週末の夜に興奮させすぎるのはよくない

 週末の夜に興奮させすぎるのはよくない。クラウドは深夜になるのにぜんぜん眠らない。たぶん、こちらの責任だ。ベッドで少々遊びすぎた。
 まだ滴のしたたる髪のまま、テレビを見てげらげらやりだす。チャンネルをころころ変えて、アイドルグループかなにかの曲で、振りつけの一部を真似はじめる。ちょっと複雑な動きの、腕の振りつけ。でもクラウドはすぐに飲みこむ。できたといって万歳をする。面白がって何度もやる。そうしてひとりでまたげらげら笑う。彼は自分をいつも自分だけで楽しませることができる。誰の手も借りずに。それは彼の、ひとりでいる時間の長さを、そしてその時間への愛着を示している。でもそれは、決して世間一般に云われるほど悪いことではない。ひとりのほうが向いている人間もいる。クラウドの場合はそうだ。誰といるよりもひとりがいい。ただしこの自分をのぞいて。
 そこまで考えて、セフィロスは唇をつり上げた。ひとり好きとひとり好きがくっついたからといって、すぐにお互いの孤独が埋まるわけでも、人間嫌いがなおるわけでもない。だがこうも云える。ひとり好きとひとり好きがくっついたからといって、必ずしもお互いのひとり時間を奪われることに、苦痛を感じるとはかぎらない。ときには、最初からそういうふうに仕組まれていたかのようにぴたっと、他人の存在が自分の生きる時間にはまることがあるのだ。クラウドのやかましさや、図々しさや、存在そのものは、セフィロスには苦痛にならない。二十四時間、三百六十五日、いっしょにいなければならないと強制されたとしたら、さすがにすこし疲れるだろうけれども、でも別にそこまで嫌だとは思わない。これはほんとうに不思議なことだ。このあいだまで、お互いにお互いをまったく知らない、ただの他人だった。それがいまではこのありさまだ。その引力はどこから来るのか。この力はどこから来るのか。たぶん、存在の根源、とても深いところから。
 ふいにクラウドが振り返って、ソファの背もたれに顎を乗せばかにしたような笑みを浮かべてみせた。
「おれに見とれててもいいけどさ、おれどっか行きたいんだけど、いっしょに行かない?」
「こんな時間にか」
「うん。こんな時間だからだよ。このへん、場所がお上品だから、こんな夜中に外出たら、誰ともすれ違わないでいろいろできるかなと思うんだ。あんた、部屋から一歩も出ないとか、不健康だよ。来週こそ田舎戻ろうよ。おれ畑に座りたい」
 セフィロスはわかったと云った。来週は田舎に、という提案についてだ。いま出かけるということについてではない。セフィロスは云ってしまってから自分の発言の曖昧さに気がついたけれども、そのときにはもうクラウドはすっかりその気になってしまっていた。ソファを飛びこえて、軽々と床に着地、十点満点、と云いながら部屋に飛びこむ。着替えのためだ。
「いま出かけるとは云っていない」
 セフィロスはクラウドが飛びこんだ部屋をのぞきこむ。彼はもうクローゼットを引っかき回して、ジーンズを見つけていた。君に決めた、とかなんとか云っている。彼が細身のシルエットを好むことは知っている。実際、それは魅力的だと思う。たぶん彼は心得ているのだと思う。自分の身体について。その魅力について。ふいに、先ほど楽しんだいろいろなことを、思い出しそうになる。
「云っただろ」
「わかったのは田舎行きの話だ」
「聞こえませーん」
 Tシャツを着て、もうすっかり準備完了だ。セフィロスはため息をついた。やはり週末に調子に乗って興奮させすぎるのはよくない。あんなにいろいろ教えなければよかった……実に楽しかったけれど。

 空気はまだ濃厚で、蒸し暑い。今年は特に暑かったのだ。夏の盛りはもうとうに過ぎたけれども、落ちついた秋の気配を感じられるようになるには、まだすこしかかりそうだ。外には誰もいない。音もなく、世界が死に絶えたみたいに見える。ときおり遠くで、車が走り去るのを感じる。それだけが、唯一この世界を生きたものに思わせてくれる。外灯が、一定間隔でぼんやりした明かりをコンクリート上に投げている。その下をくぐるとき、なにかゆらめくような気持ちになる。ミッドガルでは、月はとても遠くに、おぼろげに見える。濃く霞んだ空気の先に。月すらも、距離を置いているのだ。人工物だらけの都会に。世界との、あらゆるほかの生命とのつながりを絶たれた、異様な人工物の集合体。ミッドガルはそういうところだ。自然が、死に絶えている。コンクリートに固められ、エネルギーは吸い上げられ、もはや地面から植物が芽を出すことすらままならなくなってしまっている。街路樹は、人工的に管理されている。ところどころに規則的に植えられた花も。土は、自然のものではない。すべてまがいもの。まぜものだ。空気すら、まがいものだ。セフィロスは吐き気がする。都会は嫌いだ。否、正確にはミッドガルが嫌いなのだ。この大嫌いな都会に踏んばっているのは、それも長くてあと数年だろうという考えがあるからだ。クラウドが、もうこんなとこいいや、と云ったら、出ていくだけのことなのだ。そしてこんな時間に散歩に出たのは、クラウドが誘ったからだ。外の空気が吸いたいわけではなかった。でもクラウドは、なにか思うところがあっての行動に違いない。それくらいはわかった。
 セフィロスは視線担当係になった。ひとの気配を感じ取って、ふたりが、誰の目にも留まらないように注意すること。そうなったらおおごとだから。セフィロスは視線に敏感だ。世界で起こるあらゆる微細な動きを、ことごとく感じ取ってしまう。物理的なものにかぎらない。視線、感情、気配、ゆらぎ。空気のふるえ。たぶん、普通の人間なら発狂するかもしれない。こんなにいろいろなことを、いちいち感じていたのでは。ところがこちらはそうもいかない。発狂するには、理性が強固すぎる。統制が強すぎる。ひとが意志の力と呼ぶものも、たぶん強力すぎる。この閉塞感。破りたいのに、破れない。突き抜けたい。でも理性がじゃまをする。感情の、情念の赴くままに行動しようとすると、たちまち憲兵が駆けつけてきて、彼を制する。あとさきを考えろ。おまえのすることの影響は、大きすぎる。たとえ、おまえがそんなことは望んでいないとしても、現実にそうなのだ……。
 ……ほんとうに大きすぎる。大きすぎて、一歩も動けない。そこから抜け出たのは、ひとりの女の情熱のためだった。彼女の熱がこちらに伝染したのだ。正確に云えば、それを受けることによって、彼はようやく理性の皮を引っぺがすことができた。あとさきは考えない。やりたいようにやる。好きにする。人間の権利だ。さあ行動だ。そうして彼は都会を飛び出した。力強く。でも、こちらの魂を焦がす熱がないと、彼の情熱はまたしぼんでしまって、理性がぐっと持ち直してくる。彼はまたなにもかも理詰めの、思考が支配する倦怠の世界に戻ってしまう。爆発的なものはない。ただ気だるく、日々がすぎるだけ。でも、そんな日々でも、都会にいるよりはよほどましだったし、幸福ですらあった……誰の視線も感じず、すさまじくいやな、仕事をしなくてもいいのだから。そうしてふいに、また別の情熱をもたらしてくれる存在があらわれた。ほんとうに唐突に。今度は男だった。おまけに年下のくせに、えらく生意気で、態度が大きい。そういうのは、嫌いではない。
 ふたりはなにも考えずに足を進めて、頭上を高速道路が走っている住宅街にさしかかった。車の音が少々うるさい。マンションがいくつも並んでいるのに、ひとの姿はない。そういうのはどことなく不気味だ。クラウドがふいに立ち止まった。高架下の一部に、ガードレールに囲まれ、コンクリートで固められた小さな広場ができていた。外灯が二本、向かい合わせで無言で仕事をしている。先端が二股にわかれて、電球がふたつついているやつだ。外灯の横にはベンチが置かれている。ちょうど中央あたりに、水飲み場がある。花が植えられたプランターがガードレール沿いに並んでいる……扱いとしては、公園だ。小さな。天井を鉄筋コンクリートと鋼で覆われているから、どことなく薄暗くて、わびしい空間だ。高架橋の変にくねった部分にあわせて作られているせいで、ずいぶんいびつな形をしているが、ローラースケートで転がり回るとか、スケートボードで滑りこみをやるとかいうくらいなら、できそうな広さがあった。
 クラウドは当然、そこへ歩いていった。ガードレールを飛び越えて、またも十点満点級の着地を決め、しばらくその場の空気になじもうとするかのようにぼんやりとあたりを見回していたけれど、ふいに声だけは控えめに笑いだして、外灯のひとつによじ登りはじめた。ポール遊びばりにスムーズにすいすい登って、先端の電球部分にたどり着いた。明かりには、羽虫がたくさんたかっているはずだ。クラウドは実際、わあわあ云って、飛び回っているらしい細かい虫を追い払うように片手を振り回した。そうしていつもよりもだいぶ高くなった目線であたりを眺め回し、セフィロスに向かって手を振って、支柱を一気にすべり降りた。地面に足をついて、得意げな顔で振り返る。全体的になかなか無駄のない身体の使い方だ。彼は、身体をある程度思い通りに動かせる。身体との意志疎通がうまくできるほうだ。頭を空っぽにして、身体に任せることができるのだ。彼の理性は、強いのにすぐに感情や、情念に場を譲ることができる。そのみごとな切り替え。バランス。彼は衝動的になれる。あとさきを考えずに動くことができる。でも、ばかなわけではない。彼の身体はセンサーで、身体中で、いろいろな情報をキャッチしている。どぎつい、敏感なセンサー。気づかなくていいところにかぎって、気づいてしまう。わかっているから、最初から避ける。近づかない。クラウドの、身を守るための方法。
「棒見たら、登りたくならない?」
 そう云って横にあるベンチに腰を下ろす。
「広場見たら、逆立ちしたくなるとか。でも、そういうこといきなりやるのって変だと思われるだろ。なんでかなあ? いきなり歌うとかさ、踊り出すとかさ、だってすごく天気がよくて、空気がからからとか、気分がおそろしくいいとかいうときに、はしゃぎたくならないの? スキップとか、したくならないのかな。叫ぶとかさ。でもそういうの、やったら即変なひとだろ。おれだから、田舎村って嫌い。すごく見張られてる気がする。でも都会も好きじゃないなあ。みんなすましてて、つんとしてる感じ。そういう欲求なんて、ぜんぜん感じませんって顔してさ」
 そうしてばかにしたような顔で、頭上の高架橋を見上げる。セフィロスは彼に近づいて、隣に腰を下ろすと、額にかかっている前髪をはらうようになでた。
「人間は抑圧だらけで」
 セフィロスはぼんやりと水飲み場を眺めながら唇を歪めた。
「どこかが崩壊している。たぶん。それを取り戻そうとして、なにかに熱中する。なにか、こちらの根本を揺さぶってくれるようなものに」
 クラウドがすこし考えこむような顔になる。口よりも軽く三倍は雄弁な目が、精神の、あるいは思考の深みへなにかを探りに向かっている。それがふいにこちらへ向けられる。冷やかしも、非難も、甘えすらない目。ただ真っ直ぐな目。こういう視線を、彼がよこすのは稀だ。
「あんたはさ、こんなとこにいて、ほんとにいいわけ? ほんとはずっと訊きたかった。あんた、訊いても流すけど」
 ああ、それを、確かめたかたのか。セフィロスはこのふいの真夜中の散歩にこめられた意味を理解する。微笑して、そういうつもりはなかったと答える。こちらを見上げるクラウドの顔が険しくなる。
「流してるだろ、いっつも。別にいいとかなんとか云ってさ。たまに田舎に行ければそれでとかなんとか。ぜったいうそだ。っていうか、そろそろうそだ。そりゃ、はじめはよかったよ、おれだってそれで。家に帰ったらあんたがいてさ、出てくときもいてさ、いろいろ用事云いつけられるし便利だし。ほんと云うと、いまだっていいよ。でも、あんたほんとはこんなとこにいたくないはずなんだ。なのに、おれがここで生活してるから、あんたもここに住んでる。それ、まともに考えたら鼻血ものなくらいすごいことだけど、でもそういうのって、最初のころは当然って思うだろ? ふたりとも、なんていうか、できたてだったらさ。そしたら、いっしょにいるほうが自然だって思うし、そのほうが楽しいよ。でもいまもそう? おれがいるって理由だけで、こんなとこにいられる? おれの云いたいことわかる?」
 ああ、わかる、とセフィロスは云った。いわゆるできたてのころには、なにもかも許せるものだ。相手の欠点。相手のすべて。あらゆる状況。本来は不快なはずのものでも。でもそれは、永遠に続くわけではない。一時の熱に浮かされた状態で、いつかは、少しずつ現実に戻ってゆくのだ。クラウドは、たいていの恋人たちがそれをきっかけにして耐えがたい関係に陥ってゆくという事実を、本能的に理解している。熱が冷めてしまうということ。熱が冷めてしまったら、そこから先は別の方法で勝負しなくてはならない。恋が熱狂だとすれば、それが終わったあとに、頭をもたげてくるのは愛でなくてはならない。ある程度の寛容と、忍耐をともなった愛。
 そんなことは、まだぜんぜん考えつかなくてもいいことなのに。少なくとも、十六になったばかりでそんなことをまともに考えるのは、早すぎる。もう少し、あるいはもっとずっと、遅くてもいいのに。そうして彼は不安に耐えられないものだから、自分のためにこちらが我慢しているかもしれないなんて考えただけでもおそろしくなってしまうものだから、動揺を、真摯にぶつけてくる。おれの云いたいことわかる? と云うときには、クラウドはいつも、張りつめて、あふれそうで、必死で訴えている。わかってよ。わかるよな?
 クラウドは、ばかなのだ。目ざとすぎる。気づきすぎる。わかりすぎる。ひとの情というもの、本質。恋愛に絡むいろいろな感情。本能的な部分で、教えられもしないのに、感じてしまう。直観的に、ぜんぶわかってしまう。このあとどんな問題が起こりそうなのかを。お互いに、どんな感情を抱いてしまうのかを。こちらはまだ匂わせもしていないのに。敏感すぎるのだ。鋭利すぎる。
「おれ別に、無理してあんたに部屋にいてほしいなんて思ってないよ。結婚してるわけじゃないし。無理しちゃってさ、嫌いなくせに。空気吸いこむのもやなくせに。そういうのはおれ好きじゃない」
 クラウドが怒ったような顔になっている。実際、ほんとうに怒っている。思いどおりにならない状況。もどかしさ。割り切れない、どっちつかずな感情。ほんとはいっしょにいたいけど、だから、どうにかしてあげたいけど、でも。クラウドは全身で、痛いほどそれを訴えている。仕事をやめる決心なんてそうそう簡単につくものじゃないはずだ。自分だって、しばらく悩んだのに。ばかなやつだ。セフィロスはふいに、大きな感情に飲みこまれる。普段あんなに偉そうな態度でいたって、こうなのだ。プライドが高いくせに、こちらのためなら、自分の目標としてきたものを手放すことまで、本気で考える。都会嫌いは、セフィロスの存在の、人間の根源に関わる問題だ。セフィロスがそれを揺り動かされて、流されるとか、いやな思いをするくらいなら、クラウドは潔く全部手放すこと、そしてたぶん状況が状況なら、自分から別れを切り出すことすらも、考える。
「……おまえはばかだ」
 セフィロスは自分の中に湧き上がった感情を気取られることをおそれるように、あえて突き放したような口調で云う。
「自分の思いこみで別れ話を持ち出す連中並みにばかだ……睨むな、結局同じことだ、おまえの思考回路は。おれはミッドガルが嫌いだ。それは事実だ。できればこんなところに、一秒だっていたくない。だが是が非でもというわけじゃない。期間が限定されていて、立派な理由があるのなら、居座ることもできる。もともとここに住んでいたわけだし、それが何年か延びたところでたいした違いはない。おれが一度覚悟を決めて出ていったのに、自分のせいで押し戻されているような気がする……そう考えるのは理解できるが、こういうことはどちらのせいだとか、そんな単純な話じゃない。先回りして気がつくな。こちらが微塵もそんなことを考えていない段階で先回りされると、やるせない気持ちになる。第一おれに云わせれば、おまえのほうこそ、何年も軍にいられるような人間じゃない。だからおれはここに居座っている。おまえがもう耐えられなくなって爆発したときに、誰が後始末をする? おまえのことだ、おとなしく退職願のひとつも書いてやめるなんてできるわけがない。必ずなにかやらかす。おれはできたらそれに便乗して、完全に消えるつもりだ。それくらいのことは考えている。もしもその前にほんとうにここにいるのが嫌になったら、そう伝える。だから、ひとがそんな気配を出す前から、気づくな。考えるな」
 クラウドが不満げな、怒ったような、泣きそうな顔になる。それがみんないっしょくたになって、顔に出ている。どこへもぶつけられない怒り。発散しようのない不満。こんな面倒なことを考えなければならないのを、誰のせいにすればいいのか? 自分か、会社か? それともいかれた世の中か。そんなことを、クラウドはずっと思っているのに違いない。自由にしたいのに。そして自由になりたいのに。……ほんとうにばかだ。けれども、結局は自分の問題だ……セフィロスにはわかっている。どっちつかずでいるのは自分なのだ。自分の立場を、潔く捨て去ったつもりで、都会に戻ってきたのが……クラウドに興味を持ったのが、そもそもいけなかった。そういうことは、するべきではなかったのだ。最初から。いずれこうなることは、クラウドが軍とセフィロスとのあいだで板挟みになって身動きが取れなくなるのは、予測できたはずのことなのに。英雄と、生身のセフィロスとの乖離。その両方を知れば、軍のもっともえげつない部分を、露骨に感じることになる。あらゆる虚構。あらゆる欲望。セフィロスの悩みは、クラウドの悩みそのものになる。苦しめたいわけではなかった。でも、なにを犠牲にしたって、誰かを心から想うあの情熱を、止められはしないのだ。そしてなるようになったからには、今度はなにを犠牲にしたって、いっしょにいたいと願うのだ。
 セフィロスは金髪をかき回すようになでた。
「おれに別居して欲しいのか?」
 クラウドはぶんぶん首をふった。
「欲しくない」
「じゃあもうこの話は終わりだ」
「終わりじゃない。まだ続き、ある」
 クラウドがセフィロスの服をつまんで引っぱった。
「……なんだ」
 クラウドがふいに、勢いよく彼を見上げ、まっすぐにぎらついた視線を向けた。
「おれ、会社やめようと思って」
 セフィロスは一度だけ、まばたきをした。
「それはおまえの意思なのか?」
「……そうだよ」
 クラウドがふいに身体をあずけてきた。セフィロスの肩に顔を押しつけたから、彼の声はくぐもって聞こえた。
「あんな非人道的な会社、大嫌いだ。軍もソルジャーもみんな嫌いだ。あんたのことないがしろにするやつなんかみんな死ねばいいのに。おれときどき、本気で爆破テロとか起こそうかと思うよ。みんな刺し殺そうかと思うよ。それで、おれも死のうかなって思うんだ。なんでみんなばかなの? なんで、あんたのこと作りものみたく見るの? あんたが人間らしくしてちゃだめなの? うっかり同性のガキとできたり、ふざけたりしてたらだめなの? なんで? なんであんたなの? ほかのひとじゃだめなの? もっと自分に注目してもらいたがってるやつ選べばいいだろ。あんたじゃだめだよ。向いてないよ。ばかみたいに向いてないよ。いかれてる。みんないかれてる。みんな死ねばいいのに」
「……クラウド」
 クラウドの身体はふるえはじめていた。
「おれ、もうやだよ。やめようよ。もうここじゃなくて、どっか別のとこに行こうよ。それで、家庭菜園とか作ってさ、牛とか山羊とかブタとか飼ってさ、毎日汗水たらして労働しようよ。雨の日はなんにもしないで、晴れたらまた朝から働いてさ、ちゃんと生きようよ。こんなへんな生き方じゃなくて」
 セフィロスはもうだめだった。ぶるぶるふるえているクラウドの身体を、抱きこんだ。ことばが出てこない。こんなときに、たかが言語になにができるというのか。なにもできない。なにも表現できない。感慨の、苦痛の、百万分の一さえ伝わらない。思考は停止する。感情だけが渦を巻く。拡散し身体を貫く。
 こんな瞬間を、いったい何度体験できるものだろう。人生の中で。そうして何度、誰かを想うこと、誰かに想われることの至福を、痛みと、歓喜とともに深く受け止めるだろう。もう楽になろうよ。そう云われている。もうやめよう。向いていないことに神経をすり減らして、生きるなんてことは。
 立場、責任、夢、あこがれ、そんなものは。そんなものは、一瞬で消えてしまう。一瞬で変わってしまう。それより深い感情がこの身体に宿ったならば。ほかのすべてのものよりも、誰かを一心に想うことを、覚えたならば。瞬間的に崩落する世界。相手の望みが、自分の望みになる。相手の意思が、自分の強さになる。それまでとは、まるで違ったものが見えてくる。だから、すべて変わってしまうのだ。習慣も、願望も、夢も、現実も。気づくのだ、昨日まで思っていたことは、今日はもうどうでもよくなっていること。相手のために自分のなにかを捨てることが、恍惚であり得ること。それが大きければ大きいだけ。でもそれは、自分を犠牲にするということとは違う。思考がまるで、切り替わるのだ。相手のためと、自分のためが、かち合う地点。それを探すこと。見つけること。引き寄せること。自分が引くこと、相手を押すこと、お互いを、心地良くしようとすること。クラウドのソルジャーへのあこがれは、夢は、だからもうどこかへ行ってしまった。残っているのは、憎しみと、皮肉だけ。作り出された強さ。その意味。存在価値。結局は、くその役にも立たない。それを作り出す会社が、そうだからだ。エゴイズムの極致。拝金主義の極致。権力の最高地点。そんなものは、いつか崩れ去るものなのに。クラウドは、幻滅している。セフィロスと同じくらいに。もううんざりしている。自分のことがなかったら、こんなに早くはなかったかもしれないけれど、とセフィロスは思う。結局は、セフィロスの倦怠が、嫌悪が、クラウドのそれを加速させたかもしれない。でも、いずれにせよクラウドはいつかは嫌になったはずだ。彼は過敏だから、気がつかないわけがない。窒息しそうな息苦しさ。行き場のない閉塞感。神羅全体を、ミッドガル全体を覆っている、得体のしれない不気味な影。それを取り払うこと……可能だろうか。わからない。いまはそこから逃げ出すという作戦しか考えられない。でもいずれは。いずれは、どうにかしたいようにも思う。このどうしようもない世界を。たぶん、自分のために。自分の権利を、人間性を、心底から取り戻すために。なぜなら、それはクラウドが望んでいることだから。彼の望みは、いまでは自分の望みなのだから。
 クラウドはぼろぼろ泣いている。たぶん、悔しさから。そして悲しさから。セフィロスのための。こちらを想っての。その感慨と、痛み。こちらの存在を、躍起になって守ろうとする彼の、一直線の態度。意思。情熱。セフィロスはできるものなら、もらい泣きのひとつもしたかった。だがこの身体はそういう点ではさほど素直ではないものだから、涙なんてものはちっとも出てこない。理性だ。この期に及んで。でもいいのだ。クラウドを見ていると、こちらも泣いた気になるから。彼に誘発される。触発される。その感情に。混沌とする。彼の感情と、自分の感情と。意思と、思考と。まじりあって、同じものを、同じように味わう。こんな瞬間の恍惚を、どう表現すべきかわからない。……否。抱きしめる。背中をさする。確かに同じものを、受け取っていること、同じものを見ていることを、態度であかしする。云いたいことは、ぜんぶ伝わっている、大丈夫。
「……おまえはいい子だ。いい子すぎるな。だから云ったんだ。おまえにはいまの仕事は向いていないと」
 予言は現実になる。クラウドは軍に向いていない。はじめて会った日に、そう思った。ほんとうに全身がセンサーみたいに見えたから。そのセンサーはいまは、セフィロスのために、それに関することに、全開になっている。ふたりだけのときなら、結果は最高だ。でも世間に一歩出ていったなら、まともでいられるわけがない。軍にいられるわけもない。作られた英雄。崇拝。下卑た虚栄心。そんなものの中で過敏に働くセンサーを備えていたら、毎日身を切り刻まれるよりつらいはずだ。傷つき、怒り、憎むだろう。すべてを。
 クラウドをそんなふうに追いこんだのは、自分だ。セフィロスはそう思っている。興味を持ってしまったから。そして深いつきあいをしてしまったから。でも、もしもそれがなかったとしたら、クラウドの毎日はもっと灰色だったのかもしれない。友だちゼロ。恋人もなし。誰とも口を利かず、誰にも打ち明けず、ひとりでいろいろなことに鬱積して、たぶん自爆する。それよりはきっとよほどましなのだ。相手の感情があるぶん、倍つらくても。それでも、打ち明け、わかちあい、慰めあう存在があるのは、幸福なことだ。自分にとってそうであるように、クラウドにとってもそうだ。それは信じられる。信じられる程度には、深いところでつながっている。
 セフィロスは深い、深い恍惚に沈んだ。クラウドの悲しみ。怒り。その中心に、自分がいること。なにものでもない自分がいること。セフィロス。その名前についてくるたくさんのものではなくて。生身の自分が、彼の中にいて、彼を動かしていること。必死に。けなげに。痛いくらいに。彼の涙。身体のふるえ。雄弁な身振り。
「今度、ソルジャーの、試験、受けたら」
 クラウドが嗚咽の合間を縫って云う。
「そしたら、やめるから。退職願、書いて、おとなしくやめるから。もしかしたら、一発くらい、かますかもしれないけど。おれ、あんたが、どんな気分なのか知りたい。なにが起きてるのか知りたい。わかりたいよ。あんたと同じに、なりたいのかも」
 同じ場所から、同じ視点で。同じ孤独で。同じ味を。……こちらに向けられる目が、そう云っている。覚悟。情熱。さっきまで涙を流していた目はもう乾いて、輝いている。ぎらついてすらいる。彼の決意のために。セフィロスは読み取る……あんたのためなら、おれなんだってできるんだ。なんだってやってやる。身体がどうなってもいいし、死んだっていいんだ。……ああ。この熱だ。この激しい感情だ。求めるのは。彼の熱。情念。それが自分のために燃え上がることの、快楽。よろこびが、ことばにならない。彼は、自分のものだ。ふいにそう思う。そんな独占的な思考を、抱いたことはなかったけれど。でも彼は、いまでは隅から隅まで、こちらのものなのだ。ほかには向かわない。全身が、こちらのために存在している。
 クラウドの頬にはりついて、乾きはじめた涙をぬぐい、その決意を、承認したことを伝える。視線で。そうして唇で触れ合う。わずかな時間だけ。
「……おまえはたぶん、ソルジャーにはなれないと思う」
 セフィロスはあえて残酷なことを伝える。クラウドの目が、すこし揺れ動く。でもおぞましいほどの動揺ではなかった。それにセフィロスはすこし、安堵する。
「正直に云って、これは勘だ。魔晄に耐性があるかないかを判断する明確な基準はないが……だがおれにはおまえは、リスクのほうが大きいように思える。それだけは云っておく。能力云々の問題じゃない……精神性の、人間性の問題……本人の気質も大きく関係してくる問題だ……だが、止めはしない。おまえが万が一どうかなったら、それこそ抱えて逃げるだけだ。いずれにしろ結果は同じだ」
 クラウドはすこし考えこむような顔になってから、うん、と云った。穏やかに。彼はそれを了解して、でも決意を変えない。だから止めない。
「とりあえずのところ、退職願の書き方を学ばないとならないな。そんな知識が必要になるとは思わなかった」
 クラウドは声を上げて笑った。
「おれ、テンプレートみたいなの探すよ。あんたのは知らないよ。おれ平社員だからそれでいいと思うけど。あんたは、勝手にやれば」
 さあ、もういつものクラウドだ。笑い方までいつもの彼だ。皮肉げで、からかい気味で。クラウドを持ち上げて立ち上がり、地面に下ろす。クラウドがちょっとだけむっとする。
「……眠くなってきたからだっこ」
 セフィロスは笑いたいのを抑えて、あえて顔をしかめる。
「おまえを抱えて家まで帰れというのか?」
「そうだよ。おれもう歩きたくない。運んで」
 そう云って、地面を蹴り、セフィロスの首に腕を回して、腰には両脚を回して、べたっと張りついた。セフィロスはため息をついた。わざと。尻の下に腕を置いて、支えるように抱え上げ、そのまま歩き出した。
「やっぱり誰にも会わなかったなあ」
 クラウドがほんとうに眠そうな声になっている。
「当然だ。何時だと思っている」
「わかんない。三時くらい?」
「いい線だ」
「おれもう限界だよ。おやすみ」
 左肩に頭の重みがかかる。すこしして、ほんとうにクラウドの身体から力が抜けた。明日はきっと昼まで起きないだろう。
 週末の夜に興奮させすぎるのはよくない。でも、そう思うのもあとすこしだ。秋になれば。秋になれば、クラウドが切望するソルジャー試験がある。それが終わったら、いよいよ本格的にミッドガルにさようならだ。もしも試験でクラウドになにかあったら、たぶん廃人みたいな彼を抱えて逃げることになるだろう。でも、セフィロスは必ずどうにかできる自信があった。彼の魂を、自分のもとへ呼び戻せる自信が。なぜなら、ここが、彼の居場所だから。いつでも。なにがあっても、最後には、お互いがお互いの戻るべき場所だから。