唇が、どうしようもなく

 唇が、どうしようもなく乾いていた。ほんとうのことを云えば、クラウドはたぶん、いますぐに全部投げ出して、わあわあ叫びながらどこかへ失踪してしまいたかった。そういうのは好きだ。そういうろくでもないことが平気でできるのが好きだ。
 真夜中で、みんなも、それに世界も、寝静まっていた。誰にも気づかれずに泊まっている宿から外へ出るのにはちょっとした工夫が必要だ。ガスみたいに気配もなく移動しなくちゃならない。クラウドはすごく慎重にベッドから出て、それ以上に慎重に、ドアを開けて外へ出た。とたんにほっとした。なぜかというと、クラウドはひとりきりのときしか、ほんとうに自分がクラウドだとは思えないからだ。
 飛空艇は北に向かって飛んでいた。昼夜を問わず二十四時間体勢で働いてくれるパイロットたちはとても頼もしいしありがたいけれど、何日も地上に降りないなんてのは息がつまると思うのが人情で、アイシクルエリアに入る手前で一度着陸した。やっぱり地面は落ちつく。人間は、どうあったって地べたからは離れられないようにできているのだと思う。
 クラウドはなんのあてもなく、今晩世話になっている小さな町の中を歩いた。夜だというのに、空気は赤みがかって明るい。なんとなく絡みついてくる暑さがあった。空気が乾いている。砂漠にいるみたいだ。例のばかでかい隕石が、この星にぶつかるまであと数日しかない。クラウドは空を見て、そうしてなにやら真っ赤なかたまりが、ブリキのねじつきおもちゃみたいにじりじりこっちへ迫ってきているのを見て、ため息をついた。ブリキのじりじり動くやつを、昔持っていた。ドラゴンの形をしていて、ねじを巻くとがたがた云いながら動く。形がちょっとゆがんでいて、立てるのに少々こつが要る。あれはどうして家にあったんだろう。よく思い出せない。もしかしたら、父さんが買ったかもしれない。父さんは、役立たずのばかばかしいものがすごく好きだったからね、と母さんが云っていた。でもさ、ほんとに役に立たないものなんて、この世の中にあると思う? 母さんはそうも云っていた。クラウドは、ないかもね、と答えた。あれはクラウドが、ニブルを出る二年くらい前の話だ……もうあのいびつなドラゴンは、この世にないわけだ。
 でもおもちゃのドラゴンがいなくなったことくらい、別に問題じゃない。実家が焼けてしまったってことは、クラウドくんお手製の、天井からつり下げられた飛空艇模型も焼けてしまったってことだ。木馬のおもちゃもなくなったってことだ。そういうのは、悲しい。子どものころの大事な思い出だから……でも、それだって問題にならないことだ。クラウドがなくしてしまったのは、もっともっと、ずっと大事なものだ。
 唇ががさがさに乾いていた。クラウドはちょっとめくれあがった皮膚を持ち上げて、つまんでみた。ぺりぺりむけた。むきすぎて、痛くなったのでやめた。唇を舐めてみたら、血の味がした。かわいそうなことをしてしまった。ひりひりするので、クラウドは顔をしかめて、鼻を鳴らした。
 前はこうして、鼻を鳴らして不機嫌になっていると、どこかの誰かさんが必ず視線をよこしたものだ。ちょっと様子をうかがうようにクラウドを見て、そうして小さく肩をすくめたりした。クラウドは、不機嫌はひとりで味わいたいほうだ。うれしいこととか、名誉なこととか、悲しいこととかも、ほんとうは一番最初はひとりでじっくり味わうのがいい。クラウドは、そういう点についてはどっちかというと放っておいてほしいのだ。それで、誰かと共有したくなったら、話すなり、蹴りつけるなり(これは誰かさんにしかしない)する。そういうのを、あのひとはなぜかわからないけれどわかっていた。これは考えれば考えるほど不思議なことだった。自分じゃない、母さんでもない、ぜんぜん関係のない他人に、自分が理解されること。クラウドはときどき、セフィロスはクラウドよりもクラウドのことがわかっているのじゃないかという気がした。それは気持ちの悪いことだったけれど、でも、いやなことじゃなかった。
 クラウドは歩くのに疲れたので、立ち止まった。いつの間にか町を出てしまっていた。ほんとうはすごくきれいな星空が広がっているはずだけれど、いまは星も見えなければ月もない。あるのは、例のどでかい隕石だけ。セフィロスがあれを呼び寄せているというのは、相当におもしろいことだ。クラウドは笑った。セフィロスは昔からいかれていたけど、やっぱりかなりきちゃってるんだな、と思って、そうしてすごくうれしくなった。変なやつは好きだ。クラウドも変だから。クラウドはほんとうは、ぜんぜんリーダー向きじゃない。熱くもならないし、責任感も皆無だし、性格は破綻しているし、ぜんぜんいい子じゃない。でも、ついこのあいだまでのクラウドは、ザックスとセフィロスのごたまぜクラウドだったから、みんなクラウドのことを、ザックスみたいにいいやつで、セフィロスみたいに責任感のかたまりだとまだどこかで思っている。ぜんぜん違うのに。それで、クラウドはいまだにちょっとそんなクラウドを引きずっている。みんなの気分を害するのは悪いし、だいたいクラウドは、これがクラウドだというクラウドを、あんまり他人に見せびらかしたいほうじゃない。根が繊細だから。ザックスが死んでしまったので、クラウドのことを知っているのは、いまじゃあすっかりあっちに振りきれたセフィロスだけになってしまった……でも。でもクラウドは、セフィロスが生きていてくれてうれしい。彼の気配を、感じられるのがうれしい。言動はちょっと向こうの世界に飛んでいるけれど、でもクラウドは、セフィロスがほんとうはちゃんとセフィロスだってことを知っている。それくらい、目をつぶっていたってわかる。セフィロスが、ほんとうのクラウドを知っているのと同じように。
 クラウドは、いろいろなものを失った。たとえば輝かしいはずの青春。母さん。エアリス。ザックス。クラウドにはどれも、すごく大事なものだった。その全部がとても好きだった。ほんとうは、もっと長いことクラウドと一緒にいてほしかったけれど、でもなくなってしまったものを、どうこう云ったって仕方がない。それにありがたいことに、セフィロスだけはまだ残っている。そうしていかれたことに、これはそのほか全部の喪失を帳消しにできるくらいすごい威力を持っているので、クラウドは自分がどうかしていると思う。でも、そういうのがクラウドだ。
 真っ赤なかたまりを見上げた。唇がほんとうに乾いてしまっている。この空気の乾燥は並大抵じゃないぞ、とクラウドは思う。こんなにキュートなクラウドくんの唇を乾燥させてしまう気象条件を引き起こすなんて、セフィロスはまったくいい根性をしている。ぶってやりたい。蹴ってやりたいし、噛みついてやりたい。でもそれには、彼が目の前にいないといけない。いまここに、あの身体がなくちゃ、できないことだ。
 会いに、行ってやらないとなあ。クラウドはめんどくさいなと思いながら、つぶやいた。結局、セフィロスはなんだかんだ云って、クラウドがいなくちゃ肝心なことはなにもできないんだから。でもそれも、まあ当然のことだ。セフィロスがぐずぐず屋なのは昔からわかっていたことだし(それが彼の優しさなわけだけれど)、クラウドはいい子だから、彼のやることにつきあってやる。でも、こういう確信だけはある。セフィロスがやることは、たぶん、この世界のためになるってこと。だってこんないかれた世の中は、いっぺんどうかなるべきだからだ。みんな死んだって、それが別にどうしたってわけじゃない。こういうことを考えるのがクラウドなわけだけれど、でもこんなクラウドは、きっとセフィロス以外の誰もいらないだろうから、だからやっぱり、ここはもうひと踏んばりして、投げ出したいのもいいかげん飽きたのも我慢して、セフィロスにつきあってやらなくちゃならない。
 クラウドはわざとらしく大きなため息をついた。肌がすこし汗ばんでいた。唇はやっぱりかさかさだ。まったくかさかさだ。どこもかしこも乾いている。クラウドをこんなかわいそうな目に遭わせるなんて非人道的にすぎる。これはやっぱりセフィロスに会いに行って、ひとつ仕返ししてやらなくちゃならない。
 夜が明ける前に、クラウドはみんなのところに戻った。朝になったら、またちょっと嘘っぽいクラウドでいなくちゃいけない。まあそれもクラウドといえばクラウドだけれど、広告をしょって歩き回っているサンドイッチマンみたいに、全身に大きな張り紙をする必要があるかもしれない。旦那が不在につき、クラウドくんは全面的にパチもんくさいです、ご了承ください……クラウドは微笑した。その拍子に唇が切れて、また血がにじんできた。でもクラウドはもう気にしなかった。