相手が自分に欲情しているかもしれないとき

 相手が自分に欲情しているかもしれないとき、どうしたらいいかなんて教わらなかった。さすがに母さんでも、それは教えてくれなかった。当然だろう。欲情するとかされるとかは、それを身をもって感じるときまでぜんぜん理解できないことなのだから。クラウドは水曜日あたりから、なんだかもうそわそわしていた。彼は、確かめたかった。セフィロスがどうしたいか。自分がどうあるべきか。中途半端な状態に長く耐えられるほど、我慢強くない。セフィロスにその気があって、自分も興味を持っているとしたら、あとはやってみるしかない。でも、どう動けばそういうことになるのか? ストレートに、していいですよと云うのはたぶん、芸がない。おれも興味あるんで、なんてぜったいに云ってはいけない。感覚として、これはセフィロスに云わせるべきで、主導権を握ってもらうべきだという気がする。向こうは大人だし、責任だってある。こちらは未成年の弱者。そんなやつに仕掛けられたらたぶんセフィロスだって、プライドに傷くらいつくに違いない。微妙な駆け引きだ。どうしたらいいのだろう。相談できる相手はいない。ザックスはまだ帰ってこないし、そもそも彼にこんなことを相談するなんていかれている。それくらいの良識はある。ほかに相談できる知りあいなんていない。もっともこの手の話題に向いている教師を知っているけれど……クラウドは悩んだ末に、結局電話をかけてみることにした。それはもうセフィロスの家に行く直前のことだった。
「あ、クラウドちょうどよかった、あんたさあ、もうたいがい身長伸びちゃった? 今日ね、あんたが着たらよさそうな服見つけたんだけど、でもあんた、たぶんでかくなってるしなって思って。そもそも服より送料のほうが高そうだしね。パーマかけてくる帰りに、ちょっとぶらぶらしててさ。あたし、今回はちょっとゆるめのにしたのよ。なんか、きついのかけるとおばさんくさいと思って」
 母さんはいつもこんなだ。いろんなことを、全部隠さずに云う。それはクラウドだってそうしてきた。なんでも話して、なんでも相談する。もちろん、母さんは秘密を持つ自由だって、ちゃんと与えてくれた。話したくないことは、話さなくてもよかった。でも母さんに意図的に秘密を持ったことは、数えるくらいしかない。平和だったのだと思う。田舎を出てからは、いろいろ云えないことが増えた。ひとが死んだのを見たこと、血がすごかったこと、組織のいやらしさ、会社がやっていることの、ものすごい悪徳。云ってもいいのかもしれないけれど、あえて云うものじゃない。クラウドはそういうことをふいに考えて、なんだか電話しなければよかったという気がした。でも、田舎から出ていく息子に最後に浴びせたことばが「とっとと彼女作りな、楽しいよ」だった母さんに、少なくとも恋愛じみたものが自分の身にも降りかかったことを隠すのも悪い気がする。相手が男だ、ということは、この際ちょっと置いておくとしても。
「とうとう髪短くしたの」
「してない。やっぱり背中の真ん中くらい。いつかしたいと思うけど……あたし短いの似合うと思う? 似合うって云われたけど、ちょっと確信持てなくてさ」
「見たことないからね。母さんの髪、短いの」
 物心ついたときから、母さんの髪は背中くらいまであった。金髪をきれいに保つのに、母さんはちょっとした努力をしている。たぶん、誇りに思っているのだ。自分の、流れるようなブロンド。それが男を惹きつけることとか、とにかく魅力になっていること。
「あんた、元気にしてんの?」
「してる。そこそこね。また背伸びたよ。あとちょっとで百七十いきそう」
「期待しないほうがいいよ。あたしの身長と、父さんの身長じゃね。いって百七十五、六ってとこかな。八十なんて、あんた夢見ないほうがいい」
「やだよ、見たいよ、夢。おれまだ背伸びてんのに」
「じゃあお祈りしとくわよ。あんたが二メートルくらいになるようにってさ」
 母さんのいろんなお祈りのことを、思い出す。夜眠る前に、母さんはベッドの上で、お祈りをする。別に信仰心が篤いわけじゃない。辛気くさい宗教なんてまっぴら、と云うけれど、でも母さんは純粋に神さまの存在を信じている。すべての祈りは、叶えられるかどうかは別にしても、一応神さまの耳に届くと信じている。そして、それが大切なことなのだと。
「最近、ザ・ウルフとうまくいってる?」
 ザ・ウルフは母さんの男のあだ名だ。ふたりだけのときは、そう呼んでいる。なんとも見事なウルフヘアだからだ。実はクラウドはその髪型を、ちょっと模倣している。そしてちょっと手を加えたオリジナル。
「まあ普通にね。あんたが送ってきた自転車の写真見て、後をついでくれって云ってたよ。いつでも戻って来いってさ」
 ザ・ウルフはとなり村で、トラックやスクーターや自転車やとにかく乗り物全部の修理工をしている。その気になれば、電気の配線とか、水道管とかも直す。男と女の仲を修復も得意だ。すごくいいひとで、クラウドはこのひとが自分の父親になるってことを、何度も考えている。
「でさあ、あんたはまだ恋愛の兆しがないわけ? あたしの息子なのに。それとも、そんな暇もないくらいかわいそうな生活してるの?」
 なんて完璧な話の振りだろう。クラウドは苦笑する。実は全部お見通しなんじゃないかという気もする。
「うーん、そのことなんだけどさあ」
「なに? できた? どんな子? 美人? いくつ?」
 うるさいよ、とクラウドは電話の向こうから聞こえてきた興奮した声を押し返す。母さんは、こういう話が大好きだ。恋人ができたなんて云ったら、相手のことを根掘り葉掘り聞かれるに違いない。やっぱり、黙っていればよかっただろうか。
「まだできたわけじゃないんだけど、ちょっと困ってて」
「なんだ、そう。困ってるって?」
「うーん、あのさあ、向こうに気があることがわかってて、はっきりさせたいときってどうしたらいい?」
 電話の向こうで、母さんが笑ったのが見えた気がした。声がぐっと明るくなる。
「来た来た。いつあんたとそういう話ができるかと思ってたのよ。その子、歳上なの? 下? 同じくらい?」
「上」
 クラウドは「その子」という形容にすさまじい違和感を覚えながら答える。「その子」ときた。どうあっても「子」なんて感じではない。
「あんたのことだから、結構上なんじゃない? それで、すごいきれいどころ」
「まあね」
「やっぱりね。はじめは、上がいいよ。これほんとだと思う。自力でいくのはそれからかな。いまどういう状態なの? あんた、その子のこと好きなの?」
「わかんないんだけど、興味はある」
「じゃあいいんじゃない? 好きかどうかなんてさ、最初はそんなもんだしね。で、向こうはあんたの気持ち知ってそうなの?」
「それがわかんない。たぶんわかってる気がするけど、なんか、動きなしっていうか、窺ってるっていうか、なんていうか。おれそういうの我慢できないからさあ」
 母さんは電話の向こうで大笑いした。
「あんたに限っては、駆け引きとかほんとに意味ないかもね。好きか嫌いかどっちかみたいな子だし……次、その子に会うのいつ?」
「実はこれからです」
 また大笑いされた。
「わかった。母さんとしてじゃなくて、大人のお姉さんからのアドバイス。あのね、頭使っちゃだめ。考えちゃだめ。恋愛ってさ、身体でするもんなの。理屈じゃなくてね。身体は知ってるわけよ。どうしたらいいか。どういう目線なり、行動なり、したらいいか。なに云えばいいかも、考えつくのは頭じゃない。感覚でわかるはず。あんたの身体の中に、恋愛者必携要素が全部叩きこまれてるはずよ。それも一級のやつ。あたしの子どもなんだから。その気になれば、ちゃんとできる。雰囲気作るとかなんとか、全部うそ。そういうのは作られるの。目と目が合って、ぱちんときたらもうそれでいいのよ。そのときにはもうお互い、合意の上ってことになるわけ。ぜんぜん理屈じゃないでしょ? どうすればいいなんて考えたって、わかりっこない。それにこれは誰にも教えられないことなの。決まった方法なんてない。自力で探すの。答えは自分の中にあるから、それを引っぱり出すの。あんたの場合はね、今夜中にはっきりさせること。これはもう命令よ。ずるずるしたって状況変わらないし、そのうち気持ちのほうが変わっちゃうだけで、ぜんぜん意味ない。今日のうちになんにもできなかったら、あんた一生彼女なんてできないと思いな。あと、お願いだから避妊はすること。あたし、あんたの子ども養育するなんてまっぴら」
 途中までちょっと感心して聞いていたクラウドは、最後のセリフに慌てた。
「ちょっと、今夜中にやれっての?」
「相手年上なんでしょ? まさかのお互い初体験ってことはないでしょ? じゃあ問題ないない。やっちゃってから気がつくことって、結構あるよ。こういうアドバイス、たぶん普通じゃないと思うけど。あたしね、普通の母親らしいふりなんてできないし、しようとも思わないけど、でも、あんたのこと愛してるのはほんと。あんた、どこ行っても、相手誰でも通用するよ。あんた変な子だけど、でも悪くないよ。これから出かけるんでしょ? あとで結果だけでいいから報告してよ。祝杯あげる用にワイン買っておくからさ。がんばれよ、色男」
 クラウドは切れた電話をじっと見つめた。母さんが云うように、こういう母親は、たぶん普通じゃない。でもいいのだ。そんな母さんが好きだし、大事にされているのはわかるから。親子関係だって、たぶん大切なことは、どんな形でもいいから、とにかく相手を好きだということ。それさえあれば、きっとなんだって許されるはずだ。なんだって……セフィロスのことは、恋愛要素が絡む意味で好きなのか? きっと、あとからわかるのだと思う。セフィロスがほんとうに手を出してきたら、彼の本気度がわかる気がする。あのひとはたぶん、遊びで誰かに手を出せるタイプじゃない。いろいろ考えるひとだから。だから、もし今夜、そういうことになったら、今夜中か、明日には、きっと自分の気持ちもはっきりする気がする。どうやってその状態に持っていけばいいのかは、相変わらずまったくもって不明だけれど。でも、できる気がしてきた。全部自分の中に持っている。答えは、方法論は、全部。それを信じること。自分を信じるということは、きっとそういうことだ。
 クラウドは携帯電話をしまって、歩き出した。不安がないなんて云わない。ぜんぜんお門違いのことを考えていて、セフィロスが激怒するなんて可能性は、ゼロじゃない。でも、たぶん限りなく低い。今夜。今夜、全部が動くのだ。動かすのだ。この手で。この身体で。すべてを。