誰かのために、歯を食いしばることは

 誰かのために、歯を食いしばることは快感を伴う。クラウドは死ぬほど腹が立っているけれど、それでもどこか心地よい気持ちを味わっている。何人かでかかってこられて、表だって見えないところに傷をつけられたとしても。背中に靴の跡がのこったとしてもだ。
 ほんとうなら、もうとっくにいつものようにかんかんになって爆発して、殴りかかっているところだ。でも、彼は我慢している。一方的にやられっぱなしになっている。その時間は、密のように甘い味がする。心の中で、相手を笑っていられるから。そして究極には、相手の気持ちがなんとなく、わかるように思われるから。
 寮に住んでいない一般兵が話題になるのは当たり前のことだ。好奇心をむき出しにしたやつが、あとをつけて、全然身分不相応のマンションに入っていくクラウドを目撃するのだって、時間の問題だった。あのマンションに誰が住んでいるのかはわからなくても、誰かいいパトロンかなにかを捕まえたに違いないと推測されるのは当然で、そして、いつかは、こうなっていたはずだ。セフィロスとのことは、いつかばれたはずなのだ。それは、最初からわかっていた。
 彼はほんとうのところ、幸せだ。なぜならいま戦っているのは、セフィロスの、個人の名誉のためだから。名声のほうのためではなくて、ほんとうの、彼個人の。彼のために、耐えるのだ。彼のために、戦える。この自分が。そのための手段がある。がむしゃらにかかっていくのではなくて、じっと耐えること。ののしられても平気だ。なぜなら、単なる嫉妬だから。しかもその嫉妬の先には、今世紀最大といえる幻としての英雄セフィロスがいるわけで、これはちゃんちゃらおかしい話だ。クラウドは知っている。そんなひとはどこにも存在しないことを。クラウドはセフィロスの、勝手に作り出された影とも、戦っているのだ。

 さすがに思いきり蹴られた肩が痛むので、クラウドは風呂の中でぶつぶつ文句を云った。まったくどこもかしこも痛いけれど、痛みが勲章なのだ。あのひとを、身体を張って守っている気持ちになれるからだ。たぶん、これは特権だと思う。彼は引きはがしたい。英雄の偶像としてのセフィロスと、ほんとうのそのひととを。偶像崇拝者と、戦いたい。セフィロスをふつうの、ひとりのひととして存在させたい。それはとても大きな問題なので、ひとりでできることではないのだけれど、でもクラウドはセフィロスと関係があることで生じるいやがらせやいじめくらい、いくらでも受けてたとうと思っている。自分に敵意をむき出しにする偶像崇拝軍の兵士たち。こんなやつらには、きっとセフィロスのことが一生わからないだろう、意外とめんどくさいおとななこととか、すごく繊細なこととか。これは自分自身への罰でもあるのだ。かつて、セフィロスにあこがれていた自分への。そのころの自分と、あの連中とが、交錯する。ああ、なんかあばらが痛いな。折れてるのかな。でも、幸せだ。おれは、あいつのために戦ってるんだぞ。

 いつまでもクラウドが風呂から出てこないので、のぞいてみると眠っていて、鼻の頭が沈みかけていたのであわてて引き上げた。そうしてセフィロスは心底ぞっとした。背中に、スパイクのついた靴の跡がある。大小さまざまの痣もある。切り傷もある。どう見ても、訓練でついた傷ではない。
 とにかくこのままでは風邪を引くので、バスタオルで身体をふいてやりながら考える。最近、疲れているとかなんとかで、そそくさと眠っていたのはこのせいだったのだ。傷のつけかたが陰湿だ。わざと、見えないようなところをねらっているように思われる。
 クラウドがぼんやりと目を覚ました。誰に抱き抱えられているのかは理解したようで、無邪気にだっこ、と云ってしがみつきながらまた眠りかけている。これは緊急事態だ。眠らせておく場合ではない。服を着せて、リビングへ連れこむ。ソファに座らせて揺さぶると、ようやく目を覚ました。
「なんだよ、いい気持ちで寝てたのに」
 目をこすり、あくびをしてから、ここがリビングであることに気がついて身を固くした。なにが起きたかを理解したようだった。おそるおそるセフィロスを見上げてくる。
「せっかくのところ、悪いな。だが、聞きたいことがある」
 クラウドは不機嫌な顔になる。唇を突き出し、視線を逸らした。うまく声をかけないと、肝心なことを聞き出す前に破裂しそうだ。
「見るつもりはなかったが、身体の傷を見た」
 クラウドが鼻を鳴らした。
「その点については謝る。あとで好きなだけ殴っていい。だが訓練でついたとかいう云いわけは通じないのはわかるな? その傷は尋常じゃない。どうした」
 こちらは心から心配しているのだが、にらまれた。
「云いたくない、ってのは?」
「大概のケースならそれでいいが、これは例外だな。左の肋骨に、少なくとも、ひびが入っている」
「やっぱりな。痛いと思った。でも、云いたくないんだ。云うくらいなら、舌噛む。だいたい、なんで勝手に風呂に入ってくるんだよ」
「だから、それは謝る。気が済むならいま殴るか?」
「いい。どうせおれのパンチじゃきかないもんな、むかつくけど。なあ、おれ眠いんだよ」
「おれはまじめに訊いているんだ、答えろ」
「いやだ」
「どうしてもか」
「いやだ」
「……おれのせいか」
 クラウドの身体がぴくりと反応する。唇を噛みしめ、関係ないだろ、とぶっきらぼうに流そうとする。セフィロスは確信した。彼がなにと戦っているのかを。
「あんたのせいじゃない。それだけは確かだ。あんたには、関係ないことなんだ」
「いや、関係がある。つまり、おれとの関係に関係がある」
「話を難しくするなよ」
 クラウドがいらいらしてきた。
「絶対、あんたのせいじゃない。あんたと関係ないから、もういいだろ。これ以上ぎゃあぎゃあ云ったら、おれ出てく。プライバシーの侵害で」
「出ていってどうする」
「わかんない。知らないよ、そんなこと。いちいちむかつくこと訊くなよ」
「寮には戻れないだろうな。戻ったら、それこそ殺されかねない。よくいままで生きていたな。実は感心している。自分の間抜け加減にはあきれるが」
 クラウドが苦い顔をした。
「なんのことだか、わかんないよ」
 急に語気が弱々しくなった。すっかりばれていることを、認めざるを得なくなったのに違いない。セフィロスは彼の横に座り、おっかなびっくりに、引き寄せた。抵抗にあうかと思ったのだが、おとなしく引っ張られるままになっている。
「いやがっているところを訊きたくないが、立場上訊かざるを得ない。なぜ黙っていたのか」
「それこそ、云うくらいなら舌噛むよ」
「おまえはとばっちりにあっているだけだ」
「そうじゃない」
「そうだろう」
「違う。あんたのせいじゃないんだ」
 静かな強さを秘めた口調に、セフィロスは口を閉じた。青い目が、ぎらぎらした光を放っている。兵士たちが戦場で見せるような目だ。ああ、この子は戦っている。
「おれのせいじゃないのか」
「うん、違う。あんた個人の責任じゃないんだ。問題になってるのは、あんたじゃないから。英雄のセフィロスっていう、どこにもいないやつのことだよ。そいつのせいなんだ。そいつがあんたにつきまとうから、みんなおかしくなる。あんたのことあこがれて、崇拝してて、それがほんとは全然あんたじゃないってことに、誰も気づかない。でもそういうやつらのこと、おれ、わかるんだ。そこにしがみついてたい気持ち。英雄にへらへらくっついてるおれみたいな凡人が許せない気持ち。全部、ただの幻だけど。いまのおれは、そういうのわかるから、でもそれは間違ってることもわかるから、毎日ぼこぼこにされててもうれしいよ。ほんとだよ」
 クラウドが唇を噛みしめて泣きそうな顔で笑っている。ああ彼を、この少年の気高さを、そしてやさしさを、いったいどう受けとったらいいというのだろう。彼は必死に受け止めようとしている。自分の立場を、自分に向かってくる相手を。そして全身で、自分と相手をそうさせるもの……セフィロスの英雄としての偶像を越えて、セフィロス個人の尊厳を、自由を、守ろうとしている。自分のプライドを、やりかえしたい感情を、殺しても。
 セフィロスは唇を噛んだ。すぐ横にある小柄な身体を、思いきり抱きしめた。自分の腕では、あふれるのではないかと思われた。その美しい魂が。ぎょっとするほどまっすぐで、美しい。それをこの腕に、そもそも抱えてもいいものであるとは、信じがたいことだった。彼は、静かに感動していた。なにも云わずに黙って、クラウドの身体を抱きしめて、頭をなでた。かけることばがなかったからだ。ことばをかけようが、なかったからだ。なぜなら自分の魂のために身を投げ出して戦ってくれる人間は、はじめてだったから。
 クラウドがしゃくりあげた。その涙が自分のためのものであることを、セフィロスは知っていた。彼は涙を流さない。流すことを、忘れてしまった。だからその涙に便乗して、泣いた気になった。ただし、クラウドのために。
 ……腕の中でクラウドがもぞもぞしだした。セフィロスはぐしゃっとなったクラウドの顔をぬぐい、頭をなでた。
「おまえの戦いに、参加する許可を求めたい」
 彼は真摯に云った。クラウドは同じくらい真剣に首を振った。
「そうくると思ったから、云いたくなかったのに」
「これはおれの責任でもある」
「そんなことないよ」
「あるさ。自分の幻影を、放置してきた責任が。ほったらかして、ペシミストのようにあきらめ顔で引っこんでいた責任が。それは、おまえが背負いこむべきではない」
「そう云われると、難しすぎてよくわかんなくなるよ」
「いまはわからなくていい。どちらかというと、これはおれの問題だ。おれにも、ひとりの人間としての権利くらいある。好きに生き、恋もする。それは、自分で守らなくてはいけない。それに、おまえを守る権利もあるはずだ」
 クラウドはむずがゆいという顔をした。彼は他人に守られることを、本質的に拒絶する。
「あんたに頼らずにどうにかしたかったんだ。っていうか、あんたにまで話を回したくなかった。そんなことしたら、たぶん、あんたが」
 その先を云うのをためらっている。そんなことが知れたら、セフィロスは自責する。当然だ。相手にそんな思いをさせたくないと思うのも当然だが。どちらかが、折れるしかない。この場合は、クラウドに、折れてもらいたい。
「お互いさまだな。だが今回は、できれば折れてくれ。おまえのプライドを幾度となく戦車並みに踏みつけてきたのは自覚があるが、もう一度だけ折れてくれないか」
 クラウドの視線がしばしさまよった。落としどころを、探している。タイミングを探している。素直な気分がやってくるのを、待っている。
「……わかったよ。許可するよ」
 ついに唇をつきだして云った。セフィロスはうやうやしく礼をした。どこかの王さまにでもするように。
「でも頼むからさあ、大げさなことしないでくれないか。おれがあんたを引っ張りだしたなんて、思われたくないし。ずるいだろ? そういうのって。なんか勝つのわかっててわざとやられてるみたいで」
 セフィロスは吹き出した。
「戦う相手をよく理解しろ。いまおまえが相手にしているような連中に、そんな崇高な理念は理解できない。理解できていたら、はじめから手を出さない。相手を知るのは戦う上での基礎だろう。効果的な作戦で挑まなければだめだ。おまえがおれのために殉死してもいいというのは涙が出るほどありがたいが、ほんとうに死なれるのは迷惑だし、そういう低級な連中にやられるのは論外だ」
 クラウドはことばにつまってうなり声をあげ、なにやら赤い頬をして、ほんとにあんまり目立つことするなよ、と念を入れた。
「努力しよう」
 セフィロスは微笑んで、もう一度クラウドを腕の中に押しこんだ。傷を治してやるために。