かを信頼することは、とても勇気を必要とすることだから。だから、その全身全霊の勇気に値する人間であるかどうかを、執拗に試すのだ。クラウドが昔ひとづきあいを避けてきた理由と同じことだ。結局は、同じ問題に戻るのだ。期待をしなければ、裏切られることもないということ。友だちがいなければ、友だちがいなくなったといって泣かなくてもいい。誰しも、心の痛みは嫌なものだから。それを再び繰り返すくらいなら、無感動な人間になったほうがましであり、厭世家にでもなったほうがましだ、というひとのことを、誰も笑うことはできない。なぜなら、そのひとは少なくともかつて一度は、幸福の中に暮らしたことがあるのだから。それを失った者に対して、ふたたびその場所を目指すように説得できるのは、ほんとうのところ、自分自身の気持ちだけだ。
 それでクラウドは、のこのこ戻ってきたセフィロスをおそろしく疑り深い人間の執拗さで試している。彼はこの男に肉体も精神もとことん傷つけられたので、これ以上ないというほどに男のことを疑っている。こんな男のことだから、またそのうちどこかへいなくなるか、勝手に死ぬかもしれない。それで打撃を被るのはいやだった。それは大人気ない思考回路であり、子どもらしさの手垢にまみれているけれど、この男の前で自分の意志を通すには、子どものようになるしかない。なぜならそれは唯一、この男が持ち得ない属性だから。唯一この男を、困らせることができる領域だから。
 クラウドはもう三日、男と口をきいていない。クラウドが黙っているものだから、男も貝のように押し黙っている。ときどき……というよりも終始……こちらの様子をうかがっていることがわかるけれど、気がつかないふりをする。彼は無言の指令を出しているのだ。自分が話しかける気になるまで、いっさいこちらに関係してこないこと。もしも男が何ヶ月も、あるいは何年も、自分の云うとおりにできたら、そのときはあらためて、信頼するかもしれない。絶対に裏切らない人間として、以前のように。ほんの数年前の過去は、クラウドの中で奇妙な重みを持っている。あのころは、セフィロスは絶対だった。もちろん、足蹴にもできるしののしることもできたのだけれど、それでも彼はなにか根源のところで絶対だった。クラウドは彼に大きななにかを、あけわたしていたから。それも生まれてはじめて。しかも過剰なほどに。そして相手だって同じだけ、なにかをこちらに投げてくれていると思っていたのに、それはあっけなく崩れた。おそらくは生まれてはじめての、あけっぴろげの、文句ない全幅の信頼を、真正面から斬りつけられたことのするどい痛み。クラウドにとっては、それ以上に重要なことは、もしかしたらなかったのかもしれない。十六歳のあの日からこっち、それよりも重要な、重大な喪失は。もしかすると母親のことよりも。なぜなら母親は、子どもを愛してくれるものと相場が決まっているし、事実愛してくれたのだ。それはとりたてて特別なことではない。けれども、セフィロスの場合には。
 だから彼は、簡単には男を許さない。たとえまだ、男を愛していたとしても。否、愛しているがゆえに。愛のゆえに、彼は男に自分の傷の大きさをわからせようとする。それこそ全身で。自分の傷で相手を呪ってしまう。ばかばかしい行為だ。くだらない愛し方だ。でもそれ以外に、方法がない。クラウドはそれ以外に、この男に自分の痛みの途方もなさを訴えるすべを知らない。痛くてたまらないことを、相手を痛めつけることによってしか示せない。ほんとうに、ばかばかしいことなのだけれど。
 クラウドは彼に話しかけない。視線すらくれてやらない。それでも、セフィロスは黙って待っている。ひたすら待っているのがわかる。クラウドが受けた痛みを、自分の身で味わいつくすのを。何年続けても、きっと男は足りないと云うだろう。自分がしたことの重さを、一番よくわかっているのは、ひょっとしたらセフィロスかもしれないから。クラウドはぶらぶらしながら、具合のいい田舎を探していた。誰もやってこないところ。雪の降る田舎。景色の美しい、心が落ち着くところ。星が綺麗に見える場所。故郷の給水塔の上のように、空が近くに感じられるところを。
 終始無言の旅が続く。クラウドは一年しゃべらなくてもたぶん発狂しない資質の持ち主だし、セフィロスもおそらくはそうだ。静かな行進は、出発から長くなるにつれて重苦しくなっていた。クラウドは自分の身体に、鎖がずっと絡まり続けているような感覚に陥った。彼は疲れていた。こんな旅に。そしてこんな仕返しの仕方に。でもどうしたらいいのかわからない。いまさらこの男に、どんなふうに接したらいいのかわからない。過去はもうすでにすぎてしまった。あのころには、戻れないのだ。どうあっても。まったく元通りになるには、あまりにも多くのことが、起こりすぎた。けれども一からはじめてのように、というわけにはいかないのだ。過去から連綿と続いている感情が、邪魔をするから。つまり、どうあってもこの男を好きだということ。
 アイシクルエリアの森の中に、使われていない猟師の小屋を見つけた。こぢんまりしていて、なんとなく雰囲気がよかったから、クラウドはとりあえずそこに寝泊まりすることにしてみた。小屋の中にはまるまる一本の木から取ったらしい分厚いごつごつしたテーブルがあった。椅子が二脚ある。クラウドはそのうちのひとつに座って、ぼんやりとあたりを眺めた。たぶん何年も使われていないのだろう小屋の中にはほこりがたまっていて、ベッドはシーツもなにもなくマットがむき出し、枕もないし、毛布もない。どうしようかな、と思いながら、ふとセフィロスの気配を探ると、玄関で棒立ちになったままだ。根が生えた大木のように動かない。命令がなければ、彼は指先一本すら動かさないつもりなのだろう。ばかじゃないか、と思う。なぜそんな思いをしてまでついてくるのか? 単なる罪滅し。その可能性は、否定できない。それとも、もっと別の理由か……そうだったら、すこしは救いがあるのだけれど。
「……座れよ」
 久しぶりに声を出した。セフィロスが身じろいだ。
「座れってば」
 いらいらしたように云うと、相手は素直に従った。クラウドは鼻を鳴らした。そうして正面に座った男を、頬杖をついて眺めた。相変わらず整った顔だった。腹が立つほどだ。唇は無表情に閉じられている。緑色の目は、どんな感情もたたえていないように見える。
「いま、なに考えてる?」
 彼は訊ねた。我ながら答えるのが難しい質問だなと思いながら。
「……なにも」
 セフィロスもおそらく、相当久しぶりに声を発した。
「あんたが、なにも考えてないって?」
 クラウドは鼻で笑った。
「うそだな」
 セフィロスはなにかまぶしいものでもあるかのようにゆっくりと目を伏せた。
「考えてもいいという許可をもらうまで、なにも考えないでいるつもりだ」
 そのひとことが、クラウドにはなぜかとても痛かったのだ。そして彼は、猛烈に腹が立った。
「あんた、ばかかよ。おとなしく死んでればよかったんだよ、あんたの顔なんか、見たくないのにさ」
「……死ねと云われれば死ぬが」
 クラウドはテーブルの脚を蹴りつけた。テーブルの重さゆえに重苦しく、けれどもするどい響きを持った音が、あたりに響いた。セフィロスは眉毛ひとつ動かさなかった。クラウドは怒りのために震えていた。
「じゃあいますぐ死ねばいいんだ。昔から何百回も死ねばいいって思ってた。刺したって死なないのわかってたから、刺せもしなかったけど、いまならたぶん、おれが刺したら死ぬんだろうな。いい気味だなって思うよ。おれいつからSになったのかな。あんたが何百回生き返っても、毎回刺し殺したいよ。おれが死んだって、お化けになって刺し殺したいよ。めためたになって、鳥にでも食われたらいいんだ、あんたなんか。おれすごく傷ついた。あんたも傷ついたって云われても、絶対その百万倍傷ついた。治んないよ、あんたがいたってさ。余計悪いよ。なんでおとなしく死んでないんだよ。余計なことすんなよ。むかつくんだよ」
 途中から、彼は泣いていた。大粒の涙が、ぼたぼたと彼の腿や、床に落ちた。彼は盛大に鼻をすすった。涙は、ぬぐわなかった。だからますます涙の粒は大きくなって、勢いを増し、落ちていった。彼は暴れたかった。なにかをめちゃくちゃに壊してしまいたかった。たぶん、目の前の男をだ。そう望めば、おそらくそれは叶えられるのだ。その身が塵になるまで、破壊することを許してくれるだろう。責任を自覚しているはずだからだ。
 クラウドは涙を拭わなかった。男の手が、それをしてくれることを信じて。昔のように、撫でてくれることを信じて。それはあまりにも都合のいい夢だった、けれどもそんなことでも望んでいなくては、クラウドはほんとうに男を粉々にしてしまいそうだった。セフィロスが身じろいだ。手を伸ばそうとして、ためらっている。自分にその資格があるかどうかを、考えている。ほんとうはない。この涙を拭う資格などないし、触れる資格すらない。けれどもこの傷は、それをつけた本人しか挽回できないものだから。そんなことを、クラウドはほんとうは、ずっと前にわかっていた。
 クラウドはテーブルを乗り越えて、男に飛びついた。一瞬の間ののち、ゆるぎない腕がやってきて、彼の身体を抱きとめた。頭をなでられる。まるっきり、昔のようにだ。クラウドは男の肩に頬を押しつけて、泣いた。数年ぶんの涙を、全部流した。数年ぶんの痛みを、怒りを、全部解き放つようにして。
「……おまえの気が済むなら、おれは自分をくびり殺すのでも、豚に食わせるのでも、なんでもする」
 クラウドは相手の身体にますますしがみついた。
「やだよ。死んじゃやだよ。おれがいいって云うまでやだよ」
 クラウドは駄々っ子のように叫んだ。
「……わかった」
 セフィロスは重々しくうなずいた。
「許可がなければ死なない」
 それはことば上の約束に過ぎなかったが、クラウドを限りなく安堵させた。昔から、この男は自分の云ったことは守る男だったから。
「……悪かった」
 それは心からの謝罪だった。彼の口調から、トーンから、そして抱きしめる腕の感じから、それはあきらかなことだった。そしてそれはまた、もうひとつの事実をあかししていた。つまり、彼に、罪の意識からだけでない誠意が、愛情を注ぐ相手にのみ向けられる誠意が、あるということ。クラウドはぐずりながら、それを受け入れた。セフィロスの背中に腕を回して子どものようにしがみつきながら、彼はいろいろなものの氷解を、感じていた。あの日からずっと止まっていた感情が、動き出したことを。自分だけでなく、相手の中でも。