地上の楽園を探そうと云いだしたのは

 地上の楽園を探そうと云いだしたのはクラウドだ。雪深い閉塞的な土地を抜けて、どこか開放的なところへ移住しようと。年中太陽が降り注ぐ。そして暑くなく、寒くない。絶対にあるはずだ。楽園は、この地上に必ず。なぜなら、自分たちの中にもうすでに楽園があるからだ、とクラウドは云った。だから正確に云えば、もっと景色が明るくて、きれいなところに住みたい。そして、もっと長い時間大地とふれあえるところがいい。
 セフィロスはそれに特に云うことがなかった。どうせ先は長いのだ。クラウドの云う理想の楽園とやらを、探してみるのも悪くない。とりあえず南だ、とクラウドは云った。ここよりも南。それできっと、西がいいと思う。南、あるいは西という方角には、なにかしらとても心引かれる雰囲気がある。ことばに内包されるイメージ。それはあるときは、真実よりも重要なのだ。ことばの持つ響き、ことばの持つ意味。愛しているということばを、愛しているという事実よりも好む人間がたくさんいるように(そして実際、多くの人間はほんとうに愛するということがどんなことか、そしてそれがどんな恍惚をはらんでいるかを知らない、人間は、行動することについて、おそろしいほど力を失ってしまったから)、実際そこがどうなっているかを知るより、そこに行くことのほうが大切な場合がある。
 ふたりはひと冬無断で世話になった小さな猟師小屋をたたんだ。春先になっていた。クラウドはまだところどころで薄く大地を覆っている雪の上に転がり出た。そうしてずんずん歩いた。歩く! 運動の基本だ。これがいかに精神を巧みに解放するか、人間はもっと知るべきだ。セフィロスはクラウドの横に並んだ。毛変わりのはじまっているうさぎが森の奥であわてて跳ねているのが見えた。あちこちに、緑が芽吹いている。生命の吹き荒れる春。みごとな大地の営み。必ず引き継がれる命。すべては循環する。クラウドは機嫌がいい。彼は変化が好きだ。それを引き起こしたくて、ときどき家出する。セフィロスはよく知っている。クラウドは追いかけられたいし、自分の気まぐれをあらわにしたい。自分の存在をいつも示したい。それは常に甘ったるい前戯の延長上にある。クラウドは奔放な自分が好きだし、セフィロスはそれにつられて追い立てられる自分が好きだ。この地上にふたりでいる限り、結局のところ、なんでも悪戯と笑い話になってしまう。

 いくつ目だったかの森を抜ける直前に、狼の死体を見た。季節は春から夏に変わろうとしていた。あたりの木々が、花が、そして生き物たちが、ぎらついた生命の強烈なにおいを放ちはじめている。それはついさっきか、遅くとも昨日の終わりあたりに死んだような、まだ生前の鮮明な印象を残した死体だった。ほかの動物に荒らされていないから、ほんとうに死んだばかりだったのだろう。おそらく、だいぶ歳をとった個体だった。若いころ見事だったに違いない灰色の毛並み。クラウドは興味津々に近づいていって、そいつをなでた。鼻先をつかんで持ち上げ、口を開いて牙を見た。目はすでに光を失ってよどんでいる。
 クラウドはその狼の前足を持って、いっしょに立ち上がった。狼の力ない身体がクラウドの動きにあわせてぐっと伸びて、まるでいっしょに手を握りあってダンスを踊っているみたいだった。実際クラウドは、そのままぐるぐるすこし回った。狼のしっぽが力なくわずかに揺れた。ほどなく彼は興味を失って、死体を元通りに地面に倒した。
 このとき、なぜ強烈な倒錯を……そしてひどい快感を……感じていたのかセフィロスにはわからない。わからないけれども、セフィロスは死体をいじりまわすクラウドに確かに、なにか耐えがたいほど欲情していた。正確には、死体に興味を持ち、調べ、そうして急速に興味を失ったクラウドにたいして。彼のその耐えがたいほど気まぐれな気質について。
 自分のところに戻ってきたクラウドに、その首にセフィロスは噛みついた。クラウドは笑った。死体はね、確かにね、ちょっと妙な気分になるよ、とクラウドは云った。死体と寝たいとは思わないけど、どうして死体を目の前にしたときに性欲出るんだと思う? 自分もいつか死ぬんだぞって思うから? だからその前に、子孫を残そうって本能が思うのかな?
 うるさがたの唇を、セフィロスはふさいだ。クラウドが微笑する。性欲の兆しを、彼も感じていたのはほんとうらしかった。しがみついてきたから。セフィロスはたぶん、とてもうれしかった。でも彼はすこし常識人だったから、こんな明るい森の中で、このままするのはどうなのかと思った。唇を離すと、クラウドのそれは名残惜しげに最後の最後までくっついていた。
「いいんだよ、人間も動物なんだよ。どこでやりまくっても許されるよ」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だろ。犠牲にするのは、あんたの服ね。おれのじゃなくて」
 そうして嬉々として服を脱がされはじめると、対抗するすべは、もうない。その程度のことなのだ。結局、常識なんてものは。
 肉体の解放。どこか澱んだような光を木々のあいだでただよわせる森の中と、むき出しの行為とが、不思議に調和している。どこか儀式めいている。与えられる快楽に顔を歪めるクラウドの、揺れる金髪を、そこに反射される光を、美しいと思う。とても静かなセックスというものがあるものだ。お互いに快楽に身を委ねているが、その実意識のとても深い階層に降りていっているような、そんな感覚のあるもの。我を忘れてわめきたてる場合とはなにかが異なるもの。それはたぶん、ふたりの横にある狼の死体のせいだったかもしれない。死の前に、ひとは厳粛な気持ちになったりする。クラウドはぜんぜんならないが、ならないなりに、なにかを感じている。普通の人間とは違う感度で。忍び寄る死の、その影。絶頂は確かに、死に近づくなにかだ。解放。解放は究極には、死のことなのだ。そしてセックスは肉体の解放だ。セックスの快楽は、誰かに首を絞められるような、あの強烈さに似ている。クラウドは耐え難い拡散だという。ばらばらになる気がすると云う。
 死体の横でするのは確かにとても背徳的だった。生命のない狼の目が、じっとどこか一点を捉えている。セフィロスはクラウドのむき出しの首を舌でなぞりながら視線をちょっと狼に注ぐ。いま身体の中にある快楽。その熱。そうしたものを失った抜け殻。セフィロスは自分が生きているのを実感する。自分の下にある身体も生きているのを感じる。その熱い体内の熱を、とても深く感じられる。ふいに感慨にとらわれて、セフィロスはため息をつく。彼は戻ってきたのだと思った。ほんとうにこの地上に、いるのだと思った。自分の片割れとともに。
 意図的に締めつけられて、セフィロスの感慨は存外早く破られた。クラウドが薄目を開けて見ていた。穏やかに笑っている。彼はなかなかこんな顔では笑わない。腕が伸びてきて、髪の毛を、そして頬をなでられる。両腕で抱きつかれる。クラウドの内側がある意図を持って、ゆるく収縮を繰り返す。頬をなでるような、肩をなでるような、そういう愛撫とおなじ。自分の身体で、相手を愛おしむこと。セフィロスはそれを、その心地よい感触を味わう。静かだ。愛おしさの中に、快楽すらも沈黙する。ふたつの身体がたしかにここにあり、ある感情をともなって、ひとつになる。
 静かな行為は、どこまでも静かだ。セフィロスは自分が収まっている場所の感触を、熱さを、そしてそこから派生して自分にやってくる快楽を、それがまた相手にも快楽をもたらすことを、静かに味わう。それを繰り返す。飽きずに。クラウドはもともとわめきちらすほうではないけれども、彼もまた今日はいつもより静かだった。唇を噛み締めて、鼻に抜けるような短い声をもらすばかりだ。唇を噛むとき、クラウドはほんとうに味わっている。自分の中に生まれる快楽。相手にも、生じているだろう快楽。彼はたぶん両方を、感じている。その身体が短く痙攣して、そうして弛緩する。その中もまた同じ。先ほどそうしていたのとは違って、無意識に、無自覚に、幾度か収縮を繰り返す。セフィロスはそれが好きだ。こちらの快楽を誘い出すようなその動き。……あんたもされてみればわかると思うけど。とクラウドがいつだか云った。出されるの、結構気持ちいいよ。けれどもセフィロスは、出すほうがいいと思う。その空間には精液なんてものはただの異物であって、なにも根づかないし、神秘的な生命活動が起こりもしないけれども。クラウドに誘われるままに、彼は解放する、彼もまた弛緩する。クラウドは自分の中で起こっている変化に、追加でちょっと鼻を鳴らすみたい声を出す。解放感。呼吸を整えて、余韻に浸る時間。クラウドがぼんやりした目で、狼の死骸を見ている。
「死体の横で、は楽しかったか」
 首が振られる。
「どっちかっていうと、勝利感に酔ってる」
「勝利感?」
「うん。おれ、生きてるから。あんたもね。もしかしたら世界が寄ってたかって、あんたとかおれのこと殺す気だったのかもしれないけど」
 でも生きてる。おれなんかいまはじめてこんなにまともに感激したかも。あんたが生きてること。
 ……対蹠。対比だ。それがなければ、たぶん人間はほとんどのものごとを、正しく理解できない。晴天と雨天。絶頂とどん底。正気と狂気。愛情と憎悪。光と闇。すべては、両極から成り立っている。片方があるから、もう片方が存在する。ほんとうはどちらもおなじ力であり、どちらが欠けても、世界はバランスを失う。そのあやういバランス。ふたりとも、両方にふりきれた経験を持っている。人生の最高から最低まで、たいていのことは体験した気がしている。お互いに死んだし、生きている……これはすごいことだ。憎んだし、愛している。これもまたほんとうにすごいこと。
 ふたりとも、感激への陶酔で、黙って抱き合った。死骸の横で。お互いの熱を感じて。

 気まぐれにはじめた楽園探しは、なかなか終わりがきそうにない。クラウドが寄り道ばかりするからだ。ちょっと眺めのいい丘とか、ほんのちょっと景色のいいところを見つけると、クラウドはすぐにそこに住みたがる。そうしてすぐに飽きる。ここじゃないよ、セフィロス。セフィロスは正直、どこでもいい。景色が綺麗なほうがいいし、できればまた小さな畑や花壇を作りたいけれども、それはどこでだってできることだ。生命力あふれる大地さえあれば。クラウドは最近、島もいいかもと云いはじめている。でもそこまで手を回すのは、まだ早いのじゃないかとセフィロスは思っている。世界を隅から隅まで歩くのだって、だいぶ時間がかかるし、第一クラウドの云う楽園ははなはだ曖昧で、とらえどころがない。可能性を全部あたってみるという意味で、たぶん世界中を歩きまわらなければならないだろう。ただでさえクラウドは飽き性だから。ひとつのところにいられない。ひとりの男のところにとどまっているのは驚異的だが、だからこれは自慢してもいいことだ。自信を持ってもいいことだ。愛されていること。クラウドに、そして世界に。愛されて、生きていること。
 ほんとうはどこだって楽園だ。ふたりでいれば。クラウドはそのうち必ず些細なことを理由に家出して、楽しませてくれる。もうあんたなんかとぜったい仲直りしない。そのぜったいは、ぜったいに訪れない。永久追放されている。そんな剣呑なことばは。セフィロスは微笑む。生きていることは、ほんとうに美しいし、楽しい。この地上に、生を受けてほんとうにありがたいと思っている。そうして、どこにいてもそこが楽園に違いないと思わせてくれる相手がいること。だからほんとうは、楽園探しなんて、最初からしなくてもいいのだ。