寮の規則なんてものは知らないけれども

 寮の規則なんてものは知らないけれども、最近、クラウドがぜんぜん寮に帰らないので、セフィロスはすこしだけ心配している。週末になったらお互いにマンションのひと部屋にやってくる、というスタイルは、悪くないと思ったのだけれど、それは恋の情熱というものを、やっぱりあまりにもばかにした話だった。矢のように過ぎ去る二日間。日曜の夜には、クラウドはあからさまに不機嫌な顔をしているし、セフィロスはセフィロスで、そんなクラウドを見ているのは気分が悪かった。ふたりとも、お互いのことを、もっと知らなくてはならない。それには、たかだか四十八時間の積み重ねでは、絶望的に足りないと思われた。クラウドは理解不能だし、セフィロスも自分がさほどわかりやすい人間だとは思っていない。なにかが。なにかが、ふたりを焦らせていることは、事実だった。時間がない。足りない。そういう焦燥感。なにが原因なのかは、はっきりしない。それほどに、歩み寄りたいのかもしれず、ひと肌を求めているのかもしれず、理解を、愛の充足を、求めているのかもしれない。お互いに、孤独のにおいを放っている人間どうし。
 クラウドは、とうとう先々週の日曜の夜、今日はもう帰らない、と宣告した。
「帰るのめんどくさすぎる。クラウドくんは、体調不良なんだ。そういうことにして」
 どこにそういうことにすればいいのか、彼は云わなかった。セフィロスはただ訊いた、それはいいが、規則上大丈夫なのか、と。軍隊は、組織だから、そこから逸脱することは許されないのだ。内部にいる限りは。たとえ、まだ十六に満たない、したがって正式に兵役につかせてはいけない、使えない連中だって。
「大丈夫もへったくれも、おれ最初からはみ出してるから、問題ないよ」
 どうでもいいという顔をして、クラウドはソファの上に寝転がった。ふたりはソファの上で、お別れの最後の最後の瞬間を、黙って受け入れるべく待っていた。それはじりじりする、落ちつかない時間だった。門限は十時。時計が進むことが、拷問みたいに思われてくる時間だ。一秒ごとに、別れへと近づいている。一秒ごとに、お互いの身体の熱は、また一週間後に向かって、離れてゆくのだ。
「最初からはみ出している?」
 セフィロスはクラウドの金髪をつかんで自分の方を向かせた。彼が問題児らしいのは知っていた。ザックスがこぼしていたからだ。当然だろう。クラウドをちょっと見ればわかることだ。彼は、型にはまれない。ひとと同調できない。ひとのやりかたに口をはさまない代わりに、自分のそれに口を出されるのも嫌いだ。自分以外のなにかに、なることができない。そういう人間もいる。とても自由で、うらやましいと思われがちだけれど、でもその生き方は、おそろしく大変だ。なにしろ前例がないから(それぞれの存在は、単一の、唯一無二のものだ)、全部自分で受けとめて、解決していかなくてはならない。非難される。あれこれ云われる。理解されないから、孤独だ。とても。
 クラウドは唇をへの字に曲げて、すこしだけ、なにかをこらえるような顔をした。怒りがこみ上げてきたのかもしれなかった。頬を、一瞬赤らめたから。
「おれ、顔の話嫌いだって云ったじゃないか。寮入ったその日に、同室のやつにからかわれたんだよ。どこの姉ちゃんだかなんだか。もう忘れた。っていうか、忘れたいから、思い出さないようにしてるけど。で、おれ自分の顔からかわれるの、人生で初だったんだ。母さんが、誇りを持っていいって云った顔だよ。むかつくじゃないか。自分がばかにされたっていうより、たぶん、母さんのことばかにされた気になったのかもしれないって思う。いま考えたら。で、かっとなったから……おれがかっとなったらどうなるか、知ってると思うけど……そいつのこと殴り倒して、止めに来たやつも殴りとばして、んでみんなまとめて、怒られたんだけど。やっちゃったかなって思ったけど、間違ったことしたと思ってないよ。自分のことばかにされてもなんにも云えないようなやつだなんて、思われるより百億倍まし。殴った相手がなんかたまたま、ボス面したいやつで、同期みんな巻きこんでおれのこと無視したとしてもさ、ずっとましだよ。だっておれだけは、そいつにへこへこしなくていいからね。ちゃんと人間でいられる。どっちみち、こうなってたと思うよ。おれひとと折り合いつけられないし、友だちだって、最初から作らなかったと思う」
 まったく、これではただでさえ帰りたくないわけだ。セフィロスは苦笑した。苦笑ついでに、頭をなでてやった。クラウドはいつものちょっとだけひとをばかにしたような顔に戻って、肩をすくめてみせた。この野生の猿みたいな子が、その身体で、心で、ほんとうに感じているもの。気位と、繊細さの、そのバランス。あるいはアンバランス。気にしてしまうとわかっているから、最初から気にしない。感じとるけれど、意識に下ろさずに、やりすごす。複雑な子だから、そうしていることが、きっととても多いだろう。でも意識に下りてこないとしても、確実に、日々感じているものはたまっていくのだ。きっとたくさんあるはずだ。毎日をやり過ごす中で、本人も気がつかずに、ためているもの。そういうものは、自分で気がつくか、あるいは誰かが気がついてやらなくてはいけない。彼のみずみずしい、鋭利な、そして怜悧な、感性。そこに触れてくるもの。切りこんでくるもの。はじかれるもの。セフィロスは、そのすべてがわかるような気がする。なにが、彼を傷つけて、なにが彼を、かき乱すのか。そしてなにが、彼を整えるのか。
 似ている。違うけれど、似ている。感性の向かう角度。その感度。結局、ふたりともすこし、感じすぎる。でもどちらもそれなりに自我が強くて、芯もあって、自己解決できるから、いつまでたってもそのままだ。状況も、なにもかも。それではだめなのだ。クラウドはまだ、それでいいと思っているだろうけれど、でもセフィロスはもう知っている。それではだめなこと。自分以外の力の、働きかけを、受け入れるようにならなくてはいけないこと。
「あんたもさ、友だちいたほうがいいなんて、ぞっとするようなアドバイスする?」
 クラウドがこちらの髪の毛をいじりながら云う。たしかに、そのアドバイスはぞっとする。正論だけにぞっとする。セオリー通りにいかない自分の身のやり場がなくなってしまうように感じるから。セフィロスは、肯定するつもりだ。クラウドのやりかた。クラウドのありかた。まだ完成されているとはいえないけれども、でもじゅうぶんに魅力的だし、官能的ですらある。
 よって、首を振る。クラウドは唇をちょっとすぼめて笑う。
「だから、帰るの、いやなんだよ。気にしなきゃ気にならないけど。でも、幸いなことに、仲いいひとがいないってことは、おれがいてもいなくても、おれのこと気にかけてくれるような人間もいないってことだよな。それって、なんか自由なことだと思う。この場合はいいことだよな? だからおれ、今日もここで寝る。誰も気にしないよ、おれがいなくても」
 そしてそれは、どうやらほんとうだったらしい。無断外泊したクラウドを、同期の連中は白い目で見たらしいけれども、それは当然のことだ。それよりも、誰も心配しないこと。大事なのはむしろ、こちらのほうだ。非難されることになら、クラウドはすっかり慣れっこになっているけれど、心配だけはたまらない。心配されるかもしれないという心配で、すっかり縮みあがってしまうから。
 こうしてクラウドは、だんだん寮に帰らなくなった。クラウドが帰らないから、セフィロスも田舎に帰れない、というより帰らない。クラウドはそれを、ちゃんとわかっている。わかっていて、あからさまに喜んだり、感謝したりする代わりに、とてもわがままな子になる。セフィロスはそれを叶えるのに、満足感を覚えたりする。
 けれども、たまにはやっぱり不安がよぎるものだ。せめて三日に一度くらいは、寮に帰らなくてもいいのか? クラウドは今週は、とうとう一度も帰らなかった。毎日セフィロスの部屋から出ていって、戻ってくる。ずっと前からそうしていたみたいに。セフィロスもずっとこんな生活を送っているもののように、クラウドを迎えて、彼が脱ぎ散らかした服を片づけたり、食事を出してやったりする。その食事を用意する未亡人に、セフィロスはせんだって交渉した。どうもほぼ毎日居座ることになりそうだから、できうる範囲で、食事を作りに来てくれまいか、と。なにしろクラウドが、未亡人の食事をすっかり気に入っているので。
 これでは、ここに定住することを、容認しているみたいなものだ。規則上、きっとよろしくないのだと思う。自分の知らないところで、クラウドはしこたま怒られているかもしれないと思う。ある日突然除隊処分をくらうかもしれないとも思う。そうなったら、どうするつもりなのだろう。こちらから、手を打つべきではないのだろうか。でもそんなことをしたらクラウドが怒るから、結局は、なにもしないでいるしかない。ほんとうにまずいことになったら、彼が腹を決めて相談してくれるのを、期待するしかない。

 そんなことをつらつら考えていたら、風呂場のほうでなにかが床とぶつかるものすごい音がした。セフィロスは考えるのをやめて、そちらへ歩いていった。脱衣所で、クラウドが下着一枚でげらげら笑っていた。
「セフィロス、見てよこれ。棚の底が抜けちゃった」
 クラウドは、横幅五十センチくらいの、二段組のプラスチックの収納棚を抱えていたが、底板が床に落ちていて、あたりにマンガ本や文庫本が散らばっていた。
「重すぎたんだ。ちゃっちいプラスチックだなとは思ったけど……予算けちったのがまずかった。これにビニールの袋作ってさ、風呂場に置こうと思ったんだ。風呂場用本棚。また棚探すとこからはじめなきゃ」
 クラウドは棚を床に放り投げるようにして置くと、本だけをそろえて床の一角にまとめた。
「今日風呂場でやること、なくなっちゃった。あんたも入る? おれ暇だよ」
 期待をこめた顔でそう云われて、セフィロスは、そうだな、と云った。床に、ちょっとしたへこみができているが、そんなことをクラウドは気にしないだろうし、云ったところで無駄だろう。傷のひとつもないような家なんて、家じゃないよ。たぶんそう云いかえしてくるだろう。そしてそれはそのとおりだ。実際、セフィロスもそう思う。傷も、壁にぶちこまれた釘の一本も、しみのひとつもないような家なんて、ぞっとする。あらゆる傷。汚れ。そういうものが、ひとつの歴史になる。この部屋で、ちゃんと誰かが暮らしていることの、あかしになる。
 セフィロスは小さく笑う。誰に怒られようが、どんな結果が待っていようが、いまのこの空間を、時間を、いまさら手放すなんてことが、できるわけがない。ひとりの時間に比べたら、とてつもなくうるさくて、しょっちゅうなにか起こって、とても大変だけれども。
 でも、気に入っている。心配したって、無意味なのだ。クラウドはやりたいようにやるし、それで云われる文句、生じる結果を、自分で受け止めるだけの覚悟はある子だ。クラウドが毎日ここに戻ってくるならば、そういう生活を、心から楽しんでみよう。クラウドがそうするように。そうして、家にいないあいだに彼がためこんでくるいろいろなものを、ここで解消する。ことばで、あるいは行為で、もしくは、なにもしないことによって。家は本来、きっとそういうところだ。そういう場だ。そういうふうになるための関係性を、毎日すこしずつ積み上げていく場だ。セフィロスはクラウドをバスタブの中へ勢いよく放りこんだ。クラウドがぎゃあぎゃあわめいて、笑った……考えない。セフィロスは決めた。先のことはなにも考えない。いまにはいまが、あるだけだ。それをちゃんと楽しむことだ。ほんとうに問題が持ち上がったら、クラウドの態度でわかるだろう。万事、そのときをもって、考えはじめればいい。責任は、厳密には、最初から生じているわけではない。なにかあったときに、生じるのだ。普段から必要になるのは、そのための覚悟だ。
 クラウドがずぶぬれのまま飛びついてきた。楽しそうだ。それでいいのだ。それでいい。彼が楽しんでいるならば、それでいいのだ。彼のよろこびは、こちらのよろこびになるから。そうやって、なにもかもをともにするわけだ。この関係によって生じたあらゆるもの……プラスのものもマイナスのものも、全部受け入れる。誰かと特別な関係を築くということは、そういうことだ。
 クラウドが所望するので、セフィロスは彼をもう一度、バスタブの中へぶちこんだ。クラウドはお湯から顔を出すと、またげらげら笑い出した。当面、これでいい。なにかことが起こるまで、この生活をとことん満喫すればいい。田舎も軍もなにもかも、ちょっと黙っていてもらう。ふたりの関係ができたてから、ある程度の落ちつきをみせる関係になるまで。