ものすごく気分よく目が

 ものすごく気分よく目が覚めた。全身がやわらかく受け止められているような感覚がある。実にいいベッドだ。きっとすごく高いに違いない……そこまで考えて、クラウドは一気に目が覚めた。何時間か前のことを思い出したからだ。そうして思い出したとたんに、昨日いろいろしてしまった箇所が違和感を訴えてくる。でも別に、どうしようもなく気になるほどじゃない。
 ベッドの中には誰もいなかった。だだっ広いベッドを独り占めしている。それがなんとなくうれしかったので、クラウドはごろごろと転がってみた。セフィロスはきっととっくに起きたのだ。ところで、正確にはいま何時なのだろう? 壁の時計を見て、彼は跳ね起きた。セフィロスは別に時計などなくてもいいと云っているが、時計がないなんてどうかしているから、いつだか取りつけてあげたのだ。シルバーの静かなやつ。音もなくいつの間にか時を刻んでいる。そいつはいま十一時をすこし過ぎたあたりを指している。なんてことだ。十一時から、毎週欠かさず生き物ドキュメンタリーを見ているのに。それはもう習慣になっているので、大事なのはほんとうのところ、内容じゃない。それを見る、というリズムが大事なのだ。今日は休日で、徹底的に好きなことをするのだという気分になるために。もちろん、番組の中身だって面白いけれど。
 彼はベッドを飛び出した。自分が裸なのに気がついて、あわてて服を探す。ベッドの隅っこのほうにたたまれて置いてあった。大急ぎで身につけて、部屋を出る。セフィロスはリビングのソファに座っていて、あろうことかクラウドが見なければならないドキュメンタリーをひとりで見ていた。彼はとてもむっとして、頭をかきむしった。
「なんで起こしてくれないんですか」
 セフィロスはゆっくりとこちらを振り向いた。
「よく寝ていると思って」
「それを見ないとおれの日曜日がはじまらないんです」
「そうなのか?」
 クラウドはすごく急いでトイレに行って、顔を洗い、ソファに飛びこんだ。今日はフンコロガシの特集だった。なんということだろう! ちょっと見逃した日に限って、こんなに魅力的な生き物の特集だなんて。クラウドは毒づいた。
「最初から見たかった」
「それは悪かった。次からは忘れずに起こすことにする」
 では、次があるわけだ。クラウドはそれでなんとなくむっとした気持ちを殺がれてしまったから、フンコロガシに集中することにした。大きな画面に、丸く固めたフンを後ろ足で転がし続ける昆虫の必死な姿が映し出されるのは、ちょっと感動ものだ。バック走行でちゃんと目的地へたどり着けるのはすごいとクラウドは云った。セフィロスが、それもすごいが、尺取り虫が頭側からも尻側からも移動を開始できるのもすごい、と云う。確かにそれもすごい。CMに入って、番組が中断された。クラウドは急に腹が減っていたことを思い出した。
「今日、未亡人は来ないんでしたっけ?」
「甥っ子だかなんだかの、なにかがあるようなことを云っていた……あのひとは一度にしゃべりすぎる。おかげで頭の中でぜんぶごっちゃになってしまう」
 クラウドは立ち上がって、冷蔵庫を物色しに行った。昨日の段階で、未亡人はよだれが垂れるような料理をたくさん作っておいてくれた。どうせテレビを見終わったら昼食だろうけれど、いますぐに腹になにか入れないと、空腹ですごくいらいらしそうだった。身体に悪そうな真緑のメロンソーダを引っぱり出して、食料をストックしてある棚から、ドーナツを四つ奪ってきた。チョコチップがかかったやつ、ピンクをしたストロベリー風味、中にカスタードクリームが入っているやつ、砂糖がふりかけられているもの。
 セフィロスは見ただけでいやそうな顔をした。
「不健康だ」
「こういうのが食べたい年なんです。なんか不健康なのが都会っぽい」
 CMが終わった。クラウドはぼんやり画面を見ながらドーナツを片づけにかかる。いつもと同じ。まるっきり、いつもと同じだ。昨夜のことなんて、なかったみたいだ。クラウドはでも、それでいいと思った。お互い変に意識してしまって、相手の態度でいちいち思い出させられるとかいうよりは、よほどましだった。昨日までと、なんにも変わっていない。でも、なにかが変わった。意識の深いレベルで。
 ほんとうのことを云えば、クラウドはいまとても気分がよかった。身体の隅から隅まで、うるおっていて、みなぎっていて、充足感がある。特別なにがどうしたというわけではない。でも、昨日までとは、いる世界が違うのだと思った。なにかを、突き抜けてしまった感覚がある。これが本来の自分だという、そういう感覚がある。身体の奥にかすかに残っている、快楽のあと。昨夜の快楽を、容易に思い出せる。ただようような心地よさ、そしてのぼりつめた瞬間の、あの劇的な解放。爆発して、なにかのしぶきのように全身に拡散する快楽。そういうものを、知らなかったこれまでのほうがおかしかったのだという気がする。それは、身体のとても自然な欲求で、それを満たすのも自然なことだ。性への目覚めを、一般的にはおとなになった、というふうに形容するのだろうけれど、クラウドはそうは思わなかった。おとなになるのではなくて、自分になる。自分の欲求に気がつく。自分のことを、もっとよくわかるようになる。そうして結果的に、相手のこともわかるようになる。
 クラウドは実際、セフィロスのことを昨日よりもすこしはわかった気になっている。彼が、どうしたかったのか。彼がなにを求めていたのか。欲情するということの奥に隠されていたものは、思ったよりもずっと深いものだった。もちろん、短絡的で浅いやつもいるだろう。だがセフィロスの場合は、今回の場合には、もうすこし話は複雑だ。クラウドは、昨夜のうちに感じとってしまったから。彼の、こちらへ向かうある真摯な感情。どうしてそんなものを自分に向けるようになったのかなんて、考えたって無駄だ。すぐにわかるわけがない。でも彼がこちらを気に入っていて、ちょっとは大事にしてやろうと思っていることはわかった。彼の行動で。行為で、そして視線で。母さんみたいに……でも母さんとは別の方法で。
 とりあえず、やってみたのは正解だった。母さんの云いつけは、間違っていなかった。セフィロスの気持ちがわかったし、自分の気持ちもわかったから。セフィロスは特別だ。誰ともちょっと違う。ただよくしてくれるから、居心地がいいからいっしょにいたいというだけじゃない。彼に、開いてみたい。自分の感情、精神、身体。理解してもらいたい。受け入れてもらいたい。たぶん、そうしてくれるだろう。そうしてもらえたら、きっとこちらもたくさん返せると思う。そういうことを、彼としたいと思ったのだ。
 昨日までとはちょっと違う、けれどもとてもしっくりくる自分がいる。ここに自分がいて、誰かの中に自分の居場所がある。そのひとに好かれていること、同じようにそれを返そうと思えること、自分を出すこと、相手を受け入れること。そういうものの中に、快楽は、セックスは不可分なものとして組みこまれている。人間は頭でも愛せる。でも肉体では、もっと明確に愛せる。あの熱狂的な空気の中で、とても情熱的に。そうだ、情熱だ。誰かを好きになることの、知りたいと思うことの、そして欲しいと思うことの情熱。それはひとつの力だ。とても強力な力。
 クラウドはふいに、その力を、誇示したくなる。セフィロスとのあいだに生じたはずのものを、試してみたくなる。彼はドーナツを全部腹におさめてから、セフィロスの膝めがけて倒れこんだ。まるでいつもそうしてきたみたいに、自然に。そうして寝転がって、テレビを見た。フンコロガシなんて、実際のところもうどうでもよくなっていた。セフィロスの手がやってきて、頭をなでられた。夕べは、この手が身体中を触っていた。そして自分の手も、彼の身体を触った、知覚した。お互いにお互いを知っていること。ほかの誰も知らないような方法で、知っているということ。それが大きな充足感となって、クラウドを包んだ。
 ふいに唇の端を指でなでられた。粉砂糖がこびりついていたらしかった。クラウドはセフィロスの指を、ちょっと顔を動かして、口にくわえた。別に性的な意味はないやり方で。そういうことも、わかるようになったのだ。性的な意味を持たせる方法、持たせない方法。これはただじゃれているだけ。指の関節をかりかり噛んで、吐き出した。ひとの指の関節の感触を、口で知るなんて妙な感じだ。でも、ものとの関わりは口からはじまっているとも云える。赤ん坊のころには、なんだって口に入れる。認識、知覚、そういうものは、身体でするしかないのだ。感じ取るしかないのだ。ほんとうに、大切なことは。
 番組が終わった。終わったけれど、クラウドはそのままセフィロスの膝から頭を動かさなかった。リモコンはテーブルの上だ。自分で動くのはいやだ。
「リモコン。おれより手長いから」
 彼は云った。セフィロスが息をもらして笑った。でもすぐに身体を動かして、そのとおりのことをする。手の中にやってきたリモコンに、クラウドはちょっと感激する。自分はこの男を、使うことができる。お願いではなくて、もうすこし荒削りな、否ほとんどむき出しの方法で。必要なのは「やってよ」のひとことだけ。なんて気楽な関係だろう。ぶっきらぼうな態度、礼儀を欠いたふるまい。それはとてもあからさまに、ふたりの親しさを証明してしまう。クラウドとしては、そんなふうにあかししたい。そのひとの前でだけ、そういう態度をとることで。気なんて遣わないこと。それは、一番強烈な親しさの証明だ。悪態をつくこと、冷たくすること、でもそれは、そういう態度に出ているだけで、ほんとうにそう思っているわけじゃない。そういうことを、そういう甘え方を、セフィロスはわかってくれるような気がする。クラウドは試したかった。チャンネルをぐるぐる回して、でもつまらなかったのでリモコンはテーブルに放り投げた。せっかくさっき取ってくれたやつだけれど、勢いをつけて放った。
「せっかく休みなのに、なんもやってない」
 クラウドはそう云って、起き上がった。頭に置かれていたセフィロスの腕が、ずるりとすべり落ちる。彼がふいに微笑を浮かべてこちらを見た。
「なんですか?」
 クラウドは首を傾げる。相手の視線の中には、これまでよりもあからさまに、ある感情がこめられていた。ひとが、自分の恋人を見る目つき……ある甘さを含んだ視線。クラウドは眉をつり上げた。そうか、ここはもうそういう関係が成立しているわけだ。そりゃあそうだ、あれだけ濃厚なことをしておいて、ふたりの関係がなにも変わらなかったら人生、絶望的だ。でも、たとえばお互いに恋人どうし、という認識を、ひとはどこですり合わせるのだろう。ちゃんとことばにすることによって? それとも、母さん流に云うと「ピンときてカン」に任せるのか?
「おまえが普通にしていると思って」
「はあ?」
 セフィロスの腕が伸びてきた……と思ったら、羽交い締めにされて彼の膝の上におさまった。頭のてっぺんが、顎置き代わりにされている。ちょっと重い。でも、嫌な感じではなかった。体温が近い。急に、昨日のことをひどく生々しく思い出した。相手の衣服の下にある、身体のこと。それが触れてくること。交わること。クラウドはその回想に、そしていま感じられる体温に、すこし浸ってみる。これから、ここは自分の場所になるわけだ。セフィロスの膝の上、あるいは腕の中。悪くない。温度は心地いいし、なによりあのセフィロスだ、とりあえずここにいれば、死ぬことはない気がする。彼に殺される以外は。……どうということのないぼんやりした発想だったのに、クラウドはその考えに、すこし背筋を震わせる。それは、昨日新しく知り得た快楽と、どこか深いところで結びついている。このひとに殺されること? 悪くないかもしれない。病気で死ぬとか、事故で死ぬとかいうよりは、よほどましな気がする。彼の手がこの首にかけられて、そうして絞め上げられる。それは、もしかすると恍惚と紙一重なんじゃないだろうか。もしかしたら。でもこれはたぶん、いま考えるには危険すぎる。
「なにもなかったかのように振る舞っているが、そういうふりというわけでもない。でもなにも感じていないわけでもない」
 セフィロスの声はどこか嬉しそうだ。ああ、まただ。そう思う。このひとはなぜ、こちらの頭の中に一直線に入りこんでくるのか。とても自然に。
「純情じゃなくてすいません」
 クラウドはわざと不機嫌に云った。セフィロスは声をたてて笑った。
「別にいい。そういうのを期待していたわけじゃない。それでは月並みすぎる」
「じゃあなに期待してたんですか」
 クラウドは首をひねって、彼を見上げる。聞いたってわからないに決まっているけれど、でも本人の口から云わせるのは悪くない気がした。セフィロスが目を細めて見下ろしてくる。
「さあ。なんだろうな。実はよくわかっていない。だがおれはどうも大変に満足している」
 指先で、頬のラインをなぞられる。その優しい動きに、クラウドの中の素直な感情が誘発されるような気がした。彼はセフィロスに寄りかかって、胸に頬をこすりつけた。ふいに泣きたいような気持ちになった。いまさら、いろいろなことに感動したみたいに。ほんとうにいまさら、彼はさまざまな感傷的な感情の激流に流されそうになった。彼と昨夜したこと。その意味。それに付随するもの。これから相手と作られていくはずのもの。
 セフィロスの手が身体をさすりはじめた。それがとても優しかったので、ほんとうにセフィロスそのものに優しかったので、クラウドはそこにどっぷり浸った。これはすごいことなのだ。クラウドは思った。このひとと、こんなふうになるなんて、誰かとこんなふうになるなんてことは、すごいことなのだ。どんくさい考え方かもしれないけれど、それはある意味で神聖なことなのだ。本気の覚悟を必要とすることなのだ。ちゃんと、誰かを好きになって、向きあおうと思ったら。昨夜、そんな覚悟があっただろうか? そこまでじゃなかった。でも、後悔はしていない。だから、覚悟は作る。自分の行動には責任を持つ。他人に揺さぶられたりしないで。
 セフィロスは黙っている。クラウドはそれがうれしい。こちらの感情を、黙って待っていてくれる。そういうひとは貴重なのだ。世の中はせわしないから。次々にやることがありすぎて、感じることもありすぎて、自分の感情を自分でゆっくり味わっているひまもない。
「……そういえば」
 しばらく経って、クラウドの感情がおさまりそうになったころ……実際とてもいいタイミングだった。これ以上同じ時間が続いたら、きっといたたまれなくなっていただろう……セフィロスが口を開いた。
「昨夜の感想を聞きそびれた」
 クラウドは一瞬ことばを失って、そうしてげらげら笑った。
「それ、普通聞きます?」
「普通は聞かないが、普通じゃなかった」
「なにが? おれが? それとも状況がですか?」
「両方だ」
 笑いが止まらない。なにがそんなにおかしい、と云われて、彼は首を振った。いろいろとわけもなくおかしいだけだから。
「実は興味本位だったんだけど」
 笑いをおさめてから云うと、セフィロスは眉をつり上げた。
「やればなんかわかるかなあと思って」
「……で、なにがわかった?」
 前髪をぐっと押さえられ、上を向かせられる。セフィロスの目は笑っているけれども、その奥にある探究心は真剣だ。
「気持ちよかった。はまりそう。あと、女でもないのにこんなこと、気持ち的によっぽどじゃないと最後までできない」
 セフィロスはまた眉をつり上げた。
「云ってることわかります?」
 首を傾げてのぞきこむ。
「よくわかった」
「これって両想いですか?」
「それを訊くのか?」
「一応確認した方がいいかなと思って。誤解があったらやだから」
「風情があるのかないのかわからないやつだ」
「ないかも。腹減ってるし」
 クラウドはセフィロスの膝上から抜けだした。
「さっき食べたろう」
「あれで食べたなんて云わない。半端に食べたせいでよけい減る」
 セフィロスが物憂く笑う。クラウドはキッチンへ直行する。恋人なのかそうじゃないのかというような話はもう終わりだ。別にことばが欲しいわけじゃない。そういうものはことばを超えた先にある。だからことばではないもので、感じとっていかなくてはならない。恋愛の言語。それはたとえば視線であり、ひとつの身振りであり、そういうものは、そのふたりに固有のものだ。それをつくり上げるということが関係性を築くということであって、関係性とは約束ごとであり、ルールだ。ふたりのあいだで築かれていくルール。セフィロスとのあいだにできていくルールはどんなものなのか? クラウドはそれをちょっと考えてみる。
 セフィロスが追いかけるみたいにして歩いてきた。追いかけられるという構図。それを夢想してみる。悪くない。求められるということ。いつも、相手になにかしてもらうこと。そういうのは好きだ。ベタな云いかたをすれば燃える。どうせ恋愛するなら、そういうのがいい。クラウドはふといたずら心のようなものが沸き上がってきて、立ち止まり、振り返った。セフィロスがなんだという顔をする。
「おれ昨日のあれのせいだと思うんだけど、なんかだるいんです。いま気づいたけど。テーブルまで運んでくれません?」
 セフィロスは一瞬判断に迷うというような顔になったけれど、すぐにいつものすこし物憂い顔に戻って、クラウドを小脇に抱えるようにして運び、ダイニングテーブルの椅子の上に乗せた。クラウドは、そういう扱いに満足した。そうして、セフィロス相手にこんな態度に出ても問題ないのだということを悟った。
「腹減った」
 頬杖をつき、唇を歪めて笑ってみせる。自分は動くつもりがないことを、視線でアピールする。セフィロスはしばし無表情のあと、おとなしく冷蔵庫に向かった。万歳、こういうのも平気なのだ。
「ものはついでだからいっこ訊いていいですか?」
 クラウドは椅子に座ったままだらしなく脚を投げ出した。たぶん急に縮まったセフィロスとの関係に、その幸福に酔っていた。
「なにを」
「おれのなにがよかったの? やっぱり顔?」
 冷蔵庫を閉めて立ち上がりかけていたセフィロスは、吹き出した。
「それは短絡的すぎると昨日云っただろう。すこし顔から離れたらどうだ」
「無理です。うちの一族はばかだらけだけど、顔だけは誇りを持っていいって母さんが云ってたし」
「おまえの家はどういう教育方針をとっているんだ」
「めちゃくちゃ自由」
 セフィロスはひどく納得した顔をした。
「だから、そういう話じゃなくって」
 クラウドはじれたように云った。
「顔じゃないなら、なに」
「顔じゃないとは云っていない。顔もひとつの要素としてあった。安心しろ、おまえの一族の顔に対する誇りを傷つけるつもりはない……逆に訊きたいのだが、おまえはなぜこんなことになったのか、あるいはこんなことになるのを許したのか、論理的に説明できるのか?」
 クラウドはにやっと笑った。
「もちろん無理だけど。でもほら、セフィロスさんはおとなだから……なんかやらしいなあ、この云いかた。そういえばだけど、おれさんづけ呼び続けなきゃだめですか? 噛みそうになるんだけど」
「きわめて発音しにくい名前なのは知っている。申し訳ないとは思うが、こればかりはおれのせいじゃない。名前にこだわりはないから、好きにするといい」
「じゃあめいっぱい呼び捨てしよう。セフィロス、セフィロス、セフィロス、セフィロス」
 呼び捨てにした回数を指を折って数えながら、彼は笑い転げた。
「あんまり呼ぶと減るのかな。どっちみち噛みそう。そういえばザックスが、いっそのことシェフィロシュとかならむしろ云いやすいって云ってた。シュシャシュシャって感じでまだ舌が軌道に乗りやすいとか云って。ボスって呼ぶのは、セフィロスって噛みそうで云いたくないのが四割とか……ザックス、どこまで出張してるんだろう。二週間くらい会ってない気がする」
 クラウドは自分がひどく饒舌で、まとまりのないことを云っているのに気がついたけれど、気にしなかった。
「まだなにも聞いていないが」
 セフィロスはオーブンにパイ皿を放りこんで、テーブルの上に食器を並べはじめた。
「アイシクルエリアに行ったかもしれない。あそこにはその昔、隕石だかなんだかがぶつかったというあとがあって」
 電子レンジが軽快な音を響かせた。当然、セフィロスが中身を取り出しに向かう。
「理由はよく知らないが、会社の連中……というより、化学屋の連中が、ずいぶん興味を持っている」
 温められたトマトソースの香りがただよう。クラウドは椅子に座ったまま移動して食器棚からグラスを取り、さらに冷蔵庫の前に移動して、山羊ミルクをどばどば注いだ。椅子の脚が床とこすれてきしんだ音を立てる。
「ザックスかわいそうだなあ。寒いの嫌いなのに。南国生まれだから寒さに耐性ないんだよね、遺伝子レベルでだめなのよね、とか云って、去年の冬憂鬱感丸出しにしてた。ソルジャーになったら、寒くなくなるってほんと?」
「ある程度ほんとうだが、個人差が大きい」
「セフィロスは?」
「身震いするほど寒いとはあまり思わない」
「夏は?」
「寒さよりはわかりやすい。日差しが攻撃的なのを見ただけで、暑いような気がするからな」
 クラウドは自分のタメ口と呼び捨てがごくごく自然に受け入れられたのにも満足した。そんなことはおくびにも出さないけれども、実はすこしだけ、どきどきしていたから。
「椅子戻して」
 グラスに口をつけながらぶっきらぼうに云う。椅子ごと元の位置まで運べ、という指令。これを受け入れられたら、たぶんもうなんだって大丈夫だ。セフィロスが顔をしかめた。
「予想はしていたのだが」
「なにを?」
「おまえがたぶん、そういうやつだということ」
「そういうってどういう?」
「慣れたやつには態度がでかい」
 クラウドは笑った。
「それザックスに聞いたの?」
「そうだ。散々こぼしていた。だが」
 セフィロスは椅子に手をかけて、腹が立つほど高い位置から見下ろしてきた。
「なかなかどうして悪い気はしない。はじめて気がついた。おれの前ででかい態度をとるやつなど、そういえばいなかった。そもそも、誰かに要求をぶつけられる機会がなさすぎた」
 そのことばに内包される、孤独の匂い。セフィロスは無表情だし、声音にどんな感情もこめられていなかったのに、ふいにクラウドはそれを、痛いほど感じた。英雄のセフィロス。神羅の看板。特別な存在。持っている力だって特別。男は誰も彼も、年ごろになれば彼に憧れる。その強さに。クラウドだって、例外じゃなかった。無類の強さ。男のどうしようもない一面だ。力、強さ、そういうものに、蜜のような甘さを感じ、吸い寄せられてしまう。男らしさ。そういう鎧を、身につけたがる。セフィロスはその象徴で、そして犠牲者だ。権力の。男たちの。下等な欲望の。胸の奥に悲痛ななにかを感じる。でも態度に出してはいけない。セフィロスの抱える孤独を、こちらの態度で思い出させてはいけない。だからクラウドはそれをぐっと抑えて、唇を歪める。
「おれ、新鮮でいいだろ」
「ああ、いろいろな意味で」
 手のひらで頬を包まれる。とても自然に目を閉じる。唇が触れ合って、クラウドはなんとなく手を伸ばし、身をかがめているはずのセフィロスの、流れてくる髪の毛をつかんだ。さらさらだ。冷たくて気持ちがいい。そういえば、ゆうべもそう思ったのだった。別に濃厚じゃない、ただのキスだ。感慨をすこし、わけあうための。
「あんたはちょっと、普通に扱われたほうがいいね」
 相手の肩に顔をあずけて、クラウドは云った。
「立場上そうなっちゃうんだろうけど、寄ってたかって特別扱いなんて、居心地悪すぎる。おれが普通以下の扱い、してあげるよ」

 ゆるく抜き差しされる感覚は気持ちいいけれど、おれ腹減ってるんだけどな、とも思う。そもそも、昨日が初体験だった子ども相手に、昼間からダイニングテーブルで一発かますとはどういうことだ。そんなにうれしかったのか。普通にされることが。呼び捨てされて、タメ口をきかれて、生意気な態度に出られるのが。セフィロスの感慨が伝わってくる。隠しきれない歓喜。でも静かな歓喜だ。このひとは、とてつもなく孤独なのだ。自分と同じ人間がいなくて、みんなから特別視されて、異様に尊敬されて、あるいは疎まれる。かわいそうだな。そう思う。クラウドは自分だって孤独タイプだと思うけれど、セフィロスのそれとはぜんぜん違っている。こちらはあえて、望んでそうなっている。でもセフィロスはきっとそうじゃない。こんなに繊細だし、優しいし、いいひとなのに、それにぜんぜんつりあわない立場と、能力と、環境と。彼を苦しめているもの。ザックスが云っていた。セフィロスは注目されるのも、ごたごたも、大嫌い。
 それなら、せめてそういう環境を、セフィロスの望む環境を、ここでは与えなくてはならない。彼に自分の立場を考えさせないこと。ただのひとでいることができるようにすること。ただの、あるがままのそのひとでいられること。自分にそんな力があるわけじゃない。でも彼がそれをこちらに求めたなら、そういう力が与えられる。あるいは、すでに内包されている。セフィロスは無意識にそれを嗅ぎとったのではないだろうか。なぜならクラウドにしてみれば、相手を気に入っているからこそ適当に扱うのは、とても自然なことだから。それが彼の、信頼の、甘えのあかしだから。自分の要求を伝える、自分を見せるということが。
 まずいな。おれほんとうにこのひとのこと好きだな。なんか、愛おしいとか思っちゃうな。ノックダウンはもうされてるけど、考えると切なくなっちゃうな。つきあげられて強くなる快楽の、複雑な渦の中で、そう思う。彼の望まない孤独、自分の望む孤独、そういうものが、ふたつとも交わって、いい具合に溶ける。溶けたらいい。
 身体がもう一連の行為に慣れはじめている。与えられる快楽を追いかけて、そうして解放されるあの瞬間を、全身で期待している。身体が、全開というやつ。こんなに開くわけだから、ものすごく好きなのだ、たぶん、このひとを。繊細で孤独なひと。自分が特別なんてぞっとするひと。でも大丈夫、この世の果てまで、あるいはどちらかがどちらかに飽きるまで、普通に、普通以下の、態度でいてあげるよ。そういうつきあいかたを、してやる。めいっぱいに甘えて、こき使って、そうして慰めてあげる。彼に足りないもの、本来授かるべきだったものを、ぜんぶ与えよう。彼がただの男でいられるように。全身で受容して、拒絶して、すりよって、つきはなす。感情という感情、あらゆる情熱を、ぜんぶ彼に向けよう。生きることの情熱のすべて、あらゆる歓喜、恐怖、快楽、慟哭、そのすべての瞬間、すべての爆発の瞬間に、つきあわせる。遠慮なんかしない。全身全霊で人生を生きるように、全身全霊で彼のために存在すること。
 いままで見つからなかったなにか。なにか物足りない気持ち。鬱積していた熱。でもいまはクラウドは、自分がすごく自分だと思えた。自分の最後のパーツを見つけた。つまり、命がけの対象を見つけた。沸き起こる歓喜と快楽とで、彼は涙した。このひとだ。この感じだ。この感情だ。自分に必要なもの。足りないもの。欲しかったもの。自分が自分であるために、この世界の中で確かに生きるために、必要なもの。
 視界が明滅して、ふいに激流が止まったような感覚に陥る。やってくる生ぬるい、尾を引く快楽。もうわかった。わかりすぎるほど。自分について、このひとについて。そして、誰かを、想うことについて。

 夜がきて、クラウドは帰らなくてはいけなかった。ほんとうのところ、帰りたくなかった。まだ話したいことがたくさんあったし、自分の力を行使したかったし、ふざけたかった。ふたりで。改造ベッドもぜんぜんできていない。今日一日、ちっとも進まなかった。クラウドは気だるくカバンに荷物をつっこんで、ソファでだらけているセフィロスにじゃあねを云うために、そこへ飛びこんだ。
「おれ帰るよ」
 セフィロスの視線は物憂かった。
「そうだな。おれも帰る」
「田舎に?」
「そうだ。おれは都会嫌いだ」
「の割に、最近よく来てるけどね」
 頭を小突かれた。
「誰のためだと思っている」
「おれ。おれってすごいね。なんか調子乗れそう。乗っていい?」
「どういう意味だ」
「とりあえず、スラムの歓楽街みたいなとこに繰り出して、そういう趣味の男を片っぱしから引っかける。で、成功率何割か確認する。どれくらいだと思う? 六割? 七割かな?」
 セフィロスがあからさまに嫌そうな顔をした。
「そういう方面には目覚めなくていい」
「でもおれ週末またここに来るよ」
 セフィロスの髪をひとつかみつかんで、いじりはじめる。
「だって毎週来てるし。別に、いなくてもいいんだけどさ、あんたは」
 セフィロスがわざとらしく眉をつり上げる。
「まあ、おれも都会よりは田舎派だけど。落ちつくから。ミス・メリーウェザーも美人だし。牛のミスコンとかあったら、おれぜったいあのひと推薦する」
 セフィロスはすこし考えこむような顔をした。
「おまえ、携帯電話というやつは持っているのか?」
「ふたつあるよ。ぜんぜん使わない支給品と、輪をかけて使わない私物。着信履歴と発信履歴、実家とザックスしかないっていうすごいやつ。電話帳登録が五件だったかな、なんかそれくらい。持ってる意味ないんだけどさ、ザックスがそれくらい持っとけばかやろうって云うんだ。ただじゃないのにさ。おまえおれの携帯料金払えよって云ってるんだけど、なんか毎回逃げられる」
 おれの番号知りたい? と云って、カバンから黒いやつを取り出して、ディスプレイに表示してみせる。
「これにかけると、クラウドくんが出ます。ただし、仕事中と寝てるときを除く。あと気分悪いときも。料金は一分五十ギル。時間課金方式、月末にまとめて請求されます」
「ぼったくりすぎだ」
 セフィロスが呆れたような顔をする。
「覚えた?」
「たぶんな」
「でもどっから電話する気? 公衆電話? ここんち? おれ知らない番号からの電話出ないよ」
 セフィロスは立ち上がって、電話のところへ歩いて行った。受話器を取り上げて、ボタンを押す。指先にためらいはなく、ほんとうに番号を覚えてしまっているみたいだった。少々のタイムラグのあとで、手の中の電話がふるえはじめる。クラウドは通話ボタンを押して、ハロー、とばかばかしい口調で云う。
「いずれにせよ、これか公衆電話か非通知かだ」
 受話器をおいて、セフィロスは目を細めた。
「まあいいや。電話なんて文明器具、思いついただけで涙ものだよ、あんたの場合。じゃあおれほんとに帰る」
 ソファを飛び出して、リビングを出る。セフィロスがのっそりとついてきた。
「おれの完璧なベッド、結局できなかった」
 靴を履きながら唇をひん曲げてみる。
「おれは別に永久工事中でもいい」
 振り返ると、セフィロスが唇を持ち上げて笑っていた。
「あっそう」
 靴のつま先で床を叩きながら、クラウドは云った。
「じゃいいや。のんびり作ろう」
 玄関のドアに手をかける。勢いよく開いて、できた隙間に身体を滑りこませ、そうして閉めながら舌を出してやった。閉まりかける扉の向こうで、セフィロスが苦笑いしているのが見えた。
 マンションを出て、クラウドはすぐに携帯を取り出した。
「あ、母さん? もう寝てた? まだ? あ、そっか、今日あのどんくさいドラマの日か。ヒロインがすごいむかつくやつ。うじうじしててさ、もどかしいとかいうレベル通り越していらいらする。なんであんなの見るわけ? え? 用事? そうそう、あのさあ、結果報告だけど……」
 彼はいま出てきたばかりの建物を勢いよく振り返り、ちょうどいままでいたあたりの階を仰ぎ見た。
「できたよ、たぶん。恋人的な」
 母さんの大笑いが受話器から聞こえてきて、クラウドは湧き上がる勝利感に浸った。