未亡人は低い音楽的な声で

 未亡人は低い音楽的な声で、そういえばセフィロスさんがいらっしゃるんですってよ、と云った。自らの手になるアクアリウムに見入っていたクラウドは、顔をあげた。パイが焼けるいい香りがしている。そのほかに、じゃがいものサラダと、パンケーキがあるはずだ。そば粉が手に入ったから、ガレットを作ってくれると云っていた。ハムと卵がのっかった、焼きたてのガレット。どうあったって、母さんのことを思い出してしまう。それに山羊のミルクがあったら、もうどうしたって故郷を思い出さずにいられない。
「なんか用事ですか?」
 クラウドはアクアリウムの前で頬杖をついたまま訊ねた。グロリア未亡人とは、もうずいぶん親しくなっていた。ふたりは週末になるたびにこの部屋にやってきてはいろんなことを話した。お互いの家族のこと、ふるさとのこと、恋愛の話、好きな映画。未亡人は亜麻色のきれいな髪をしていて、それをきっちりと後頭部でまとめている。鼻筋が高くて、色白だ。目はきれいなとび色。小柄で、手も足も小さい。なんとなく、守ってあげたくなる。左の薬指には、当然、指輪。クラウドは、この未亡人が好きだ。やさしくて、母さん以上に母さんを思わせる。母さんらしい雰囲気を持っている。穏やかで、優しくて、思慮深い。金曜日以降の週末の夕食は、最近もっぱらここで食べている。グロリア未亡人の料理はおいしいし、食堂で食べるのと違ってゆっくりできる。なにより、自分のためのものなのだ。未亡人が料理にかける時間、その味のひとつひとつ。クラウドはだから金曜日が待ち遠しい。週の後半に入るともうそわそわしだす。まるで週末のたびに実家に帰る連中みたいだ。家が恋しくて、月曜日には死んだような顔になっている連中。クラウドはいまなら、その気持ちが少し、わかるような気がする。
「この部屋にいらっしゃるそうよ。あなた、ほら、ちょっと派手にやってるでしょ? だから気になったんじゃない? でも気にすることないのよ、あの方は、細かいことにいちいち目くじらたてるような方じゃないから。それにたぶん、喜びますよ、自分の部屋が、部屋らしくなってる、というので。前は、そうね、こんなに部屋らしくなかったもの。ちょっと雑然とした感じとか、そういうのがあるほうがお部屋らしいでしょ、でもあの方は、そんなにお部屋を汚さなかったわ。汚すほどいなかったの。わたしは、あの方が田舎に行ってよかったと思ってるのよ。どこかはわからないけど。てんで向きじゃなかったわ、こんな都会の品のいいお部屋。こんなところで飼い慣らされるような方じゃないもの。それに、ひとりには広すぎるし……もちろん、そりゃあ背の高い方だけど……だから、それで……なんの話だったかしら?」
 これが未亡人の話し方だった。あんまり話し続けるので、しまいにははじめに云っていたことを忘れてしまう。クラウドは笑って、セフィロスが部屋に来る話を思い出させた。
「ああ、そう、たぶん、興味があるのでしょ。部屋の使われ方に。きっと気に入るわよ。ここはどんな部屋より部屋らしいもの。住んでるひとが、凝り性で器用で、でもちょっとぬけてるのがよくわかるし」
 クラウドは首を傾けた。
「わかりますか?」
「もちろん。男の子の部屋だわ。細かいこだわりがあって、一番よく使われてるのが工具類ときてるもの。ところで、あの掃除機はちゃんと元に戻るの? 困りますよ、壊れたら。あれですごく性能がいいんだから。昔のものですからね、なんたって」
 クラウドはきっぱり部品単位に分解されリビングに放置されている掃除機を見やった。食事のあとは、あれをまた組み立てるのだ。掃除機を分解してみてもいいですか、と訊いたとき、未亡人は興味津々の顔をした。そんなところも好きだ。母さんのようだ。話を聞く前からだめだとかやるなとか云わない。それに誰だって、結局他人の情熱を殺すことはできない。クラウドが掃除機の仕組みに興味を持ち、知りたいと願うのを止めることは、誰にもできないのだ。そういうことを、未亡人はわかっている。それに母さんも。
「今日のうちに元に戻します」
 彼は約束した。オーブンが、中のものが焼けたのを知らせる。未亡人は忙しそうに動き回り、皿に盛りつけをしたり、洗い物をしたりする。クラウドは待ちきれなくなって、台所へ歩いていく。きつね色になったパイ。彩りのきれいなサラダ。残ったイモを、未亡人は忘れずにフライにしてくれていた。ガレットが皿に盛られる。ほかにも小料理がたくさん。盛りだくさんだ。これが全部胃袋行きだと思うと、わくわくする。
「今日、いっぱいありますね」
「そうね、もしかしたら今日いらっしゃるかもしれないのよ。ほら、お腹をすかせてくるかもわからないでしょ」
「今日の話だったんですか?」
「わたしもね、詳しくはわからないの。なにしろ、田舎から来るでしょう? 歩いてよ、歩いて! 何十キロも! それがいいと云うの。昔のひとはみんなそうしていたと云って。あの方なら、ウータイにだって歩いて行きかねないわ。たぶん、ここに一泊か二泊はするでしょう」
 クラウドはやっぱりセフィロスはちょっといかれているのじゃないかと思った。面白いひとだ。変なひとだ。徹底して、文明に対抗しているみたいだ。電気なし、ガスなし、水道なし。電力会社の兵士なのに! クラウドは彼に会いたくなった。いろいろなことを訊いてみたくなった。たとえば、どうして兵士になったのか。牛が好きなのか。なぜあんなふうに髪を伸ばしているのか。
 未亡人が、食事の合図をした。クラウドはテーブルに飛びつくようにして、食べはじめた。未亡人は食事のあいだじゅうクラウドの向かいの席で話を聞いてくれるが、食べるということはしない。それは規約違反だ、という。なにが違反なのかクラウドにはわからないけれど、きっと未亡人なりの配慮か、職業婦人のプライドだろう。クラウドはテーブルのあちこちの皿をあっという間に征服してしまう。間違いなく一日二キロ以上は食っている。腹が減ってしようがないのだ。まさしく成長期だ。身体が、食料を欲している。それが確実に自分の身体になっているという実感がある。
 ふいにインターホンが鳴った。未亡人は意味ありげな目配せをして、立ち上がった。リビングに取りつけられたインターホンのボタンを押して、明るい声を出す。
「まあよく今日中に着きましたこと。入れないですって? 自分のお部屋なのに? ああ、鍵が……そりゃあ、この世の終わりまであなたを外で待たせておくことだってできますけど、そんなかわいそうなことするとお思い? 例の子? 来てますよ、食事中だから、ご一緒にどうぞ。裏口からいらしてます?」
 未亡人は通話を終えて、横のパネルでなにか操作をした。
「彼が来ますよ」
 未亡人はほころんだ顔で云った。
「まったく困ったひとだわ。鍵のスペアがなかったなんて、云ってくださればいいのに。あなたにあげたのしか持ってなかったんですって。自分の部屋にも満足に入れなくて、外で待ってるのよ、あの方が! 信じられる?」
 クラウドは首を振って、とても信じられないと云った。未亡人は、セフィロスに陶酔している。間違いない。あるいは、まるで息子のように思っている。口調から、それはあきらかなことだ。そして未亡人はいまでは、クラウドにたいしても、似たような感情を持っている……手のかかる息子。そういうのは、悪くない。
 それにしても、急すぎる。セフィロスがここに来る可能性があるなんて考えたこともなかった。分解した掃除機を、いったいどう釈明したらいいだろう? 時計をかけるために壁に太い釘をぶちこんでしまったこととか、玄関に自家製傘立て(ペダルを踏むと傘が飛び出す!)を置いてしまったこととか、納戸に飛び出し式踏み台を設置してしまったこととか。でもこれは傑作だ。レバーを引くと、ばたんと板が飛び出してくる。クラウドはこれを作るのに、少なくとも一ヶ月はかかった。このあいだできたばかりなのだ。あれを撤去しろと云われたら、身をもがれる思いがするだろう。
 未亡人は、クラウドの表情にそんな考えを読みとったのか、大丈夫よ、と明るく云った。
 玄関のドアが開いた。未亡人がさっそく駆けていって(これは誇張でもなんでもなかった、ほんとうに走ったのだ)、玄関でまくしたてた。
「まあまあ、ほんとによくいらしたこと! もちろんあなたの家だけど。さあ、お上がりになって……お荷物は? それしかないの? いまお食事をはじめたところですよ。あなたの金髪君ときたら、ほんとに牛馬級に食べるのねえ、成長期っていいですわね、もちろん、あなたも昔はそうだったのでしょうけど。お部屋はいろいろ面白いことになってるのよ、掃除機がばらされて置いてあるけど、気になさらないでね、クラウドがやったの。それこそ解剖の授業並みにばらばら。分解が好きで。わたし、掃除機の中がどうなっているのかはじめて見たんですよ! 世の中は、ほんとに知らないことばかり。わたしには息子がいないし、夫も早くに亡くしたから、男のひとがどんななのか、ほんとのところよくわかっていないのだと思うわ……」
 未亡人は、そうやって誰にでもことばの洪水を浴びせるのに違いない。ザックスみたいだ。このふたりに共通しているのは、おしゃべりがぜんぜんうるさくないこと。端々にほどよいユーモアを含んでいて、気が効いている。クラウドは、彼を出迎えに行ったものか、それとも黙ってここで食事を続けているべきか悩んだが、座りっぱなしはさすがに態度が大きすぎるかもしれないと思い、未練がましく口の中にポテトを二、三本つっこんでから、一応立ち上がった。指先をなめてきれいに(猫のように)し、ズボンでこすって、口の周りは袖でぬぐう。七分丈のシャツに膝のずりむけたジーンズというおそろしくラフな格好だが、しかたない。ずりむけにいたっては、買ったときからそうなのだから、自分の責任ではない。責任があるとすれば、それを選んだということだけだ。
 ともかく、普通にしなくてはいけない。普通に。セフィロスがセフィロスなのを気にしてはいけない。なぜなら、それがおそらくは彼の希望だからだ。部屋を貸してもらっている以上、その意向には従うべきだ。
 ドアを開けて玄関に通じる廊下をのぞくと、ふたりはまだ玄関にひっかかっていた。未亡人と並ぶと頭三つぶんは軽く抜けているセフィロスが、自家製傘立てを興味津々で眺め回している。彼は足もとの小さなペダルに気がついて、躊躇なく踏んだ……立てかけておいた空色の傘がびよんと飛び出した。未亡人がはらはらした顔をする。動じず傘をキャッチして、そうしてセフィロスはこちらをのぞいているクラウドに気がついた。
「いまどきは、こんな機械じかけの傘立てを売っているのか?」
 クラウドは首を振った。
「自家製です」
 セフィロスはもう一度傘立てに目をやり、それから空色の傘に目をやった。
「上出来だ」
 クラウドはにやっと笑った。
「ほんとに器用な子なんですよ」
 未亡人が自分の息子を自慢するような口ぶりで云った。

 セフィロスは部屋のなにを見ても怒らなかった。アクアリウムを美しいと云い、壁の釘は時計のためには当然だと云い(おそろしく重たい時計なのだ)、飛び出し式踏み台を眺め回し、これも上出来だと云った。分解された掃除機にたいしては、この手の機械にたいする知識欲が欠けていることを素直に認めると云った。
「この手のものは」
 とセフィロスは細切れになったノズルを持ち上げて熱心に眺めながら云った。
「命じられるままにほこりを吸いこむなり、がなりたてるなりする以外に存在価値がないとばかり思っていた。統一体からはずれたときの形の美学、というものもあるのだな」
 クラウドはうれしくなった。彼もがみがみタイプでなくてよかった。そういう連中にはうんざりする。自分の価値の正しさを主張するのでいっぱいいっぱいな人種。どんなことにでも不満を見つけだして、ひとこと云わずにいられない。クラウドはあんまりうれしかったので、食事を再開しながら機械部品のつなぎ目が、スムーズに接続されるための努力が、どんなに美しいか説明した。ミクロ単位の世界での調整の情熱。職人の情熱だ。セフィロスは頬杖をついて、物憂い微笑を浮かべながらそれを聞いた。未亡人はふたりの邪魔になるまいと、こそこそと台所で後片づけをはじめた。
「おまえはそういう道に進むべきだった」
 君というのはやめろというクラウドの主張を、セフィロスはちゃんと覚えていた。
「とはいえ、傭兵にも似たような部門がないわけじゃない。狙撃あたりは、かなり職人技に近いな。それから、暗殺専門。あれは、ひとつの芸術だ、秩序立った美学がある。目的がひと殺しというのがあまり美しくないが、とはいえ、そこに独自の快楽を感じる人間もいる」
「それは頭がいかれてるんだと思います」
 クラウドはひっきりなしに食料をつめこむ合間を縫うようにことばを発した。
「そうかもしれない。だが、正常と異常の境目はどこだろう? いつも疑問に思うんだが。おまえは自分がまともだと思うか?」
 クラウドは顔を上げた。
「ぜんぜん」
「なぜそう思う?」
「いかれてる自覚があるから。おれのどっかがいかれてて、なんかずれてるのはわかるんです、なにかはよくわかんないんだけど。なんか違うんです、どこにいても、ここが自分の居場所じゃないって気がする。でも、どこも自分の場所な気もする。その気になれば」
 セフィロスは腕を組んで、考えこむような顔をした。
「それはわかる気がする。どこでもいいと、どこもだめとは紙一重だ。自分にぴったりの場所を見つけるのに、一生を費やす人間もいる。結局自分が何者なのかわからない、という問題なのだが。根本的な問題だ。自分がなんなのか。どこから、なにをするために来たのか」
 クラウドは眉をしかめた。
「そんな難しい話になるとよくわかんないけど、とりあえずおれはいかれてます。ていうか、みんなつっついたらどっかいかれてるんだと思う」
「おれもそう思う。要は、範囲と数の原理の問題だ。厳密に云えば、人間は全部個別にバランスとアンバランスで成り立っているんだと思う。おれもいかれているが、おれからすれば、金のために奔走している連中のほうがよっぽどいかれている」
「でも、おれ、セフィロスさんのいかれかた嫌いじゃないですよ。ザックスだったら、超ファンキーだって云うと思う」
「それは実際云われた」
「やっぱり」
 ザックスの名前が出てきので、話は自然に、いかにしてクラウドがザックスと知りあいになったのかという方向に進んだ。セフィロスはひとの話をじっと動かずに聞く。そこに全神経を集中させているように見える。聞こえてくる話と、情報処理に。そういうひとは、嫌いではない。自分がちゃんと扱われている気持ちになるからだ。クラウドは、中途半端な扱いには耐えられない。完全に無視するか、ちゃんと扱うかのどちらかにしてほしい。どちらかなら、こちらも楽だ。一番いやなのは、煮え切らない態度で曖昧に濁されること。これは、どういう態度をとったらいいのかわからないから、いらいらする。気にかければいいのか、そうしなければいいのか。セフィロスは、ちゃんと扱うほうのひとだ。それなら、こちらの取る態度は決まっている。
「なるほど。ザックスがバイク仲間と云っていたのはそういう意味か」
 ふたりして、バイクを乗り回し、街へ出かけること。クラウドはそういうのが好きだ。ひと並みに青春なんてものを謳歌している気持ちになる。ザックスは、あんなだけどいいひとだと思います、と結ぶと、セフィロスは微笑んだ。
「それはほんとうだ」
 クラウドはなんだか妙にうれしくなる。いい友だち。そして部屋を貸してくれるいい知りあい。その部屋のいい家政婦。軍じたいは、ちょっとどうしようもないことがたくさんあるけれど。ほかに友だちもいないし、寮の居心地は最低だ。故郷でだって、友だちなんかひとりもいなかった。けれども、クラウドはいまこの瞬間に、自分がとても幸福なのだ、ということを再認識した。うまい食事。趣味の世界があること。それが容認されていること。誰も自分について上官みたいにがみがみ云わないこと。黙って見ていてくれること。おれって、都会向きだったのかな、とクラウドは思う。ミッドガルに来てから、なにかずいぶん変わった気がする。自分はちっとも変わっていないけれど、周りの環境が。人生は相変わらず辛くて、でかいグローブでもってこちらをぶん殴ってくるけれども、けれども田舎にいたときよりも、与えられる見返りが大きいような気がする。ちゃんと人間関係を、築けているような気がする。自分を、わかってもらえるということ。田舎ではちょっとだめだった。田舎では、型にはまった人間が好まれる。全体の中にきちんと収まるパーツのような人間が、好まれる。常識的で、良心的で、伝統と決まりを大事にする。「らしく」がとても大事。子どもは子どもらしく、男は男らしく、女は、女らしく。そんな人間は死んでしまえばいい。面白くもなんともない。逸脱を許されるのはほんのちょっとの領域。息がつまる。
 でも、いまの環境は不思議だ。目の前の男に憧れて都会に出てきたのに。その人物と、差し向かいで会話をしていること。部屋を借りていること。セフィロスに対する憧憬は、まだクラウドの中に残っているけれど、ほとんど別の形のものになりかけているみたいだった。つまり、一方的なあこがれから、敬愛みたいなものに。セフィロスは面白い。変だ。でも普通のひとだ。ちゃんと話を聞いてくれる。そして自分の思うことを話してくれる。こちらが子どもだとか、自分が大人だとかいうのはなしにして。そういう関係はとてもいい。人間は、年齢に関係なく、みんな自分自身であるべきだ。そして、他人が他人自身であることを認めるべきだ。母さんとは、そんな関係だったから。セフィロスとも、そんな関係になれそうな気がする。ザックスと同じように。

 食事を終えて未亡人が帰ったあと、クラウドはアクアリウムを熱心に眺めるセフィロスを質問攻めにした。歳はいくつなのか、どうして髪を伸ばしているのか、なにを食ったらそんなに大きくなれるのか、なぜ傭兵になったのか。セフィロスは気だるい顔をして、全部に答えた。身長は、食事内容では決まらない。だから、なんでも食べたいものを食べることだ。歳は、正確にはよくわからない。二十七とか八とかそのあたりだと思う。気がついたときには(セフィロスは個体としての意識に目覚めたときには、という云い方をしたが、たぶん同じことだ)神羅にいて、ずっとその中で過ごしてきた、気がついたら兵士だった、それ以外の選択肢を示されたことがない。だからこれは、セフィロスにとって遅い反抗期だ。その、ほんのはじまり。二十代のうちに反抗をかたちにできてよかった。髪を伸ばしている理由は、髪を切るとか伸びるとかいうことに気を遣いたくないから。放っておいても髪は伸びる。短い髪は、伸びたときに伸びたことを意識して、そして成り行きに任せるか、それとも刈りとりをするか考えなくてはならない。そういう気を回したくない。気を回すものは、少ないほうがいい。
 クラウドは首を傾けて、そうして考えた。セフィロスは、きっとめんどくさがりだぞ。気を遣いたくないからという理由で髪を伸ばしているなんて、不精のすることだ。おまけに、田舎に引っこんでいるときた。人間関係がめんどうなのに違いない。それが、彼の行動の理由かもしれない。彼はもしかしたら、人間として、生きることに集中したいのじゃないだろうか。生きるという行為そのもの。自分の身体を生かすために、食料を生産して、それを口に入れて、休んで、また動く。そういうシンプルなこと。精神のほうは、本とか音楽とかで養う。それは、すごくいい生活なんじゃないだろうか。そういう生活が許されるなら、誰だってきっとそうしたい。またこの疑問に戻ってしまう、だったらどうして世界はこんなに複雑なのだろう。
「おそらくは、人間の構造が複雑だからだ」
 とセフィロスは云った。
「肉体、精神、それから、それらを統一するもの。人間は、おれの理解するところでは、このおおよそ三つの要素から成り立っている……はずだ。ほかにも人間には計り知れない要素があるのかもしれない。俗に云う生命力のようなものは、この星の中で循環している。けれども、われわれひとりひとりの個体となると、そしてその意識となると、話はずっと複雑になる。それをどう形容したらいいものか、よくわからない。そもそも、言語で表現されるべきものではないのかもしれない……手はじめに、肉体だ。これは明らかに獣性を帯びている。動物のなごりを引きずっている。こちらに偏ると、人間は獣じみた行動を取るようになる。見るからに肉食獣のような連中がいるだろう。これは、肉体優位なのだと思う。かと思えば、イエスもかくやとばかりの人間もいる……これは、精神性が発達した例だ。ごたごたと複雑なものを求めるのは、頭でっかちか、動物レベルの連中だな。人間は、発達するほどにシンプルに戻ってゆくのだと思う。足ることを知る段階に至れば。おれはその入り口に足を踏み入れたところだと思いたい」
 こういうことを話すセフィロスは楽しそうだ。たぶん、そういうのが好きなのだろう。ぜんぜん、兵士むきの話題ではない。ひとを殺し、なにかを奪いあい、競いあう兵士が、そういうことを考えてはいけない。なぜなら、兵士が存在する理由が獣じみているから。そこから抜け出したいひとが、兵士でいてはいけない。セフィロスはとことん、向いていないことを強制されてきたみたいだ。なんだかかわいそうになる。かわいそうな英雄。刀を振り回し、敵に雨あられと魔法を浴びせるのは、きっと身を切られるよりしんどかったに違いない。それで名声を得て有名になってしまうなんて、ばかげている。これでは、誰だって逃げ出したくなる。名声は、そういうものを求めている人間のところにだけ、行き渡ればいいのだ。セフィロスのような人間は、人生の頭から、静かな田舎町に生まれて、一生涯自分の母親や妻以外誰にも気にかけられずに、黙々と人生を送るべきなのだ。黙々と生きて、そして死ぬ。セフィロスが欲しいのはきっとそれだ。当たり前の、ただの人生。
 続いて、セフィロスがクラウドを質問攻めにする。お互いが知り合うには、これが一番手っ取り早い。行動から知ってゆく道もあるけれども、それは手間がかかる。ことばには偽られるというリスクがつきまとうけれど、手っ取り早いというメリットは、この場合魅力的だ。当然、この質問からはじまる。なぜ神羅に入ったのか? クラウドは答える。笑わないでくださいよ、強くなりたかったんです、これでも。いまでもそれは思ってます。
「強くなって、どうする?」
「自分と、自分が好きなものくらい、守れるようになりたいかなあ。なにかのために命がけとか、好きだから。あとおれ、誰かの下にいたくないんです。強くないと、そういうのは無理だから」
「どちらも危険な思想だな」
「でも、なんかもうひとつ足りないんですよね。おれの命がけ、まだ見つからない。見つけたいんだけど。それが見つかったら、おれたぶん、結構すごいと思うのにな。なにかの欲求が、ずっとあるんですけど、見えないんですよね、まだ。なんだろ?」
 セフィロスはすこし目を閉じて、考えてみる。金髪君の欲求。彼が求めているもの。彼には、なにか危険な匂いがする。直情的な匂いが。本能的な部分が、彼は危険だと告げている。刹那的で、爆発的で、けれどもある部分はねちねちと執拗で、一匹狼で。そんな匂いがする。過去に、こんな人間に会ったことがある。テロリストの女だった。セフィロスは、ちょっと彼女を尊敬していた。こちらをさんざん手こずらせて、ふいに思わせぶりな視線を投げて、そして最後は、目の前で自害。そのとき彼女は笑っていた。その顔がこう云っていた、人生、楽しかったわ、と。手懐けられない野生の獣の視線。ぎらついていて、奔放。この世界を、秩序なんてそっちのけで思うままに駆け抜ける。そういう人間が、セフィロスは好きだ。秩序を愛する社会にとっては危険な人間だ。だが、たまらなく魅力的だ。この少年には、似たような匂いを感じる。本人は、まだそれをつかみきれていないようだけれど、たぶん、それをつかんだら、見事な獣になる。せいぜいあと一、二年だろう。美しく、しなやかで、力強い獣になるために必要な時間は。猫みたいに相手を煙に巻いて、翻弄する。王は自分。自分の上に君臨するのは、自分だけ。そんな彼の中に隠れている、どうしようもない傷つきやすい部分。ザックスが心配している部分だ。アンテナがとても高くて、他人の視線に敏感で、ことばにも敏感で、そういうものを、うまく処理できない。ひどいアンバランスだ。尊大なくせに、繊細。きっと彼が堂々たる王になるために、欠けているものがある。それはなにか。まだ成長途中なだけか、あるいはなにかの自信がないのか、それとも愛が不足なのか。
 その危険因子を持った少年は、ふいに立ち上がってどこかへいなくなった。そうして台所から水菓子の乗っかった皿をくすねて戻ってきた。未亡人が彼の食欲を面白がっていたから、いろいろと買いそろえているのに違いない。
「さっきあんなに食べたのに、またなにか入れておかないと、夜中に腹が減って、耐えられないんです。おれ変ですか?」
「いいや、成長期の証拠だ」
 クラウドはちょっと照れくさそうに笑う。これからの身長の伸びへの期待。未来への希望。それがまだ、少年の中に見えないかたちで眠っている。彼はぶどうを取り上げて、ひと粒ずつもぐのでなく、房ごと持ち上げて、かぶりついた。何粒か一緒くたに口の中に放りこまれる。微妙な位置で口にまるごと収まらずに食いちぎられた果実から、透明な果汁が吹き出す。それが少年の唇の周りを、そして顎を濡らす。彼は咀嚼しながら唇のまわりを乱暴に拭う。ぶどうはもういいのか、続いてプラムに手を出した。目を細め……長いまつげがはためく……赤黒い皮を破って、クリーム色の果肉をえぐりとる。音を立ててすすられて、口の中へ消えていく果実。そのどろどろとした感触。白い指と桜色の爪、赤黒い果実の色の対比。紅珊瑚じみた色をした唇と果実の接触。その弾力を、思わせずにおかない。手に滴るしずく。少年はめんどうくさそうに手を振るい、伝ってきたものを舌で舐めとる。赤い、軟体動物のようなぬるついた動きをする舌。それが続けて唇を一周する。上下する白い喉。まだ、完全に盛り上がってはいない喉。種は、皿の上に放り投げてしまう。そうして指をしゃぶる。乱雑な食べ方だ。ちょっと行儀が悪い。どことなく動物の食事風景を思わせる。貪欲な。
 セフィロスは考える。この光景はあきらかに性的だ。そういう匂いを漂わせている。女が食べるシーンを執拗に描写して、おそろしくエロティックな小説を書いた作家がいた。その気持ちが、わかるような気がする。それは、自分の中に男を欲する嗜好があることを意味するのか? 記憶にあるかぎり、男に性的魅力を感じたことはない。もちろん、ミドルティーンの少年なんてものと接触する機会はほとんどなかったから、そのひどくあやうい、大人でもなく子どもでもない魅力について、まだ完全に一個の人間としてできあがっていない魅力について考える機会もなかったわけだが。この乱暴な行動のひとつひとつに秘められている、ざわつくような性的な匂いは、女のそれとはあきらかに異質だ。女は、見られるための存在だ。それを受け入れられるか否かはひとによるとしても、女の性の匂いは、発見され、注目されることを前提としている。ところが少年は女ではないから、自分の行動の余波にはてんで無関心だ。その無意識の行動が生み出す、無意識の魅力。そういう発見をするとは思っていなかった。それともこれはセフィロス個人の性的嗜好などの問題ではなくて、少年の顔が美しいためか。金の長いまつげ、青い目、ちょこんとまとまった鼻、すこし生意気そうに歪む唇。それらが配置されてかたちづくられた顔は、はっとするほど整っている。絶対に、そこになにか意味がある。これだけの調和のとれた顔を、神が与えたからには。少年のまだ見えぬ命がけの対象に、直結しているかもしれない。ああもしかしたら、彼が求めているのは愛なのか? 溶けるような愛欲の楽園なのか。溺れるための。自分の存在を確立するための愛欲の対象。この顔の意味はそれなのか。誘惑者か。だから危険で、魅力的なのか。具合の悪いことに、その思いつきを、信じたい自分がいる。
 セフィロスは苦笑する。その領域に一歩踏み出すのには勇気が必要だ。なぜなら、少年という生き物への性的欲求そのものが、彼には未知数だから。どう扱ったらいいのかわからない。どう接触したらいいのかもわからない。解放すべきかどうかもわからない。金髪君がらみで、なにかありそうだとは思ったが、まさかこんなところに落ちこみそうになるとは思わなかった。その意味はなにか? そこからなにを学ぶべきか。そして、今後の行動についてはどうするべきか。気まぐれに、こんなところへ来るのではなかった。ちょっと面白い少年のいる部屋だと思ったのに。正真正銘のエロティックな、羽化する前の蝶が待ち受ける巣穴だったとは。
 クラウドは食べ散らかすだけ食べ散らかして、皿を放り出した。会話は、ずっと軽快に続いている。少年の生い立ち。母子家庭なこと、友だちはとても少ないこと。そういう少年の手になる少年の物語が語られている。セフィロスはそれを聞き漏らさないように注意しながら、とんでもない少年を不用意に呼び寄せてしまった自分を、ちょっと笑っている。けれども、悪くない雰囲気だ。悪くない感触だ。ふいにクラウドが時計を見て、声をあげた。
「うわ、やばい、門限だ」
 そうしてあわてて立ち上がって、別の部屋に駆けこむ。鞄をひっつかんで、ばたばたと準備をはじめる。
「門限?」
 セフィロスは慌てている少年にわざとのんびりした声をかける。彼を少し、いらだだせてみたかった。案の定少年は気を逸らされたのにむっとした顔をして、
「寮の門限、夜十時なんです。終わってる、ってザックスが云ってたけど、ほんとにそう思う」
 と、それでも律儀に答える。
「なんだ、外泊するのではないのか」
 からかうような口調で云うと、少年は複雑な顔をした。
「ここに泊まれると思います? ベッドああだし」
 セフィロスは「ああ」と形容されたベッドがある部屋に視線を向ける。そういえば、あれだけは自分のものだった。未亡人が、あんないいベッドは捨てられないし、ここで寝ることがないとも限らないはずだ、と云ったのだ。失念していた。ということは、クラウド少年はまだここで夜を過ごしたことはないわけだ。
「外泊は規則で禁止でもされているのか?」
「週末はしてもいいんです。毎週実家帰ってるいかれたやつも……おれの靴下知りませんか?」
 セフィロスは探すのを手伝ってやった。もうすでに、ちょっとこの少年の引力に動かされはじめているような気がする。荷物をまとめるのを手伝い、セフィロスはなにげなく云った。
「夜こそ、静寂が必要なんじゃないか? おれならそうだ」
 部屋を出かけていたクラウドは、眉をつり上げて立ち止まった。
「まあ、そうですね。ベッド買っていいですか」
「未亡人に云っておこう」
「ていうか」
 と云いながらクラウドの身体はもう完全に部屋の中を向いていた。
「セフィロスさんは、いつまでここにいるんですか?」
「たぶん、明日か、明後日くらいまで」
「ほんとのとこ、なにしに来たんですか」
「部屋の様子を伺いに。それから、たぶん、入居者と親しくなるために」
 クラウドはわざとらしく眉をつり上げた。
「じゃ、おれ明日はここに泊まろう。親睦を深める会。ベッドって、頼んだその日に来ます?」
「頼みようによっては。来なかったらどうする?」
 クラウドはにやっと笑った。
「ベッド、手作りしちゃおうかな。考えときます」
 そうして微妙にうまい鼻歌を歌いながら、けたたましい音を立ててドアを閉め、いなくなった。セフィロスは苦笑した。これでは先が思いやられる。ともかくも、一度頭の中を整理しなくてはだめだ。あの子どもに、脳みその一部をやられてしまった気がする。ひととして最低限度を保てるくらいの補修はしておかなくてはならない。
 今夜あたり、下手をすると夢に見るかもしれない。あの笑み。あの鮮やかな金髪。あの白い喉元。伏せられたまぶたとまつげから放たれる、色めき。強烈な美しさを放つ景色を見てしまった日のように。そうしたら、もうどうしようもない。とりかえしがつかない。ああ。なんだか想像以上に、面白いことになりそうだ。そして危険なことに。あの子は危険だ。たぶん自分の芸術的な価値を、意識されない部分ではちゃんと知っている。顔の話題が嫌いなのに。どうでもいい他人に鑑賞の対象にされるのは、きっと耐えられないのだろう。さて自分は、そのどうでもいい他人に入るか、それともそこから抜け出すチャンスがあるか。彼の性的嗜好はどんなか。知らなくてはならない。しかも割合に、早急に。たぶん、明日か明後日中に。焦っている? そうかもしれない。この焦燥感は久々だ。こんな感情の変化は、久々だ。
 世界に万歳。そして例の美形金髪に万歳を。いい歳の男をひっかけてくれたあの美貌に、危険な匂いに、万歳を三唱。