書類は、当然ながら、小さな波紋を

 書類は、当然ながら、小さな波紋を呼んだ。その紙切れの登場で、食事の席が、いっぺんにものものしい雰囲気になる。セフィロスはそんな書類は見たことも聞いたこともないと云い、第一、寮のルールなど知らないが、これは自分の責任だと云いだした。
「なんでだよ」
 クラウドはクラウドで、舎監さんを心配させた自分および、その真心に気がつかなかった自分を深く恥じていたので、つい口調が邪険になった。
「おまえは気に食わないだろうが、主として年齢の問題だ」
「すっごく気に食わないよ」
 クラウドは口いっぱいにイモをつめこみながらセフィロスを睨みつけた。
「だがどうしようもあるまい。おれがおまえより十年以上長生きしているのは、否定のしようがない。世間一般では、なにかあったときに責任を問われるのは年上の人間だ。未成年はそういう意味で、社会的に大いに守られている。もともと、あらゆる意味で責任は感じていた」
「未成年に欲情して手出した責任?」
 セフィロスは顔をしかめた。
「あからさまに云うな。みじめな気分になる」
「だって事実じゃないか」
 クラウドはデザートのクレープにかじりつきながら、そうは云ってもすこしだけ誘惑した自覚があるから、セフィロスばかり責められるのは、なんだか不公平かもしれないと思った。
「それはそうだが。一時期後悔し……」
 スプーンが顔面めがけて飛んできた。あらかじめ来るのを予測していたように顔に当たる前につかんだが、投げつけた本人を見ると、怒りに顔を赤くしていた。やってしまった。いまのは失言だった。おかげでニブル産クラウド名物の癇癪玉が破裂だ。
「じゃあはじめっから手出すなよ。いい、わかった、おれ出てく。クレープ食べたら。その書類返せよ。傷ついた」
 大口を開けてクレープを放りこみ、クラウドはきつい顔のまま立ち上がった。
「悪かった」
 セフィロスは素直に謝ったが、クラウドは無言でやってきて、セフィロスの手元にある書類をひったくった。
「そう怒るな」
 出ていくと云ったら、彼は本当に出ていく。たとえ、その数時間後に途方に暮れて、「腹減ったし迎えに来てよ」とかなんとかやるとしても。とりあえず捕獲の意味で腕をつかむ。また睨みつけられる。
「怒るだろ。やっちゃったそばから後悔するようなやつ嫌いだ」
 クラウドは自分の行動にあとから改めて迷うような人間が嫌いなのだ。特に、恋愛に関して。相手の愛情にかげりが見えるのは、耐えられない。そんなきざしが見えたら、とっとと背を向けてしまう。おそろしく極端だ。彼はいつも、愛されていなくてはだめだ。全身で。全力を注がれる愛が必要だ。彼の感度の高いアンテナには。それを感じられないと、自分が傷つく前に相手を捨ててしまう。
「実はちょっと興味本位だった、とかあとからぬかしたのは誰だ」
「おれ。おれはいいんだよ、子どもだから。あんた大人だろ? 後悔するくらいならやるなよ」
 云っていることはめちゃくちゃなのだが妙に説得力がある。言外にほのめかされているのは次のこと。後悔する程度の感情で手を出されたとは心外だ。そんな覚悟のない感情で。彼のプライド。自分の価値を知っているがゆえに、誰しも決して安く売り買いされてはいけないこともまた知っているから、ことに及んだ情熱が、早々にぐらつく可能性のあるものだったなどと示されたら、怒り狂う。セフィロスはため息をついた。
「わかった、悪かったから出ていくな。頼む。方角のわからなくなったチョコボ並みに途方に暮れる」
「そんなチョコボ見たことあんの?」
「一度だけ。とことん間の抜けたやつだった。進化論を肯定するとすれば、あんなチョコボは絶対に子孫を残せないだろうな。危険すぎて残してはいけない」
 チョコボの話題で、クラウドは怒りを殺がれたらしかった。まだ唇をひん曲げてはいたが。
「だいたいおれは、後悔しそうになった、と云うつもりだったのであって、した、と云う予定ではなかった」
「ほんとかよ」
 細められた、疑り深い目。こういう目をする猫がよくいる。
「ほんとうだ」
「そ。じゃ、許す」
 ようやく不機嫌を引っこめ、クラウドはおとなしくセフィロスの膝の上に腰を下ろした。この上逃げられてはたまらないので、右腕で彼の腹部を拘束する。
「話題がそれたが……」
「あんたのせいだよ」
 クラウドはセフィロスの胸に書類を押しつけた。セフィロスは微笑して、書類を広げた。クラウドがのぞきこむ。
「これさ、ほんとの情報書いたら、まずいよな? 部屋の住所とか、持ち主とか、おれとの続柄、関係とか。うそ書いても、書いたのがあんただったら筆跡でばれそう。もらったときは神さまありがとうって思ったけど、よく考えたら面倒なことひとつ増えただけな気がする」
「未亡人に頼むか」
 セフィロスがきまり悪そうに云った。
「なにを?」
「彼女の部屋のどれかを、隠れ蓑にさせてくれという相談だ」
「どれか? あのひと、いっぱい部屋持ってんの?」
「生家は不動産屋だそうだ。本人は不動産なんて金を転がすだけの商売はいやだと云っていたのに、結局それが一番向いていた。たぶん、ハウスキーパーより性にあっている」
「ふうん。なんかイメージ違う」
 クラウドは「いい母親」というイメージにぴったりな未亡人の姿を思い浮かべる。不動産業で金を生み出す野心的な匂いはどこにもない。
「金に困って仕方なく手を出したのだそうだ。いまも続けているのは、単に引っこみがつかなくなったせいだろう。黙って感謝しておけ。山ほどいる知りあいを利用して、ぜんぜんこことつながりのない人間に書類を書かせてくれるだろう」
「それ、頼んでいいの?」
「ほかに方法があるか?」
「ないね。あんたも知りあい少ないし。おれも友だち少ないし。寂しいなー、おれら」
 揶揄するような調子で云って、クラウドは自分が乗っている男にぐっともたれかかった。
「あ、でもさあ、この書類受理されたら、おれ正式にここんちにしかいられない子になるってこと?」
「なるな」
 セフィロスは重々しくうなずいた。
「別れたらおれ、終わりだね。この状況、ザックスにどう説明したらいいんだろ? あいつ、そのうちあんたのこと紹介しろって云うんだ。無理だろ、もう知りあいなのに。どうしよう? おれ正直に云ったほうがいい?」
「おまえが云うのか?」
「あんたが云うの?」
「責任問題から云えば……」
「ああ、わかったよ、もう。責任好きなおっさんめ。でもおれが云う。あんたが云ったら、あんたたぶん、ザックスと喧嘩になるよ。喧嘩、嫌いだろ?」
「好んでしたくはない」
「だろ? おれだったら、喧嘩になってもあいつ手加減してくれそうだけど、あんただと本気になりそう。いいけどね、一発くらい殴られても。目を覚ませー! とか。そういうの、ちょっと面白い。ザックスやらなそうだけど」
 クラウドはけらけらと無邪気に笑った。
「おまえ、楽しんでるだろう?」
「わかる? 実は。やなやつって自覚ある」
 クラウドは、この状況を心から楽しんでいる。目下同棲中であるうるさ型のおっさん(この呼ばれ方は心外だ、少なくとも、たぶんまだ二十代なのに)セフィロスと、そのハウスキーパーと、やかまし屋で監視の目を光らせようとする会社と、そしてふたりに共通の友人。どうあっても穏便にとはいきそうにない環境だが、クラウドの場合はたぶん、そういうのが好きだろう。巻き起こるごたごたの全部を、結局は満喫して、そしておそらく、乗り越えてしまう。彼に必要なものは、自分に注がれる愛だけだ。それさえあれば、放りこまれた先が地獄だろうが監獄だろうが、彼にはぜんぜん問題ではない。自分に愛を注いでくれる相手を得たいまとなっては、彼がこの世でおそれているのはただひとつのことだけだ。相手の愛を、失うこと。それ以外のことは、最終的にはちっとも問題ではない。
 セフィロスは書類を丁寧に折り畳んで、汚れないようにリビングのソファめがけて投げた。たかが紙切れ。それでも、先ほどクラウドが云ったように、この紙切れ一枚でクラウドの行き場が決まってしまう。ここから、めったなことでは離れられなくなる。それこそ、命がけの喧嘩をやらかすとか、お互い憎みあって、あっちとこっちを向いて別れるようなことをしないかぎり。
 セフィロスはどうも自分が、包囲網をせばめてクラウドを囲いこんでいるような気がしてならない。おそらくこれはふたりの年齢差に由来する感覚だ。けれどもどう囲いこんだところで、その気になれば、彼はどこへだって飛び立ってしまうだろう。どんなにいい餌を与えて、囲いこんだとしても。たとえばもしももっといい相手を、もっと自分を愛してくれる相手を、見つけたら。セフィロスは確信がある。捨てられるとしたら、おそらく自分だと。こんな考えを伝えたら、クラウドはそれこそ怒り狂って、一週間くらい帰ってこないだろうけれど。ああ、でも。とセフィロスは笑う。もうクラウドには、ここ以外に帰るところがなくなるのだった。あるとすれば、ぞっとするほど遠い、絶対に帰りたくない田舎しかない。クラウドは自分の田舎を、隅から隅まで嫌っている。ニブルのほうでも、おそらくクラウドみたいな風変わりなやつはお断りだろう。
 やっぱり、これは囲いこみだ。成りゆき上そうなってしまったけれど、たまたま、いまその機会が訪れただけだ。遅かれ早かれ、いずれセフィロスはクラウドをここに定住させてしまっていただろう。自分のところに。ここから出ていって、ここへ戻ってくる。いずれは、そもそも出ていく必要がなくなるかもしれない。ふたりして、どこか田舎へ引っこんだら。これもまた、セフィロスは確信がある。クラウドは、いずれ絶対に自分とどこかの田舎に落ちつく。彼は、兵士に向いていない。組織の中の一部ではいられない。もっと自由で、もっと奔放で、もっと、もっと伸びやかで美しいはずだ。こんなものでは終わらない。セフィロスはまだ、クラウドの発展途上の一部しか知らない。完成形まで、あと何年か。いまから、楽しみにしている。できあがったものの美しさを。そのうつろいを、目の当たりにするのを。
「なんかおれ、結婚でもしちゃう気分だな」
 クラウドが投げ飛ばされた書類に視線を送りながらけらけらと笑う。
「嫁に行く気持ちか?」
「そんな感じ。女のひとってそうじゃない? 偉いよな、名字変わった上に、男の家に行くんだよ。うちの田舎じゃ絶対そうだった。働くのはだいたい男だけでさ。逃げられないじゃないか。母さんは、男に依存してるだけの女なんてクソ食らえだって云ってたけど」
「おまえの母親も口が悪いのか」
 セフィロスはため息をついた。クラウドの口の悪さは、遺伝なのか。
「普段は手厳しいだけ。酔っぱらうと、ちょっとね。でも酔っぱらうのはたまにだよ。なんかあったときだけ。明日に持ち越ししないように、飲んで、忘れるんだってさ。アル中じゃないよ。そういうひとも、村にいっぱいいたけど。毎日もの壊して喧嘩してるいかれたやつとか。あんたさ、おれの母さんに会いたい?」
 クラウドが顎をあげたので、セフィロスの顔をおっ立てた金髪がかすめた。
「なぜ?」
「興味あるかなと思って」
「興味はあるが、会いたいか、と云われると複雑だ」
 ちらちらと邪魔な金髪を、手で押さえこんで、視線を合わせる。
「そこまでいったら、完璧に嫁にもらう相談になってしまう」
 クラウドはなぜか、げらげら笑いはじめた。
「どうしようもないな、それ」
 ほんとうにどうしようもない。クラウドを囲いこもうとしている自分も、そしてたぶんそんなことはお見通しのクラウドも、どっちにしたって悪くないと思っている、ふたりとも。