たかだか部屋のくせに妙にこみ入った

 たかだか部屋のくせに妙にこみ入った儀式が必要で、クラウドはうんざりした。見上げれば首が痛くなるほど高い、マンションの一室を目指しているのだが、なかなかどうして、これが難しい。そびえ立つ白塗りの、高級そうなマンションは入り口の段階でさっそく田舎者の少年を打ちのめした。一点の曇もない見事なガラス戸の前に置かれた黒い四角い台。これは暗証番号と、カードキーを求めて赤ランプを点滅させている。田舎少年は金髪の頭をかきむしり、デニムのポケットから便箋のようなものを取り出して、視線を送り、口元を小さく動かす。おぼつかない指先が、おっかなびっくり台の上の四角いボタンに幾度か触れる。カードキーを差しこむらしい、細い溝の横のランプが点滅する。田舎者はおそるおそるそこへカードをつっこむ。入れる方向を間違えた。またやりなおし。少年はふたたびメモ用紙に目を通し、ぶつぶつをやってから、またもやおっかなびっくりにボタンを押す。カードキーを挿入。今度は大丈夫だった。緑のランプが点滅して、一生開かないかと思われたドアが開く。やわらかいカーペットが敷かれたラウンジへ足を踏み入れると、もう大変な仕事を成し遂げたような気分になった。妙な緊張のせいで身体の奥が疲れている。ラウンジは、広かった。通りに面した側は一面ガラスで覆われていて、おそろしく開放的だ。プランターが置かれていて、観葉植物やきれいな花が咲いている。ほっとするオレンジじみた照明。左側の一画に、ホテルのようにソファが並べられている。まさしくホテル並のフロントもある。管理人らしい男が暇そうに立っている。うつくしい油絵の少女が、三台あるエレベーターの前で微笑みかけている。空調の調節は抜群。暑くもなく寒くもない。
 少年には、ここからさらに試練が待っている。上層階専用のホールから、専用のエレベーターに乗りこまなくてはならない。まったく気が遠くなりそうだ。ラウンジをつっきって、右奥のドアの前へ。またもやカードキー(最前のとは別もの)と暗証番号の登場。ぶつぶつが繰り返される。すこしは慣れたのか、一度でうまく行った。意味のない優越感が湧く。ざまあみろ、と勇気ある田舎少年クラウドは云う。おれはもう制覇したんだ、このマンションのセキュリティを。理解した。都会専用の、防犯システムとかいうものの仕組みを。
 ドアをくぐった先は、またもエレベーターホールだ。照明は薄暗く、雰囲気はぐっと神秘的だ。呼び出しボタンを押す。音もなくなめらかに開くドア。クラウドは吸いこまれるように乗りこむ。誰も来ないのを確認して、よく知ったように階数ボタンを押したいところだが、そうはいかない。ここで求められるのは、またもや暗証番号だからだ。例のぶつぶつ確認をもう一度。まったく頭が痛くなる。家に帰るだけでこうも数字を覚えなくてはならないとは、金持ちや権力者の苦労は大変なものだ。そんな家に生まれなかったことを、クラウドは誇りに思いはじめている。開けっ放しの窓や、いつでも飛びこめる玄関。窓の外に見えるニブル山。重く雲が垂れこめた空、輝かしい夏の青空、そして雪の降る冬。家の裏には畑があって、細々と野菜を育てていた。ニブルヘイムは、肥沃な大地とは云わないまでも、食うに困らない程度の食料は与えてくれる。種をまくと、芽が出る。それがとても不思議だった。その力は、種にあるのかそれとも大地にあるのか? そんな疑問を、このコンクリートだらけの都会では、とても持てそうにない。カマキリやバッタやアリだって、いそうにない。ガも飛んできそうにない。トンボも蛇も、いそうにない。そういうことは、とてもつまらないことなのではないだろうか。こんな石の塊のようなマンションに帰ってきて暮らすよりは、田舎者とばかにされても太陽と大地を感じられる生活の方が、数億倍もましだ。こんなものものしい墓のようなところを根城にしているひとたちは、かわいそうだ。
 クラウドは優越感の虜になりかけながら、エレベーターを降りた。正直なところ、エレベーターは大嫌い。閉所恐怖症の気があるからだ。自慢の乗り物酔いも、おそらくそれに起因する。頭を振ってエレベーターの昇降にともなう奇妙な感覚を追い払う。目を開けると、落ちついたダークブラウンの廊下が待ち受けていた。すこし先に、玄関。ここでようやく、まだしも「鍵」と呼べそうな代物の登場だ。かたちはかなり特殊だが。妙に平べったくて溝のつきかたがいかれている。おそらく、偽造防止なのだろう。
 鍵を差しこむ前に、ふいにため息をついてしまう。この部屋に、いかなる理由があって入ろうとしているのか? この部屋にふさわしい人間か。大きな黒っぽいドアが威圧感を持って語りかけてくるように思える。冗談、おれは鍵を持っている、くたばれ、と覚悟を決めて差しこむ。ドアは抵抗をやめ、すんなりと開く。ドMめ、とクラウドはまたも優越感を丸出しにして考える。とにかく、ここまで到達した。この部屋の中にまで。

 この勇気ある冒険譚に先立って、ひとつのエピソードがある。クラウドのもとに、先日手紙が届いた。差出人の名前は書いていないが、おそろしく達筆な文字が白い封筒の上で踊っていた。ほんとうに、踊るようだったのだ。なにかひそかな決意を秘めて、なめらかに。楽しむ踊りではなくて、なにかの儀式のための訓練された踊りのようだったけれど。
 クラウドはそれでもうぴんときた。こんな流暢な文字を書く知能指数の高そうな知りあいはいない。となると、おそらく先日知り合いになったばかりのひとからのものであるはずだ。焦れたような気持ちで、わざとゆっくりと封筒を開くと、中から、数枚の紙が出てきた。こう書かれていた。

ザックスの友人 クラウド・ストライフへ
 
 ぶしつけながら前置きの諸々は省略する。先日別れ際に話した部屋のことを、説明しなくてはならない。そこはこのあいだまで、ミッドガルでの私の部屋だった。いまとなってはもう必要ないのだが、なにぶん他人から譲り受けたものなので、自分の意志で自分のものであるのを放棄できない。これは面倒なことだが、不愉快ではない。いつか機会があれば、その部屋の歴史を説明しよう。ここに書くには複雑すぎて、長すぎるからだ。
 渡したカードキーと鍵は、全部必要なものだ。そのすべてが揃っていないと、部屋にたどり着けない。ほかに、暗証番号が三つ必要だ。まったく冗談のように思える。手順は、別紙に詳しく書いておく。途中で嫌気がさして投げ出さないことを祈る。
 あの部屋にまたひとが入るかもしれないというので、以前頼んでいたハウスキーパーの女性に、再雇用をほのめかしておいた。グロリア未亡人という、中年女性だ。この手紙が届くころには、あの部屋にひと通りのものを揃えてくれているだろう。週末には、会えるように部屋でねばっていると云っていた。うまく接触できるといいが。必要なものがあったら、彼女に頼めば話が早い。料理好きで、なんでもこしらえることができる。好きな料理があったら、作ってくれるように頼むと喜ぶ。もしうまいこと会えたら、彼女を必ず「グロリア未亡人」と呼ぶように。決して「ミセス」だの「マダム」だの、まして「さん」づけで呼んではならない。彼女は「未亡人」という肩書きに、独自の美意識を持っている。われわれは、互いに他人の美意識や世界を尊重しなくてはならない。
 ところで、君の名字だが、ずいぶん勇ましい名字もあったものだ。一族の中に、根っからの戦士でもいたのか? もちろん、「溝」だの「まぐれ」だの「ベッドへ行け」だのという意味の名字がつくよりはよほどましだが。ニブルヘイムに、同姓の人間はたくさんいるのだろうか。もしもそうだとしたら、私の中のニブルヘイムの認識を改める必要を感じている。雪の降る、幻想的な田舎を想像していたが、そんな勇ましい名字の人間がたくさんいるとなっては、もう少しものものしい雰囲気をつけ加えなくてはなるまい。
 君にはいろいろと相反する属性を感じられて面白い。もしかすると、君は思った以上に兵士に向いているのかもしれない。だが、ぜんぜん向いていないかもしれない。ひとを絶対に殺さない兵士というのが可能だと思うか? 追求してみるのも悪くない気がする。うなるほどの技術が必要だが。考えてみてくれ。
 ザックスが、また一緒に来るというようなことを云っていた。部屋の件は、あれにはしばらく黙っていたほうがいいだろう。もし静かな時間が欲しいなら。ひとりきりになる時間がないと発狂してしまう人間は、なかなか理解されないものだが、それは本性の資質であって、どうにもならない。ひとりになって、過剰に働きすぎる脳と神経を休めること。そうしないと、君はパンクする。これは忠告だ。無理をしないように。そしてひとりきりのときくらい、自分に正直になるように。

 クラウドは手紙を、控えめに見積もっても五回は読んだ。細いペンで書かれた文字は流れるような調子で、力強いリズムを持っていた。母親以外から手紙を受け取るのははじめてだった。それも、書き手はあのひとだ。神羅の誇る英雄。それが自分にこうして個人的な手紙を書いている。不思議なことだ。けれどもそもそも、ザックスと知り合いになったのが不思議だ。面白味のない寮生活の中で、唯一人間らしさの片鱗を、思い出させるもの。気持ちのいい会話、笑い。そういうものを、ほんとうはもっと、求めているのじゃないだろうか。もっとほかの誰かと。いろんな人間と。まあそんな器用なことは、できない性格だけれど。
 セフィロスのことは、よくわからない。少なくとも、怖いひとではない。近寄りがたくもない。こうして、ザックスの友人ということで、自分を気にかけている。不思議だ。なぜひとりになりたいと思っていることを見ぬかれたのだろう。あの日云ったように、似ているからか。セフィロスもひとりが好きなのか。周りにあふれかえる音、会話、視線、いろいろなもののにおい。世界には、あまりにも情報が多すぎる。ひとも多すぎる。もっと単純でいいのにと思う。空と太陽と大地。そこをうごめくもの。ことばは、どうして必要なのか? お互いに理解しあいたいからか。それとも、傷つけあいたいのか。自分の優位性を、あかしして。
 クラウドは机の鍵のかかる棚から、例の鍵一式を引っ張り出した。誰も自分に注目していないことを確認して、ベッドに寝転がり、それを眺める。いろいろなものが、この鍵ひとつにこめられている気がする。憧憬、好奇心、驚き、この身体の中の失望と孤独。セフィロスにも流れているかもしれない、失望と孤独。彼の目は、たしかに倦んでいる。微笑も、倦んでいる。なにかをあきらめている。セフィロスばりにいろいろなことを理解はできないが、それはわかる。においを、感じる。この身体にしみついたものと同じ、倦怠の匂い。自分のそれは、だるい。面倒だ。気にしない。考えない。セフィロスのそれは、すこし違う気がするが。
 クラウドは手紙を、鍵と一緒に机にしまいこんだ。彼の部屋を、使う権利がありそうな気がしていた。クラウドは少し眠るつもりで目を閉じて、思い返した。先日訊ねたセフィロスのボロボロの家、そこでの会話。森の雰囲気、優しいミス・メリーウェザー。

 表立って親切ではないが、気遣いのこもった手紙が彼を、ここまで導いた。高級マンションの、ワンフロアまで。おそらくこの部屋以外にもまだ部屋があるのだろうが、住人同士がすれ違ったりしないように配慮されているようだ。つきあたりは壁。まるでフロア全部を貸しきっているような気になれる。クラウドはドアをくぐる前にもう一度あたりを見回してから、そっとドアを閉めた。
 入ってすぐにリビングだった。広い。大きな黒いソファとローテーブルが真ん中にでんと置いてあった。テレビ、キャビネット、いくつかの棚。ほんとうにひと通りそろっている。はじめからセフィロスがこのようにして住んでいたのではないかと思われるほど。左手奥にキッチンと食堂。バスルームなどもそちら側に固まっている。カウンターの上に、電話が置かれている。小さな緑のランプがともっている。右手には部屋がふたつ。寝室用らしいのと、もうひと部屋。寝室らしいとわかったのは、ベッドがあるからだ。キングサイズだ。たぶん。法外に大きいから。これはセフィロスのベッドか、それとも未亡人が用意してくれたものか。セフィロスのベッド、という可能性を考えて、クラウドはなんとなく居心地の悪い思いがした。ここで寝泊まりをするつもりはないから、もちろん必要ないのだが。
 彼は、ソファに座ってみた。ふかふかして、座り心地が良かった。首を右側へひねると、窓があって、空が見える。クラウドはここがずいぶん地上から離れた場所であるのを思い出した。窓を開けて、ベランダへ出てみる。すこし風が吹いている。手すりにもたれて、ぼんやりと下を見る。通りを歩く豆粒のようなひとびと、ミニカー並みに見える車、こんな高いところに生活していて、ひとはほんとうに落ちつくのだろうか。クラウドは地べたがいい。どんなに汚くても、土の匂いがいい。セフィロスはここで、どんな思いで暮らしていたのか考えてみる。いまの彼は、まったくの田舎者だ。毎日大地と戯れているだろう。見事な転身だ。家も、そして仕事も。大都会の高級マンションからひとのいない田舎のボロ屋へ。第一級の兵士から、ただの農夫へ。彼はなにを求めているのだろうか? 否、なにから逃れたがっているのだろうか。名声、地位、戦争、たぶん権力。そういうものは、きっとくだらないものなのだ。それを、行動の理由にしてはいけないのだ。セフィロスもあるときは、こうして外を見ていたかもしれない。そうしてぼんやりと、考えごとをしていたかもしれない。ちょうどいまのように。クラウドは彼にあこがれていた。あんなふうな強さがほしいと思った。けれども、その強さが、いったいなにを犠牲にしているのか、その片鱗を感じ取ってしまったから、複雑な気持ちがしている。無類の強さを誇る男の倦怠を誘うもの。兵士に向かないということば。物憂い微笑。そしておそらくは、含み持っている優しさ。
 クラウドは例の手紙を引っ張り出した。もう一度、字面を追ってみる。その文面をかみしめてみる。過剰に働きすぎる脳と神経を休めること……このひとことは、かなりずしりとくる。普段は奥深くにしまいこんでいる、自分の心の核。クラウドは気を張って生きている。自分に、そして周囲に。かたときも休むことなく。休み方を知らないわけではないのに、休める環境を作れない。なぜそうなるのか、自分でもよくわからないけれど、でも自分と同じ人間がいない。みんなばかに見える。なぜ、どうでもいいことで争うのだろう? なぜ、あんなに楽しそうなのだろう。なにが楽しいのか、わかっていて楽しんでいるのか? 自分がおかしいのか。冷めすぎているのか。興味の幅が狭いのは、おかしいことなのか。ひとりが好きで、いつもどこかにひとがいることに耐えられない。孤独なんて、あまり感じない。とても冷めている。散文的。
 自分の中に、なにか熱いもの、ある種の熱が、ないわけではない。でもそれが、うまく出てこない。温度差を感じる。あらゆる場面で、あらゆるひとたちとのあいだで。なぜセフィロスは自分の心の、この場所に、ひと足飛びに入りこんでくることができたのだろうか。誰にも触れられたくない場所だった。けれどもこの感じは、セフィロスが入りこんできたこの感じは、嫌ではない。ザックスのようだけれど、ザックスとも違う。ザックスは、引きこまれる。本人がとても強い磁場を持っているから。けれどもセフィロスはもっと、自然な流れの中の、一部のようだ。水流と水流がまじわるところのように、流れがひとつになるところのように、彼はこちらへ流れてきて、自分は向こうへ流れていって、自然にまじわって、まとまる。そんな感じを受ける。
 セフィロスの家からの帰り道、ザックスが云っていた。あのひとは、たぶん静かな生活とか、誰にも気にとめられない人生にあこがれてんのさ、と。
「だから、あんな田舎に引っこんでるんだよ。もちろん、根っから田舎もんなのかもしんないけどさ。あのひと、たぶん、うるさいのだめで、ごたごたがだめなの。衝突が嫌いなんだよ。ひとから見られるのも嫌い。ほっといてくれ、って思うタイプ。自分で自分のこと満足させられるやつ。自己完結できる感じ。そのへん、誰かさんっぽくてさあ」
「誰かさんて誰」
「あん? ま、どっかの誰か」
 だから、ここへ来られた。過度に遠慮することは罪であるのを、クラウドは知っている。与えられたものは、あまりにも分不相応でなければ素直に受け取るべきだ。なぜなら、そうすることで、与えたひとは喜ぶから。自分のことを考えたってそうだ。してあげたいのに、断られたら腹が立つ。信頼のあかしは、きちんと頼ることだ。要求を通すことだ。折れるべきときに折れることだ。そして、ときには身体を張って守ることだ。そういうことを、母親に教わった。そうしてもいいと思えるひとが少ないことは、問題かもしれないけれど。
 電話が鳴った。クラウドはびくりと肩を震わせて、振り返った。キッチンの方で、機械的な音が規則正しく響いている。クラウドは眉をしかめた。セフィロスへの電話だろうか? それとも、未亡人からのものだろうか? もしかすると、セフィロスからか。クラウドはあわてて電話のところへ走った。
「……通じたようだ。かけ方は間違えていなかった」
 受話器の向こうから、おかしさを噛み殺したような声が聞こえてくる。
「……あの、どうも」
 なんと云ったらいいかわからなかったので、とっさに挨拶と礼をまぜこぜにしたようなことばをつぶやいた。
「今日あたり、いるのではないかという予感がした。手紙は届いたらしいな」
「見ました。あの、ありがとうございました」
「気にするな。責任の一環だ。元おれの部屋はどうなっている? ウジ虫が沸いているとか、ネズミが占拠しているとかいうことは?」
 クラウドは笑った。あのセフィロスがこういうことを云うのは、なにか変だった。
「ないです。きれいです。家具が全部揃ってて、いままでひとがいたみたいです」
「グロリア未亡人のおかげだ。せいぜい好きに使ってくれ」
 クラウドはふいに気になったので、訊ねてみた。
「あの、この家具の資金は、どこから出てるんですか」
「たぶん、おれの口座から。そちらの管理も未亡人に任せているから。どこかの株か土地にでも運用されて、毎年膨らんでいるだろうな。そんな必要はないのだが」
 クラウドはちょっと気まずくなった。
「気にすることはない」
 その気配を察したようにセフィロスが云った。
「金は、この時代にあって、本来以上の価値を持ちすぎている。ただの紙屑だ。なくても、ぜんぜん問題はない。おれの口座から何枚か、別に何百枚でもいいのだが、紙幣が飛んでいったところで気にならない。ほかに必要なものがあったら、未亡人にどんどん云いつけるといい。実は、早く口座を空にしてしまいたいところだ。そのほうが身軽になれる。協力してくれ」
 クラウドはちょっと考えた。金はただの紙屑だということについて。それから、早く金をなくして身軽になりたいというセフィロスについて。そうして納得した。つまり、セフィロスはこの世界の全部のしがらみから、逃れたいのだ。自由になりたいのだ。クラウドにはそれがよく理解できる気がした。なぜなら、世界はあまりにも煩瑣でいろいろなことがありすぎて、面倒すぎるからだ。
「わかりました。目玉飛び出すぐらいの値段のブランド品とか請求します。それって、あなたの金で、でもそうじゃないんですよね」
 電話の向こうでセフィロスが笑った。
「そうだ、それでいい。宙に浮いた金だ。もっと早く、こういう方法を……つまり、誰かのためになるということだが……思いつけばよかった」
「おれ、口座に入ってる金額知らないですけど、でもたぶん、あと何人か好きに使っていいひと作ったほうがいいんじゃないですか。それこそ未亡人とか、ザックスとか……」
「あれはたぶん自分で稼いだ金以外受け取らない。自分の身体で金を稼ぎ出すのが好きなんだ。根っからの労働者だ。そういえば、いまさら気がついたのだが、こういう施しは、君のプライドに抵触するだろうか。するのなら、そう云ってもらいたい」
 不覚ながら、クラウドもこのときはじめて、自分のプライドという問題を思い出した。目上の人間から、遊び場を提供される。欲しいものを、買い与えられる。自分の金ではない金で、望みのものが手に入る。云いかえれば、それはヒモのようなものだ。一方的にものを与えられる。だがそこに好意が絡んでくるのなら、話は別だ。それなら、プライド云々というものを持ち出すほうが間違っている。自分の男としてのプライドをへし折ることより、他人の好意をはねのける方が、感じが悪い。好意から与えられるものは受ける。それが、相手に応えることだ。そういうふうに教わった。これは好意だと、クラウドは信じられる。似たようなひとからの、そしておそらく過去におなじようなことで苦しんだろうひとからの、好意。だからクラウドは力強くこう云った。
「しません。ぜんぜん。ありがたいです」
 それはよかった、とセフィロスが云う。彼はたぶんほんとうに、なにかしてやりたいと思っているのだろう。自分と関わりになった人間に。たぶんザックスにも、別の形でいろいろなことをしているだろう。きっとそういうひとなのだ。根っからの、いいひと。
「いまさらな質問、いいですか」
 これ以上この話の雰囲気を長引かせても、お互いに気まずくなっていくだけだ。だからクラウドは話題を変えた。
「なんだ」
「どっから電話、かけてるんですか」
「散歩がてら、一番近くの村まで来た。公衆電話を借りるのに、片道三十キロの距離だが、なかなかいい散歩になる」
「ミッドガルには来ないんですか」
「行かない。近寄ると吐き気がする。心理的ストレスのせいだ。出社したくないので、頭痛を起こしたり、腹痛を起こしたりする……そんなに面白いか」
「面白いです。なんかツボなんです、サーのしゃべり方」
「称号はやめてくれ。会社を思い出す」
「ザックスのボスはいいんですか?」
「あれは、ああ云いながらおれのことを半ばネタにしているだけだ。称号だとか役職としての意味はない。だからといって、ボスと呼ぶことに切り替えていいとは云っていない」
「そんな度胸ないです。普通にさんづけにします。それとも、うわさのグロリア未亡人みたいに、特殊なこだわり、ありますか?」
「ない。君はあるのか?」
「おれですか? 君とか云うのはやめてください。なんかくすぐったいんで。あと、名字で呼ばれるのは訓練を思い出して、好きじゃないです。やな上官がいて。自分の名前、気に入ってるんで、それが一番いいです。そうだ、ニブルヘイムに、知ってる限りでストライフ姓はうちだけです。それにこれ、母さんの名字で、母さんはニブルの出身じゃありません」
「わかった。ではニブルヘイムの印象を改める必要はないわけだ。助かった。イメージが破壊される機会は少ない方がいい……ああ、小銭がなくなる。出社しない以上、給料は当てにできないからな、倹約に倹約だ。ほかに質問があったら、未亡人にしてくれ。たぶん、午後には部屋にやって来るだろう。並外れておしゃべりだから、気をつけたほうがいい。だが、秘密は絶対に口にしないひとだ。それが不思議だ。あんなにべらべらとしゃべり倒すのに、不用意なことはいっさい口にしたことがない……まあ、会えばわかる。せいぜい楽しくやることだ」
 クラウドは最後に礼を云って、電話を切った。普通のひとだ。ぜんぜん。セフィロスは、普通だ。そこらへんにいる、いいひと。ちょっと頭が良すぎて、感じすぎる。そういうひとだ、おそらくは。だから、いろんなものを避けている。よくわかる。自分もそうしたいほうだから。似ているのだ、たぶん。だからこうしてよくしてくれる。それは受けなくてはいけない。そして、返さなくてはいけない。平然としているという、態度で。感謝のことばで。この部屋を好きにするという行動で。
 クラウドは部屋をぐるりと見回した。とりあえず、壁に釘をぶちこんで、時計をかけよう。前々から飛び出し式の踏み台を作ってみたかったのだが、設置してみよう。ここで、ラジオを作ろう。テレビを分解してみたい。好きな位置に棚を組み立てて置こう。ベランダで、ミニトマトを栽培。魚を飼いたい。グッピーとかグラミーとか、そういうきれいな熱帯魚。水槽を眺めて、何時間も暮らしたい。アクアリウムを作るのだ。あの完全に完結した、ひとつの世界。電話の横に、メモ用紙があった。クラウドはそれを持ちだして、ソファに座りこみ、計画を練った。いますぐ買いたいもの。余裕があったら欲しいもの。セフィロスの預金残高を、知らなくては。
 午後になれば、うわさのグロリア未亡人が来るだろう。それまでに、リストアップしなくてはならない。この部屋に必要なもの。そうして、グロリア未亡人との新しい関係。セフィロスとの奇妙な関係。すべてがとても楽しくて、いかれている。クラウドは微笑んだ。信じがたい幸福だが、これは自分のものだ。うそじゃない。夢でもない。たぶん、埋め合わせだ。友だちが少ないことの、孤独への。ほら、だから、人生は悪くない。いやなことが続くけれど、乗り越えられる。ちょうど乗り越えられるだけの試練と、その褒美。おそらく、たぶん。